小さな手のひらが、俺の指をそっと掴む。左手をそ、とたどっていったその白魚は、俺の左指の根元で動きを止めた。
「・・・・これ」
鈍く光る銀色の指輪を、そっと撫でられる。
「・・・ああ、結婚するのだよ」
「そうですか」
四十センチ近くも身長差があると、顔を見るにも一苦労だ。うつむかれてしまうと、どんな顔をしているのかさえ解らなくなる。
「・・・黒子?」
手を抜き取って肩に触れる。ビクッと跳ねたそれは、驚く程薄くて、職業柄俺は思わず彼女の心配をしてしまった。前会った時でさえ、ここまでひどくは無かった気がする。
「・・・・どうした・・・?」
手にかかる、もうずいぶんと長くなっている髪に触れる。なんだか触り心地まで悪くなった気がした。そっと両手で顔を包んで、優しく(出来る限り優しく)上を向かせる。かぶりをふって、俺の手を掴んで外そうとするのを押しとどめた。
「・・・・・・・っ」
そこにいたのは、一人の傷ついた女だった。
「お、めでとう、ござ、いま・・・っ」
ガラス玉の様な瞳からぼろぼろ流れる涙を見て、
思わず口づけてしまった俺は悪くない。
22「んんっ・・・・っふ、ひっ、」
「泣くな・・・っ」
「ごめ、なさっ、ぁ、ごめ・・・っひぅ」
「泣くなと、言ってるだろうがっ・・・」
身体をつなげる度に黒子は泣く。離れれば腰に足を絡めて、突き放そうとすれば背中に短い爪を立てる。口では泣いて謝るのに、身体だけは離そうとしない。口を開けば謝るので、緑間はいつも口を塞いでいた。口づけてやれば涙も薄れる。眉間の皺がほどけて目がとろけ、安心しきった顔になる。こんな事はもうやめなければと思うのに、緑間はいつも、黒子のこういう顔を見るとその気をなくす。
33 黒子のベッドは狭い。平なチェアベッドがおいてあるのでかろうじて長さは足りているが、二人寝るにはひどく狭くていつ落ちるかと不安になってしまう。だから緑間は広い胸にその小さな身体を抱き込んで眠る。
黒子は大抵、終わった頃には泣きつかれて眠ってしまう。涙の跡が残る頬を優しくさすって胸に引き入れるだけで、苦悶の表情が安心に変わる。そんな黒子が可哀想で、不憫で、悔しくて、でも、愛おしくて。なんて不毛な事をしているのだろうと思いながら、緑間はこの関係をやめられなかった。
だって、愛しているのだ。
色々と遅すぎた。そんな後悔が、いつだって緑間の胸を巣食っている。特に黒子を抱いた次の朝には顕著だった。もし、ほんの少しでも早く黒子に気持ちを伝えていたら。家の決めたとはいえ、最終的には自分の意思で結婚した妻にも申し訳が立たない。緑間よりもだいぶ若い、いい所のお嬢さんだ。家事が得意で料理も美味い。将来いい所に嫁げるようにと母親に仕込まれた結果だ。それなのに、緑間は彼女を愛せない。緑間が仕事帰りに黒子の家によって、彼女を抱きすくめてその華奢な身体を愛撫している頃、彼女は緑間の為に作った料理を用意して待っているだろうに、たとえ緑間が夕食をいらないといっても作って待っているだろうに、そんな彼女に緑間は応える事が出来ないのだ。
もっと早く告白していたら。そうしたら、何かしらの未来が変わっていたかもしれない。そうは思うけれど、緑間は今この関係を、次々と差し出される麻薬のようには感じても、チャンスだとは思わなかった。思えなかった。
なぜなら彼は、黒子が彼を愛して涙を流しているわけではないと、知っているから。
偶然に、偶然が、偶然にも重なって、巡り巡ってこうなっただけ。
自分の運命論を、こうも呪いたくなったのは産まれてはじめてだった。
44 ぬくぬくと自分を包み込む熱に、黒子はとろとろと目を開いた。目の前にはたくましい胸板が広がっていて、その暖かさに顔を寄せれば、かすかな吐息が頭上から聴こえて来る。どうやら枕にしていたらしい右腕からそっと頭をあげて、上を見る。学生時代から相変わらず長いまつげがふるりと揺れて、黒子は泣きたくなった。
うっすらと隈がある。皺もある。当たり前だ。外科医は激務なのだ。過労死する人だって多いと聞く。あげくの果てには妻がいて、それなのに二十年来の友である自分を見捨てられなくて、こんな人目を忍ぶ様な関係を築いてくれているのだ。ストレスになるに決まっている。
行為が済むと黒子はいつも眠たくなってしまう。朝起きればきちんとかけられた毛布の下には、丁寧に清められてパジャマを着せられた自分の身体がある。その度に黒子は、心がどうしようもなく嬉しいと叫ぶのと同時に、言いようの無い寂しさに落ち込む。思いやってくれているという暖かい喜びに、ああ彼はかえってしまったのだという落胆。暖かい家に、可愛い奥さん。そんな帰るべき場所に、緑間は帰っていったのだ、と。
もちろん、そんな事で一喜一憂する資格が自分には無い事を、黒子はよく知っていた。なぜなら自分たちの関係は、黒子が一方的に迫ってもったいわば不倫だ。最終的に緑間が自ら望んでそうなったとしても、彼がそうしてくれるように裸を晒したのは自分だ。自分は彼の愛人で、それ以上でもそれ以下でもなくて、本当は元チームメイトだとか中の良い長年の友人だとかいうステータスが自分にはあったのかもしれないけれど、こんな関係になってしまった以上、黒子は堂々とそれを名乗れなかった。
「・・・今日は・・・帰らなかったんですか・・・・?」
先ほどから自分の身体にまわされている左手がずいぶんと長くなった髪を梳いているので、起きているのは解っていた。涙と喘ぎで掠れた声で訪ねると(訪ねずにはいられなかったから)、緑間は髪を梳くのをやめて黒子の額に口づけた。
「・・・お前が、いくなといったからな」
その言葉に、黒子は愕然とした。緑間は相変わらず黒子の頭を撫でたり口づけを顔中に降らせたりしていたけれど、黒子はショックで動けなかった。
いくなと、いかないでと、言ってしまったのか。なんて傲慢なんだろう。なんてわがままなんだろう。
だって緑間は、知っている。黒子が緑間を選んだ訳じゃないという事を。
たまたま緑間が最後で、たまたま緑間が結婚を「する」という未来形にあって、たまたま、そうたまたま。
全てが偶然の上に成り立って、黒子が緑間に迫った。緑間がいいというわけじゃなかったのに、たまたま彼がそこにいたから黒子は彼にすがったのだ。当然黒子に、彼に他の何かを求める権利も資格もない。彼に口づけてもらえるだけで、熱に浮かされた頭で愛をささやいてもらえるだけで、自分の深層を愛してくれるだけで、それだけでいい。優しくしてくれなくていい。そういう関係だ。そういう関係に黒子がもっていった。なのに、いかないでと言ってしまったのか。
緑間じゃなくてもよかった。もしあの時いたのが紫原でも青峰でも黄瀬でも赤司でも、黒子は間違いなくすがった。
それなのに緑間は、そんな最低な自分の願いを聞いて、一晩中こうやって裸の胸を合わせながら、右腕を枕に差し出して、黒子の額に口づけて、優しく優しく抱きしめて、一晩中こうやって、一緒にいてくれたのだ。
「っ・・・・・・ごめんなさい・・・っ」
腰は鈍痛で痛んだけれど、きっとみっともない裸だろうけど、黒子は緑間の腕からすり抜けてベッドに座った。土下座をする勢いで頭を下げる。
「ごめんなさい、ごめんなさい・・・ごめんなさいっ、・・・ごめん、なさい・・・っ」
「くろ、」
「ごめんなさいっ!もう、そんな、わがままとか、言いませんから・・・!だから、だからっ」
「黒子っ!」
「だから、お願いだから」
自分が、いつの間にか緑間を愛してしまっている事を彼が知ってしまったら、彼はきっと思い悩むだろうから。こんな情けない、こんなどうしようもなく落ちぶれた自分を見捨てられなくて、更なる泥沼に嵌ってしまうだろうから。馬鹿な事はもう言わないから、
「捨てないで・・・!」
「っ・・・・ この、馬鹿・・っ」
泣き叫んだ黒子を、緑間はきつく抱きしめた。捨てない。捨てる訳が無い。捨てられる筈が無い。緑間は自分も悪いと思っている。突き放せなかったのは彼の不必要な優しさだ。まだ婚約の段階だったのだから、黒子を選ぶなら破棄すればよかったのだ。それなのに結婚はしつつ、黒子とはこんな関係を結んでしまった。
捨てられる訳が無い。緑間は、ずっとずっと黒子を愛していた。それこそ中学の時から、ずっと。
黒子の手を取りつつも結婚したのは、黒子が緑間を選んだ訳じゃないと解っていたから。解っているのにすべてを捨てて黒子を抱く勇気が、自分には無かったから。とんでもない臆病だから。それでもこんなつかぬ間の優しさで黒子の首を絞めるくらいなら、きっぱりと突き放せばいいと思いつつもそれができなかったのは、黒子の事を愛していたから。ずっと、ずっと。きっと自分以外の誰かに愛されてそれを愛して、きっと幸せな人生を歩むだろうと、ずっと信じていたから。なのに赤司も、黄瀬も、紫原も、桃井も、黒子以外の人を選んだから。青峰さえ間違わなければ、きっと既に彼女は幸せの道を歩いていただろうけども、それでも彼も他の人を選んだから。
光を支える影でありたいと望むのに、誰よりも孤独を恐怖する、そんな小さな彼女だから。
捨てる訳が無い。捨てられない。お互いこんな関係は毒だというのに、それでも麻薬のように、止められない。
止めたくない。
55 優しすぎる君の心を、侵略するから。
どうか今のうちに、逃げて、逃げて、逃げて。
66 寂しがり屋なお前の心を、侵略するから。
俺に愛されている事に、気付け、気付け、気付け。