そうだ、京都に行こう。【京都編】



1

南十字男子修道院。
梅雨も去って学生はついに夏休みに突入し、最近はこの先が心配になるほど、既にほんの数分突っ立っているだけで汗が落ちる程あつい。そんな中、修道院の食堂で藤本燐は修道士たちのために昼食のドライカレーを作っていた。男は皆暑いといって冷えたものを食べたがるが、主婦歴の長い燐からしてみれば暑いからこそ熱いものを食べるのがきちんとした健康につながるというものだ。野菜とお肉をたっぷりいれて、スパイスも多く辛めに作ったそれは食べればたくさん汗をかいて体にもいいだろう。鼻歌を歌いながら黙々と野菜を刻んでいく。ほんの数日前大変な事故があって以来仕事に忙殺されている夫が、今日仕事を一段落つけて帰って来る予定なのだ。そして突如甲高い音をならしながら着信を告げる携帯の音に尻尾をぴん!と跳ねさせ、燐はぱたぱたと走りながら子機をとった。
「はいはーい」
『おう、俺だ』
「獅郎!帰り何時?」
『や・・・それが・・・な』
聞こえてきた夫の声にテンションがあがって嬉々としてそう訪ねれば、かえってきたのはもごもごとした、気まず気な声音だった。
『ほら、ついこの前不浄王の左目の話はしただろ』
「・・ああ、あの藤堂っつーおっさんに盗まれたっていう?」
『ああ。・・・そ、そんでぇー、まー左目がありゃ右目もあるんだけどぉ、それも危ないらしくてー・・・・』
「・・・つまり?」
『つ、つまりぃ』
「かえって来れないと?」
『うっ・・・』
「・・・・帰ってこれないんだ・・・・」
『いや・・!す、すぐ!すぐ帰って来るし!・・・・・ごめんなさい』
「・・・・しらん」
ぶすっとそう言って受話器を置こうとすれば、何かを察したのかわー!と受話器の無効で夫が叫んだ。
『待て待て切るな!そこで!俺思ったんだけど!』
「・・・なに」
『お前、久しぶりに俺と任務にこねぇか』
「えっ」
『最近はお前までかり出されるような任務は無かったから、暇だろ?』
「暇だけど・・・いいのか?」
『俺奥さん欠乏症で久しぶりに煙草に手が出そう』
「コラ禁煙」
『で、どうだ?二人で新婚さん時代みたいに京都旅行〜〜なんつって』
「いく!」
『おし、そうこなくちゃな。詳細はメールでおくるわ。出発は明日の朝』
「わかった!」

愛してる、そういって電話をきる。先ほどとは比べ物にならないくらいご機嫌だ。気分がじわじわと最高潮に達していくのを感じながら、燐はカレー作りを再会させた。

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2

「あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜あっちい・・・・・・」
京都の夏は暑い。ガイドブックにもそう書いてあったが、まさかここまでとは予想もしなかった。頭の上ではにゃんにゃんにゃんにゃんクロが歓声を上げていて、とても可愛いと思うのだけれどもさすがに熱く、燐は何も言わずに頭から引きずりおろした。
『わぁあ!みろ、りん!でっかいかいだんがあるぞ!』
「うん?うおおおすげええええ!何あれ!上ってみる!?」
『のぼるぞ!』
クロは普通の人には見えないので、抱えていると「何かを空中でつかんでいる人」に見えてしまう。肩にのせたまま階段めがけて走り出し、そして転んだ。クロが慌てて頬をなめてくる。
『りん!だいじょうぶか!』
「へ、平気・・・・。ひゃくなんさいにもなって転ぶなんて・・・・」
は、恥ずかしい。ちょっと赤くなった頬をさすって立ち上がれば、慰めのようにクロが飛び跳ねた。
『おれもひゃくなんさいだ!』
「そーだな、あんまうれしくねーわ」
そのまま二人で音声じゃんけんをしながら(クロの手は所詮どこをどうした所でただの肉球なので)遊んだり、どっちが早く駆け上がれるかを競争したり、屋上庭園に行ったり。みせすどーなっちゅでおやつを食べたりしている内に午後三時を過ぎていた。
『りん!けーたいがひかってるぞ!』
「んー?メールかな・・・って着信五十件て怖ぁああああ!」
着信の全ては夫・獅郎からだった。ちょっと震える手でリダイヤルボタンを押せば、ワンコールもしない内に獅郎の声が聞こえてきた。
『燐っ!?お前今どこにいんの!?』
「あっ獅郎?ごめんごめん」
『・・・・まさかまた迷子になったとかじゃねぇよな?』
「そんなんじゃないって〜クロと京都駅で遊んでた!」
『遊んでたのかよ!』
電話越しでも、夫ががくりとうなだれている姿が想像できる。クスリと笑って、燐はつい先ほどまで大量のドーナツが積み上げられていたはずのトレーを持って立ち上がった。返却台に直し、パン!と手でスカートについたカスを払う。財布と携帯と化粧ポーチだけが入ったショルダーバッグを肩にかけて、燐は笑いながら正面出口へと向かった。
『ったく・・・午後三時頃にはこっちつくって言ってたから待ってたっつのに』
「ごーめーんて!」
『今どこだ?』
「いま京都駅出たとこ!ろ・・・?・えーっ・・・・えー・・・あれ?」
『ん?』


「ここ・・・・・・・・・・どこ?」


喋りながら歩いていたら、結構な距離を歩いていたらしい。

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3

「あーもう!どこにおんねん?」
額から滴り落ちる汗を拳で拭って、竜士は声を荒げた。隣ではげっそりとした廉造がジョリジョリと無心になって固いアイスを頬張っているし、左側では子猫丸が暑いですねぇと熱い息をはきながらハンカチで額を拭っている。
「藤本神父によると、この辺におるはずなんですけど・・・」
「だいたい特徴が『見ればわかる』てなんやねん?もっと特徴的な事言わんかい!」
「ねぇ・・・『ビックリする程のべっぴんさん』て・・・」
京都組三人は今、祇園河原町の祇園通りにいた。今回増援部隊に加わった彼らだったが、京都出身ならではの「お使い」を言い渡されて三人でやってきたのだ。どうやらお使いの目的である探し人は京都駅を出たあと、持ち前の底なし体力でふらふらと歩き遊び回った結果、河原町にたどり着いたらしく、そして完全に迷ってしまったという。その人は地図を読めないというし、京都も来た事が無いらしいので土地勘もまるで無い。切羽詰まった状況の中わざわざ経費でタクシーを呼ぶのもあほらしいという事で、三人が人探しに駆り出されたのだ。幸い虎屋と出張所はそう遠くない。人と車の多い都心からは離れているが、山奥という程でもない。それに京都はその総面積の割に人の住むところは割に密集しているので、端から端まで行こうとしさえしなければ大抵が歩いていける距離にあるのである。
「うわ見てぇ猫さん、スタバにめっちゃ足の綺麗なオネーサンがおるぅ」
「志摩、お前黙っとき」
暑さの為か先ほどから廉造は役にたたない事ばかりを口に出す。八坂神社からほど遠くない場所にある有名な喫茶店のオープンテラスに足を組んでコーヒーをすする女性に目尻を足れ下げた。
「・・・あれ?」
しばらく歩いて左手に花見小路通が見えると、それまで黙々と歩いていた子猫丸が声を上げた。ん?と二人が反応すると、子猫丸は先導するかのように通りに入り、そして二人に伺うようにある女性を指差した。
「あそこの・・・・ちゃいます志摩さん、そっちやのうて、もうちょっと左の、白いフリルシャツゆうんですか、それに短い黒いスカートはいとって、黒髪の長い、」
「あの茶屋の窓興味深そおにのぞいてるあん人か?」
「ハイ、あの人の肩にのってるの、猫ちゃいます?」
猫好きの子猫丸の言う事だ、間違いはないだろうがと重いながら目を凝らすと、確かにその女性の肩には黒猫とおぼしき小さな生き物がちょこちょこと動いていた。時折前足を頭にのせたりメニューを見ようと首を伸ばしたり、遠目からも可愛らしい。かいらしいですねぇと子猫丸がのほほんと呟き、密かに動物好きであったりする竜士もせやなと小さく頷いた。確かに機嫌良さげにゆらゆらと揺れる二本の尻尾は微笑ましい。・・・ん?
「・・・猫さん猫さん、ちょお俺の目の前でピースしてくれへん?俺目ぇ悪なったかもしらへん」
ごしごしと目をこすり、志摩は二人に助けを求めた。が、それも子猫丸のコメントによってむげにされた。
「や、僕も二本に見えとりますよ、あの尻尾。え、二本になっとります、あれ?」
「なっとるなっとる。・・・・なんや頭わんわんしてきた、熱中症かもわからん!」
「アホウ!」
ペシンと阿呆な事ばかりをいう幼なじみの頭をはたいて、竜士はうなった。子猫丸は子猫丸で初めて見る猫の現象にどこかうっとりとしているし、目はきらきらして輝いていた。あの実習で地の王アマイモンの襲撃を受けてから塞ぎ込みがちだった彼の久しい笑顔を見れて、竜士も幼なじみとして大変うれしい。が、今はそんな事ではなくて、アレはあきらかに。
「悪魔やろ!あら猫又や、猫又!」
「猫又!」
「子猫丸、そんな喜ぶな!」
「せやかて猫又て!うっわぁええなあ、僕も猫又使い魔にしたいですぅ」
「お二人とも盛り上がっとるトコ悪いんですけどぉ、猫又が肩に乗っ取って普通にしとんのやったらあの人が『そう』なん違います?」
志摩が女性を指差した。彼女はあっちへふらふらこっちへふらふらとどうやら完全に京都を楽しんでいるようである。あ、と納得してしまった二人を見て、志摩はやっと任務完了や、と夏特有の熱のこもった息を吐き出した。



※※



その数十分前。




候補生たちがお勉強の為、と仕事を一旦切り上げ、シュラに先導されて旅館内を歩いていると、彼女は今から彼らを聖騎士に紹介する事を伝えた。聖騎士という、一介の候補生からしてみれば雲の上の様な存在との邂逅に慌てふためいた彼らではあったが、いつものようにひょうひょうと笑いながらシュラは、そんな緊張してやる事など無いような価値のオッサンだとのたまった。
「で、でも、聖騎士でしょう!?」
「そー今年で就任・・・・あー、じゅう・・・16年だったかにゃ〜。ただのオッサンだけど」
「ええんですか、僕らみたいな下っ端が会って」
「いーのいーの、どうやらあいつお前らにお使い頼みたいらしいし?」
「お使い?」
この年齢になってしまってはあまり聞き慣れない言葉に、出雲はピクリと反応して聞き返した。
「まぁ候補生六人使ってやる様なお使いはないとおもうけど。ってかとりあえずお前ら聖騎士の顔と名前はこの知っおかなきゃなんないし、見学会だと思って気楽に行け」
「はぁ・・・」
「ほんで先生、その聖騎士はどこの部屋におるんですか」
「んにゃ?椿の間」
「・・・・・先生、反対方向ですわ」
旅館で育った旅館の息子が、遠慮がちに進言した。



「獅郎、はいんぞ」
「おう」
シュラに変わって一同を先導した竜士が部屋の前まで来てシュラにたち位置を変わると、シュラは中の人物に声をかけるや否や礼儀作法もなしにふすまを開け放った。ずかずかと中に入っていき、慌てて候補生たちも中に入る。そこにいたのは座椅子にどっかりと背を預けた初老の、眼鏡をかけた男性で、服装はどの祓魔師たちとも違う、神父が着る様なカソックだった。シュラが子供たちに座るように手を払い、自分自身も座布団を引き寄せて座った。聖騎士の手前、無礼な事でもすれば何が起きるかわからない。この旅館の息子である勝呂さえも緊張したように畳の上に正座していくのを見て、男が愉快そうに笑った。
「はっはっは、緊張してやがる」
「足崩してもいいぞー」
同じく面白そうに笑ったシュラが声をかけると、とたんに志摩が真っ先に足をくずしてあぐらを掻いた。他も倣うように各自座りやすいように体勢を変え、落ち着いたところを見計らってシュラが口を開いた。
「んじゃ、お前ら・・・こいつが聖騎士の藤本獅郎。・・・で、獅郎。こっちがぴちぴちのエクスワイアちゃんたちだ。」
「おう、話には聞いてるぜ。今年は豊作だってなぁ」
「豊作だなんてそんなぁ」
すっかり緊張の糸が解けたのか、お調子者の名を欲しいままにする廉造がにっこりと笑う。そんな和やかな雰囲気を数分続けた後、藤本はおもむろに候補生をわざわざ呼びつけた用件を話した。

「こんなかで京都出身の奴いる?」
藤本のそんな問いに顔を見合わせながら竜士と廉造と子猫丸の三人が手をあげる。おっという顔をしてから、藤本はあーよかったと言わんばかりに椅子に沈んだ。
「三人もいんのか。割と詳しい方か?自分の通学範囲外はからっきしってゆーインドアな餓鬼も最近は多いからなぁ」
「あ、それは大丈夫、です」
確かに三人とも幼い頃から寺の手伝いばかりであまり娯楽のための外出というのをした事は無いが、それでも歴史と伝統が重みをもってのしかかって来る家に生まれたものとして、京都の歴史と地理はいやという程叩き込まれている。更に道路だけを言うならば大昔とさほど代わり映えをしない京都だから、どれほど建物が乱立し都会じみていても、そうそう迷う事は無いだろう。
「そーかそーか!イヤーよかった!実はうちの奥さんが迷っちゃったらしくてよぉ」
「は?奥さん?」
「そう、奥さん。迎えにいってほしいんだわ
あっけらかんと言い放つ藤本に思わず聞き返し、その単語が間違いでなかった事をわかると、京都三人組は困惑した表情を浮かべた。補足するようにシュラが横やりを入れる。
「獅郎の奥さん、燐っていうんだけど、今回増援部隊に参加してくれる事になった。つってもまあバックアップ要員なんだけど、名誉騎士だからさ、むしろ得する事ばかりだよにゃ〜」
料理美味いぜ、と笑うシュラに大いに同意しながら、藤本はちょっと待ってなと声をかけてから携帯を手に取った。
「ーーーおう、燐。今どこだ?・・・え?いやワカンネーじゃねぇよ、周りに何があるんだ?・・・・うん?でっかい川と?・・・でっかい橋と?・・・川縁に無駄にカップルがわさわさしてやがる?・・・となりに高級そうな中華レストラン?」
「あっ、わかった」
ピンと来た志摩が声をあげ、彼は隣の二人にほらほらと手を地図を描くように動かしながら、ここがこうで、と切り出した。
「奥さん多分先斗町の入り口らへんにおるんちゃいます?でっかい川って鴨川でしょ、カップルのうじゃうじゃいる所やし、橋でかいしね?橋の両端で目立つもん言うたら普通は南座やけど、ちゃうなら反対側やろ、たしか右に川床のある中華料理屋あったと思うし」
「ああ、せやなぁ」
「助かったわ。おう燐、聞こえたか?今からお前迎えやるから、動くなよ?・・・え?もう移動した?ったく・・・今度はどこだ。・・・吹雪?馬鹿、歌舞伎だろ?おい、歌舞伎のあるところってどこだ」
「南座やな」
「南座ですねぇ」
「お前そこで待ってろ。・・・え?どっか座っとけ!」

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4

「つ・・・・ついた・・・・」
げっそり。
まさにそう形容するのがぴったりな程、竜士はやつれていた。左では子猫丸が猫と楽しそうに戯れており、右では廉造がきゃっきゃいいながら美女と会話をし、あっちへふらふらこっちへふらふら。さほど遠くもない筈の虎屋にやっとついたとき、時刻は夕餉に近かった。夏なのでまだまだ外は明るいが、しかし疲れた。まさか自分の家にいつつけるのかわからないなんて事があるなんて。疲れた。
「坊!お帰りなさい!」
「おん・・・ただいま・・・・」








「あのう、藤本燐さん、ですかぁ?」
「風流で赴きのある」茶屋をのぞいている途中かけられた声に、燐はクロと一緒に振り返った。大中小の男の子たちが自分をじ・・・っと見つめていて、思わずたじろぐ。そうだけど、と小さく頷けば、真ん中の頭頂部だけ金髪に染めたでかい子が初めまして、と外見にそぐわない丁寧な物腰で話し始めた。
「俺ら正十字学園で祓魔塾に通ってるモンで、候補生やっとります。あの、今回の京都遠征の任務のために、藤本燐さんをお迎えにいく、っちゅーのを聖騎士の藤本神父に頼まれたんですけど」
図体ばかりでかい男子高生に囲まれてはたじろぎもするだろう、ほんの少し警戒気味な女性を安心させるように子猫丸がにこっと笑えば、ほっと和らいだ表情と共に彼女が笑った。
「あっ、もしかしてシュラの生徒?あ〜わざわざ迎えにきてくれたんだ、ありがとー」
藤本燐です、そういいながら握手を求めて来る快活さに先ほどまでの暑さも忘れて廉造がにへらっと顔を崩した。ここぞとばかりに手を握り、いいぇえなんて返している。
『りん、なに?なに?』
「んー?獅郎の生徒だよ」
『しろうの!?しろういるのか!』
「今から獅郎のとこにいくの。もうちょっとおとなしく待ってろ」
「かわええですねぇ」
クロがぐいぐいと顔を頬に押し付けている様に頬を染めながら子猫丸がコメントすると、燐は笑いながらクロをつかんで手渡した。
「おっなんだ、猫すき?」
「はい!あ、初めまして僕、三輪子猫丸いいます」
「こねこまる!猫すきそうだなぁ。俺の使い魔のクロです」
ポケットからちりんと鈴のなるマイ猫じゃらしを振りながら、はいと子猫丸が頷く。子猫丸の腕の中におとなしく収まっているクロの頭を撫でながら、燐は残りの二人を見た。
「ごめん、結構な時間探しまわってくれたんだよな?なんか冷たいもんでも奢る?」
「やっええですええです、候補生の仕事のうちですって」
「そーお?ならいいけど・・・・・ん?」
慌てる竜士から目をそらし、隣の志摩を見やる。本当はぜひ冷たい物でもごちそうになりたい所ではあったけれども、竜士の言う事ももっともで、残念やなあという気持ちを押し込めて笑みを浮かべると、その顔を見た燐がいぶかし気に志摩の顔を凝視しはじめた。
「お前、なーんか見覚えあるなぁ」
「え、ほんまですか」
どこやろ。こんな美人なお姉さんを、まさか忘れるなんて事はある筈ないのだが。
「・・・・・んん?・・・・えっあれっ、ええええ!?」
うっわあべっぴんさんが俺の顔覗き込んでるてええなぁ、なんて思っていたのもつかの間。がしっと顔をつかまれて、志摩は不細工になっている自覚がある顔を痛みで更に歪ませた。
「いだだだだだだだだだだ!」
「じゅーぞー!どうしちゃったのお前髪なんか染めて!!んだこのワタアメみてーな頭は!」
思いっきり掴み揺さぶり回しながら、燐はショック!と落胆を隠さずに叫んだ。
「あの真面目だったお前が!ひんこーほーせーで教師受けもよかったお前が!どうした?何があった?いじめか?リンチか?失恋か?じゅーぞ、先生に言ってご覧!」
「いだだだだだうばばばばばば」
「こんな・・・っああああじゅーぞ!」
「ご、誤解です、俺じゅーぞーやありません!れんぞーです!」
「れんぞー!」
「はいいだだだだ柔造は俺の兄貴です!」
半狂乱と表現しても言いだろう彼女の錯乱っぷりについに根を上げた廉造が、ギブアップ!とばかりに手を挙げる。はっきりと自分と柔造の関係を述べた所で、ねじの回りきった人形のように燐はピタッ!と動きを止めた。きょとんとした顔が大変可愛らしい。でも掴まれたままの顔は丁寧に整えられた爪が食い込んでいて大変痛く、正直廉造はもう離してほしかった。のだが、いかんせんこの彼女、なにやら力がめっさ強い。
「・・・兄貴。」
「はい・・・」
「れんぞー・・・?」
「はい・・・」
そろそろ離してくれんやろか、ほらぁ坊も子猫さんもめっちゃ見てはるやん!と思い、だんだんとおとなしくなっていく彼女に一縷の希望を見いだしたのもつかの間。
「っああああ!お前『れんちゃん』だ!」
再び力を入れてガシッと掴まれた顔が、今度は阿呆のようにつぶれた。燐が両手のひらで包み込むようにして廉造の顔を挟んだからだった。コレには参った。
「りっりりりりりり燐さんっ」
顔が近い!近い近い近い近いうっわあああまつげ長いーーー!
「おまえ、『れんちゃん』だろ!?七月四日生まれのO型で虫が嫌いな甘ったれの『れんちゃん』じゃねぇ?」
「へっ」
ようやく離してもらえた顔をさすりながら、廉造は燐を見た。名前廉造であってる?と聞かれ、頷き、小さい頃れんちゃんって呼ばれたか、という問いにも頷く。確認するかのように廉造のタレた目元を指でなぞって、燐はからからと笑った。
「いや柔造がよく俺に写真見せにきてたのよ、『先生見てください、これうちのれんぞーっちゅーんです、かわええでしょかわええやろ今五歳やねんめっさかぁええなあれんぞおもうかーいーかーいーめっっっっちゃかーいぃれんちゃんかあええわあ』って」
「何言うとんねん柔兄・・・!恥ずかしいわ・・・・!」
うわあもうお嫁にいけない!子猫さぁん!
暑い、と子猫丸が肩から廉造の顔を押しのける。彼はクロと遊ぶので忙しく、汗まみれの幼なじみのクソ熱い体温など引っ付けている余裕は無いのである。
「うわぁそっくり!」
もっと見たい、みして、とぐいぐい来ようとする燐をやめてくださいとがんばっていなして、一同はいつの間にか四条通の喧噪を抜けていた。あと歩いて三十分程行けば、虎屋がぐっと近くなる。

前途多難や・・・。
そう危惧した竜士の思った通り、彼らはそのあと一時間半かけてようやく虎屋にたどり着いたのだった。