疲れた。

大きな手術がようやく終わり、患者さんも峠を越えた。容態の安定に皆で喜び、飲みにいかないかという誘いを断って雪男は帰路についた。気付けばもう四日は帰っていない。帰って早く、愛息子の寝顔が見たかった。
「・・・ただいま」
細心の注意をはらって鍵を開ける。息子は音に敏感な子供だった。加えて雪男の小さい頃にそっくりで、寝付きも悪ければ寝起きも悪いので気をつけなければならなかった。そうっとそうっと靴を脱ぎ、真っ先に子供部屋へと向かう。テントの様な天涯つきのベッドは息子のお気に入りだ。寝転んで上を見ると星空の模様が広がっていて、寝付きの悪い息子が少しでも心地よく眠れるようにと休日二人でIKEYAに行って買ったものだ。
「・・・ゆー、ただいまー・・・」
指でふわふわの髪を撫で付け、まろい頬にそうっと口づける。緩く握られた紅葉の様な手がふにゃふにゃと動き、雪男はそれをそっと包んだ。正直僕はこの子のこんな姿の為に生きているといっても過言ではない。
これ以上いると起こしてしまいかねないので、雪男はまた抜き足差し足で部屋を出た。クローゼットのある寝室へ向かう。途中でダイニングにさしかかり、雪男は不快感に眉を顰めた。
出しっ放しのコップが三つに、明らかに何か脂もんを乗っけてたであろう皿。嫌な予感がしてキッチンを見れば、食器は洗っていなかった。しかも鍋やフライパンなどを使った形跡は皆無。もしやと思ってペダルを踏んで開くタイプのゴミ箱の中をみれば、案の定、カップ麺のカップがご丁寧に重ねられて入っていた。
「うそ。マジで?」
あの子、侑に夕飯コレ食べさせたの?
妻の育児放棄気味には常日頃から注意をしているし、そろそろ本当に言わなければと思っていたのだが、これはさすがにひどい。息子は頭の回転の速い賢い子で口も同年代の子達より遥かにまわるが、それでもまだ四歳なのだ。しかもこれまた自分に似て立派な健康体とは言えない。そんな育ち盛りの息子に与えた夕食が、カップ麺とおそらく唐揚げかなにかの揚げ物。おそらく野菜はナシ。
「・・・あり得ない」
連日連夜手術が舞い込んできて、最終日の今日には八時間にも及ぶ大手術で、満足感も達成感もひとしおだけれどさすがに疲れた。疲れた所で自分の天使がこんな仕打ちを受けていると知ってしまったら、雪男はもうふつふつとわき上がる怒りを抑える事が出来なかった。夜中だからさすがにもう寝ているだろうが、なんとしてでも叩き起こす。
ダイニングの椅子に引っ掛けていたコートを腕に抱え、ネクタイを緩める。息子を起こさないように、けれど確実に音がするようにバタンと寝室のドアを勢いよく開けると、雪男は中に入り、そして硬直した。
「えっあっゆっ雪男君、なんでっ」
「えっ嘘旦那?」
自分のお気に入りのベッドで、見知らぬ男が妻を後ろから突いていた。



愛してくれると君が言ったから



現役の祓魔師時代に築いた状況判断・処理能力というのは実に役にたつ。



目の前の光景に一瞬硬直した雪男は、しかし次の瞬間にはポケットから携帯を取り出して二人の姿をカメラで撮っていた。二人が慌てる頃にはしっかりと保存し、万が一携帯をとられてもいいようにパソコンにも送っておく。ピロリンと軽快な音に青ざめた二人は、しかし雪男が鬼の形相でドアの傍の壁に背中を預けると、慌てるようにしてベッドからおりた。正直男が妻からナニを取り出すときに妻がわざとらしくだした「アン」なんて声にイラッとした。
もつれるようにしてお互い服を着ている中、顔を真っ赤にした妻が雪男に怒鳴った。
「どういう事、雪男くん帰るのは明日って言ってたじゃん!」
「一応『妻』ともあろう者のいう台詞じゃないね」
「っ・・・それはっ」
「それは?」
「ゆ・・・雪男君が、なかなか帰ってこないからっ」
「意味が分からないんだが」
激昂する妻の傍で、すっかり服をきた男が足早に出て行こうとする。寸前で手首を掴むと、雪男は手のひらを差し出した。自分でも驚く程冷静だ。
「名刺いただけます?離婚で万が一裁判沙汰になった時に証人が必要になるかもしれませんので」
「えっ」
「はぁ?離婚!?」
「ああ、ご心配なく。別に貴方を起訴したりしないですし、お金も要求しませんから。連絡先だけ控えさせてくださいね」
そこまでいうと、男はおずおずとスーツの内ポケットから名刺を取り出した。どうもといって受け取ると、今度こそ一目散に男は逃げていった。
「ちょっと雪男君離婚ってどういう事よっ!」
離婚という単語に服がどうでもよくなったのか、パジャマの上だけ羽織った彼女は雪男につかみかからんばかりに激昂した。目の毒だったのでせめて下着履いてくれる?とベッドの傍に落ちているくるくると丸まったどぎついピンクの物を指差しながら、雪男は妻を見下ろした。
「どうもこうもないよ。君とはもうやっていけない。別れてくれ」
「意味解んない!」
「なんで解らないのか理解に苦しむよ。ていうかボリューム落としてくれる?侑が起きるだろ」
「侑の事気にしてる場合じゃないでしょっアタシがいいたいのは」
「気にしてる場合だよ。ていうか別に僕は君の事はどうだっていいんだよ。僕は侑の為に離婚したい」
「ハァ!?」
「うるさいっていってるだろ。君が不倫してようが僕は別にいいんだよ。いやまぁ僕のお気に入りのシモンズのベッドでキタネェ体液まき散らしてたのには凄く怒ってるけど、そんな事は今はまぁどうでもいい。それより君なんなのあれ?食器は洗ってない、床は埃だらけ、極めつけには夕飯にカップ麺?君母親の自覚あるの?侑はまだ四歳なんだよ?夕飯にただのカップ麺てどういう事なの?」
「っ、ふ、普段から家にいない雪男君にそんな事言われたくないっ!」
図星をさされたのか、彼女がかぁっと頬そ染める。
「これが僕と君の二人の問題だったら僕も何も言わないよ。けど侑がいるんだよ?健康にも衛生にも悪いってどうしてわからないの?ちゃんと栄養のあるバランスの良い食事をあげなきゃだめってなんでわからないわけ?侑がそんなに体が強くないって、ハウスダストにだって敏感だってわかってるのに、どうして掃除しないのさ?」
「う・・・っるさいなぁ!!いーじゃん別に!侑は文句なんて言わないよ!アタシはちゃんと母親してるもん!朝だって洋服着せてあげてるし送り迎えだってしてあげてるし、」
「ちょっと声大きい」
「だいたい雪男君がえっちしてくんないのがわるいんじゃん!結婚式だって地味だったし!アタシはもっと綺麗なドレス着たかったし友達だって呼びたかったし!皆が開いてくれた二次会だって雪男君こないし!侑が生まれてから一度もアタシの事さわんないし、キスだってしてくんないし、アタシが悪いの!?不倫くらいなによ!」
「ちょっと」
「だいたい侑だってなによ!いっつもおとうさんおとうさんって、アタシだって自分のやりたい事我慢して侑の相手してあげてるのに!お腹すいたって言うからコンビニつれてってあげてもコレはいやとかアレはいやとか!もうほんっとヤなのよ!なんでアタシばっかりこんな目に「おかーさん・・・?」


しまった。力づくでも口を塞げばよかった。






***






母親の怒鳴り声にびくびくと身を竦める息子を抱き上げ、宥めすかしながら息子の部屋に入る。ベッドの傍のクッションに座ると、雪男は膝に向かい合わせに座らせた。
「おとーさん、おかえなさい」
「ただいま、侑。怖がらせてごめんね」
「んーん」
きゅうきゅうと首に抱きついて来る息子をきつく抱きしめかえして、雪男は頭のてっぺんにキスを落とした。しばらくしてから雪男の膝に落ち着いた息子が、うろうろと視線を動かし、そして雪男の目をとらえた。
「あのね」
「うん?」
「あのひとね」
「あのひと?」
「あのおじさんね、たまにくる」
あさぼくがおかーさんをおこしにいくとね、おかーさんと、はだかで、ねてる
「そっか」
「いわなくってごめんなさい」
「侑は悪くないでしょう?ごめんなさいしなくっていいんだよ」
いい子だなぁと思いながら頭を撫でる。猫のように手のひらにすり寄って来るこの小さな生き物を、何があっても守ろうと思った。
「・・・あのね、侑」
「ぼくもいく」
「え?」
「ぼくも、おとーさんといっしょにいく!」
膝の上で立ち上がった侑は必死だ。雪男のよれよれになったシャツを両手でしっかりと握りしめ、顔を近づけて懇願する。
「ぼく、おとーさんといっしょがいい」
「・・・お母さんとは、もう会えないかもしれないよ」
「いいよ」
「いいの?」
「うん。ぼく、おとーさんといっしょがいいもん」
「ほんとうに?」
「ほんとのほんと。・・・おかーさんは、ちょっと、こわい。・・・ちょっとだけよ」
「・・・侑。お母さんと遊んでて、楽しい?」
うつむいた侑は、しばらくして小さく頭を振った。
「お母さん、公園とかつれてってくれてる?」ふるり。
「侑、幼稚園から帰ったらいつも何して遊んでるの?」
「・・・ひとりでおえかきする」
「侑、今日のご飯、美味しかった?」ふるり。
「からかった。ぼく、おやさいたべたい」
「侑は偉いなぁ」
「おとうさんのつくってくれるさんどいっち、たべたいよ」
「・・・侑。お母さんのご飯、美味しい?」・・ふるり。
そんなにまともなものを食べてなかったのか。料理下手な僕が唯一作れるサンドイッチが食べたいだなんて。
ここまで聴けば腹は決まった。ともかく侑をもっと良い環境に移さなければならない。

「・・・侑。お父さんといっしょに新しいお家に引っ越しませんか?」
「うん!」


返事を聴くや否や雪男は侑の大きめの鞄に二日分の着替えとお気に入りのぬいぐるみをつめた。まだ少し肌寒いので侑には厚手の靴下ともこもこのセーターを着せる。
「おとーさん、どこ行くの?」
「お父さんの大事な人のところだよ。多分起きてると思うから、ちょっと待ってね」
雪男の感性をそのまま受け継いだ侑にとって最高の環境。そんな場所を、雪男はこの世界で二つしかしらない。
今日はーーーもう金曜か。なら起きている筈だった。もしかしたら任務に行く寸前かもしれないが、それくらい怒られるのは我慢しよう。実家でもいいが、今から行くには少し遠かった。
PRRR....

ピッ
『ーーーはい、藤本』
「燐ちゃん?雪男だけど。悪いんだけど、今日泊めてもらえないかな?」






***






「急に押し掛けてごめんね」
「いいって。お互い様だろ」
うとうとと舟をこいでいる侑をしっかりとかかえ、体を揺らす。燐ちゃんはそんな侑のほっぺにキスをしてから僕たちを部屋に招き入れてくれた。
「任務に行くところだった?」
「いや、終わったところだった」
「そう。じゃあ余計にだ。疲れてるのに」
「だからいーって。癒しが現れて嬉しーから」
そういって燐ちゃんはにこにこしながら自分のベッドルームのドアを開けた。シモンズのダブルベッドで少し嬉しい。
「最近忙しかったから、ゲストルーム掃除してなくて。シーツは今朝変えたばかりだから」
「ありがとう。今夜は侑と寝てくれる?僕は毛布さえ借りられればソファで」
「え、なんで?パパが息子と寝なくてどうすんだよ」
燐ちゃんはウォークインクローゼットの中に入り、ごそごそと漁る。出てきた黒のパジャマを見て、僕は驚いた。
「あれ?それ僕の?」
「そ、二年前の置き服だな。そんなに埃っぽくは・・・・ないけど」
「わぁ」
侑の鞄からぬいぐるみを取り出し、侑に抱かせてベッドに寝かせる。燐ちゃんがもう一枚タオルケットを持ってきて侑を包んだ。一悶着あったけれど僕たちは結局侑を挟んで川の字で同じベッドに寝る事になり、僕はシャワーを借りてからパジャマに着替えた。僕たちが訪ねてきたときまさに寝るところだったらしい燐ちゃんは、黒のナイトスリップにカーディガンを羽織っていた。
しっかりと侑が寝付いたのを確認すると、僕たちはリビングへ戻った。燐ちゃんが淹れてくれた暖かいハーブティーを飲みながら、膝を突き合わせる。
いいマンションだ。燐ちゃんはしばらく使い勝手が良いと長屋に住んでいたが、ひとたび四大騎士に任命されるとこのマンションに移り住んだ。フェレス卿の命令らしい。
「相変わらず良いマンションだよね。」
「メフィストがなー・・・良いとこ住めってうるさいからな」
「広いね」
「寂しいよ」
「そっか」
「・・・そんで、いきなりどうした?」
「ああ、うん。離婚するんだ」
「あー・・・ついに?」
「うん」
僕の言葉は予想の範囲内だったらしい。僕と妻の不仲説は濃厚で有名だった。夜中だけど、よければどうぞって燐ちゃんが出してくれたチョコを摘んで、ハーブティーをまた一口飲むと、さっきの騒動が起きる前に確実に感じていた疲れがどっと押し寄せてきた。燐ちゃんはこのマンションにもう五年住んでいて、僕たちはかれこれ二年会っていなかったけれど、それまではしょっちゅう僕はここにきていたので、ソファにどっぷりと背中を預けて心地のいいクッションを抱き込んだ。
だらだらと小さく口を開いて話す僕の言葉に、燐ちゃんはいちいち優しく相づちを打って聴いてくれた。
「今日さぁ」
「うん」
「徹夜もどき四日目でさあ」
「うん」
「今日あった最後の手術が八時間もかかってさぁ」
「うん」
「すんごい疲れたんだけど患者さんも峠を越えてね、スタッフともご家族の方達ともやったーって喜んでたんだけど」
「うん」
「もー疲れたわ」
「うん」
「そんで帰るでしょ、帰って侑の可愛い寝顔見るでしょ、あーこの子の為に僕は働いてるんだって、疲れててもやる気でるでしょ」
「うん」
「そんでキッチン通りかかったらもう最悪」
「汚かった?」
「汚かったね。しかも料理をした形跡がなかった」
「え?」
「あの子さぁ、今日侑にカップ麺と唐揚げかなんか食べさしてたみたい」
「はぁ!?」
「ね、燐ちゃんだってそう思うでしょ、僕もうカンカンにきて、だってお皿はあるけどフライパンとか、コンロ使った形跡が無いってどういう事なの?わざわざ侑に聴かないよ、あのこ困っちゃうし、でも絶対マックとか食べてるよ」
「侑、それつらくねーの?」
「からいっていってた」
「だよなあ・・・侑四歳のくせにお前そっくりの味覚だもんなぁ」
「修道院で燐ちゃんの味付け食べて育った僕には耐えられないよ」
「侑可哀想だなぁ」
「そんでさ、これはもう文句言ってやろうと思って寝室いったら、知らない男があの子とバックやってて」
「へぁ!?」
だらーっとソファと仲良くしていた僕と同様、向かいのソファで寝そべっていた燐ちゃんは、顔を真っ赤に染めると起き上がった。28にもなって赤くなるのって可愛い。
「ばばばバッック、って、」
「うんセックスしてた」
「浮気じゃん!!」
「燐ちゃんごめん、声落として」
「っと・・・・ごめん、・・・侑ごめーん」
燐ちゃんのこういうところが僕は好きだな。
ひゅっと息をのんでボリュームを下げると、燐ちゃんは傍のタオルケットを引き寄せてくるまった。
「それでもう僕のシモンズが体液にまみれてんのみてあったまきて、侑だって可哀想だし出てきた」
「ベッドの心配か」
苦笑する燐ちゃんに冗談だよといって笑う。いやちょっと本気だけど。
実は僕の部屋と燐ちゃんの部屋にあるシモンズのベッドは二人お揃いで、お互い独り立ちするときに疲れを取ってくれるベッドがやっぱり必要だよねっていう話をして二人で買ったのだ。あの子を寝させてあげただけでも結構な譲歩だったのに、あーあ、またあのベッドを使う自信が僕には無い。
だって、と情けなく笑う僕に苦笑して、燐ちゃんは体を起こした。
「・・・じゃあ、離婚すんだ?」
「うん。出来る限り協議離婚で済ませたい。んで侑の親権も僕がとりたい。養育権も財産管理権も僕が持つ。万一裁判になったら・・・まあ僕の方が有利だと思うけど」
「そういうのって母親のがゆーりなんじゃなかったっけ?」
法律関係にはあまり明るくない燐ちゃんが、首を傾げる。可愛いなぁと思いながら、僕はまたぽりぽりとチョコを摘んだ。
「通常はね。ただ今回は当事者の侑が絶対的に僕の味方でいてくれてるし、僕は財産も稼ぎもあって、普段から侑の面倒を見てる。家事は・・・まあ、料理以外はなんとかなるし。加えて学園町だってのが強いね。燐ちゃんも神父さんもいるし、いざというときに侑の面倒を引き受けてくれる人がいますってアピールできるのもいいな。フェレス卿の素晴らしすぎる理解のおかげで病院には託児所だってあるし、要は侑は僕といた方が幸せになれますていうアピールをできればそれでいいんだ」
「ふぅん。まぁがんばれ?なんかあったら協力するし・・俺もなー・・あの子あんまりすきじゃなかった」
「僕はもとからすきじゃなかったよ。侑の為に一緒にいたんだ。侑を産んでくれた事に関しては感謝してる」
「そっか。・・・ってうお、もう二時半!寝ようぜ」
「うん。あ、燐ちゃん」
「うん?」
「ありがとう」
「気にすんな気にすんな。・・・侑〜〜おばちゃんも一緒に寝させて〜〜〜」
寝室のドアをそうっと開けて、するっと身を滑り込ませた燐は、暖気を逃がさないように侑の隣に滑り込んだ。侑の真向かいが空いているのは、目を覚ましたときに真っ先にお父さんがいた方が侑も安心だろうという無意識の気遣いだ。そういう所がすきだな、と雪男は思う。燐の事は産まれたときからずっと大事な人だと思っていたけれど、特別女性として意識してはいなかった。だから今日ここに来てから、何故か燐の侑に対する気遣いだとか仕草だとかが凄く目について、しかもどれも好ましく思って、すきだな、と小さく思うのがなんだか不思議だった。






***






燐の住んでいる高級マンションはエントランスの裏、一階部分にテナントがあって、燐はそこで小さなレストランをやっていた。燐の住居は二階にあり、ベランダから真下を見ればちょうど店がある。
「朝と夜はやってねぇの。十一時から四時までだけ。夜はどうしても祓魔師があるし、朝起きられるかもわかんないし」
「りんちゃん、これとってもおいしい!」
「ありがとう、侑。フルーツも食べな」
「うん!」
タマネギにハムにきのこにコーン、具がたっぷり入ったオムレツを美味しそうに頬張った侑をカウンター越しににっこりと見つめて、燐はたくさんのフルーツが入ったボウルを出した。フルーツポンチじゃなくてフルーツパンチらしい。雪男には違いが解らなかったが、とりあえず息子がにこにこしていたので良しとした。バターを薄く塗ってこんがりと小狐色に焼いたバゲットはさっくりとしていて香ばしかった。オムレツがボリュームがある割にふわふわしていたので、バランスが良い。シンプルなオニオンスープも絶妙だった。
小さい頃の雪男に似てひょろひょろとしていて、加えて食の細い筈の侑が普段ならあり得ない量をなんなく、しかも満足そうに平らげていく。そんな侑を見て燐はにこにこしていたけれど、雪男は少し申し訳なかった。燐の料理は確かに粗食でも絶品だ。それは人生のほとんどを燐の手料理で育った雪男が一番骨身に沁みてよく解っている。けれどありふれたと言ってしまえばそれまでだけども、どこにでもあるような朝食をまるでごちそうのように笑って食べる侑を見ていると、それまであまり関わる事のできなかった息子の普段の食生活の悲惨さを見せつけられるようで雪男はほんの少し苦しかった。心底申し訳なく思う。これからは栄養がたっぷりあって美味しい食事をたくさん食べさせてあげよう、とそう誓った。
「・・・・燐ちゃん、何から何までありがとう」
「気にすんなって」
自分の前に出された、侑とは一回りも二回りも多い量の食事を食べてコーヒーを飲みながら息をつく。最初はこんなに食べられないと遠慮したが、燐に押し切られた。
「雪男、お前絶対疲れてる。いいから食べてみろ。絶対食べられる。」
雪男にはたとえどんな理由があろうとも燐の料理を残すという事がまるで神への冒涜にすら思えてしまうので、残してしまう可能性があるのに中途半端に口を付けるのはいやだった。けれど一度口を付けてしまえばそれまでで、雪男は最初の一口がすっと喉をとって胃にほんのりと落ち着くのを感じると、先ほどまでの遠慮が嘘のように食べ始めた。なるほど、確かに食べられる。
オムレツもバゲットもスープも全部平らげ、出されたフルーツも全て食べてコーヒーを飲む。朝からお腹いっぱいになってポンポンと息子共々腹をさすっていると、嬉しそうに燐が笑った。
「そういやお前、最近祓魔師の方はどうなの?見ないけど」
「ここ半年程は行けてないけど、まだまだ続けてるよ」
「そっか」
「燐ちゃんは四大騎士になってもう五年が経つね」
「あー、そんなんかな」
「いつの間にか立場が逆転しちゃった」
「・・・あー・・・その節はお世話おかけしました、藤本先生」
「いえいえ、教え子がこんなに立派に成長してくれて嬉しいです、藤本さん」
照れくさそうに頭を下げる燐に笑った。
「雪男って、今は称号何持ってんだっけ?」
「昔持ってた竜騎士と医工騎士と、加えて詠唱騎士だけだよ。どうも僕には騎士と手騎士の才能がなかったみたい。燐ちゃんは」
「医工騎士以外は全部取った。医工騎士はなー・・・実践で実際に怪我とか見たらきちんと対応できるんだけど、称号取得するのにペーパーテストあるだろ。アレがもう駄目、知識書き出せない」
「相変わらずだなぁ」
苦笑していると、小さな手がくいと雪男の袖を摘んだ。ほんの少しふくれている頬は、僕も仲間に入れてという事らしい。お詫びの代わりに膝に抱き上げると、きゃあきゃあ喜んで雪男の首に懐いた。
「可愛いなぁ」
「可愛いでしょ」



そういえば僕はなんでこの子を産んでもらおうと思ったのだっけ。
先ほどまではしゃいで膝の上で飛び跳ねていた筈の息子がずり落ちないように抱き直しながら、雪男はそんな事を思った。奥からタオルケットを出してきた燐が三つだけあるテーブル席の内、ソファが椅子になっている奥のソファにクッションを敷く。昨日は色々あったから疲れたのだろう。お腹もいっぱいになってまた夢の中へと戻っていった息子をそこに寝かせて、雪男は柔らかい髪を撫でた。しっかりと侑をタオルケットで包んだ燐が、しばらくして二人分の紅茶を持って来る。侑の寝顔を二人で見ながら、雪男はぼうっとしていた。



遊ぶという程大層なものではなかったけれど、当時の雪男は割に彼女のサイクルが早かった。誰とも本気でつき合えなかったし、好ましいと思った女の子ですら、一度体をつなげてしまったらもう駄目だった。清楚で控えめで、けれど明るい彼女達が、ベッドでの逢瀬の度にどんどん大胆になっていくのが雪男はどうしても不愉快だった。だから必ず避妊をしていたのに、まさか彼女が避妊具に穴をあけていたなんて気付かなかったのだ。彼女は今までつき合っていた中でも一等おとなしい子だったから。
雪男は信仰に従順なクリスチャンでは無かったけれど、やはり修道院育ちなだけあって思考の様々な根本にキリスト教の教えがあった。神父はあまり人の信じるものにこだわらなかったけれど、やはり堕胎には否定的だった。といってもそれがレイプ被害者の場合はそう強くは思わないそうだが、どんな命にも意味があるといって、雪男の彼女が妊娠したといって迫ったとき、雪男は自由の終わりを悟った。
彼女は色々と不満だったろうと思う。妊娠が発覚してひとまず籍だけをいれた。彼女は子供さえ出来れば雪男が優しくなりずっと一緒にいてくれると思ったようだが、それは正解であり不正解だった。雪男は腹の子供に悪いからとその後必需品を買う意外のデートはしなかったし、腹の子に障ったらどうするのだとヒールの高い靴もやめさせた。酒もやめさせたしカフェインの強いコーヒーもやめさせた。結婚式も、本人に自覚が無くてもストレスが溜まるのだと医者らしいもっともらしい事を言って身内だけで済ませたし、ドレスもあまり重いと腹に悪いとあまり装飾もないシンプルなドレスにさせた。彼女の友人達が開くという二次会だって、そこまで面倒を見る気はなかったので出席しなかった。そのとき雪男は、実家の修道院で家族と一緒に夕飯を食べていた。

侑がひとたび産まれると雪男は侑に惚れ込んだ。一目惚れだった。大嫌いな彼女にも思わず満面の笑みでありがとうと言ってしまう程だった。侑という名前は神父につけてもらった。愛を侑め(すすめ)、恩に侑い(むくい)、人を侑け(たすけ)、罪を侑す(ゆるす)で「侑」。神に仕える神父らしく、そして雪男の神父らしい名前で雪男は大いに気に入った。それに燐が侑を可愛がった。


神父のように、なりたかったのだと思う。
燐が姉で、雪男が弟。そういう位置づけになったのは、単に拾われた時間が朝晩と別れていたからだ。
二十八年前の十二月二十七日。朝、礼拝の為に修道士の一人が門を開けると、隅っこで赤ん坊が泣いていた。それが燐だった。その夜、夕食を終えて修道士の一人が明日の礼拝の準備をしようと礼拝堂の前へ行くと、扉の前で赤ん坊が泣いていた。それが雪男だった。なんとも奇妙な偶然だったが、結局二人を預かった獅郎は二人を育てる事に決めた。燐は女の子で、男子修道院で育てるのはお門違いのようにも一瞬思ったそうだが、結局これも何かの縁だろうと引き取った。もちろん警察にも届け出たけれど捜索願などは出されていなかった。捨てられたのだから当たり前だ。せめて戸籍等の確認もとれないかと思ったが、それもかなわなかったので、獅郎は二人に仮の戸籍を作った。神父は妻帯が出来なかったので、自分との続柄を父とする事は出来なかったが、自分の子供として育てるつもりだったので名字は藤本とした。獅郎は二人を双子の姉弟として育てた。もちろん理解力がはっきりしていた頃に獅郎は二人が拾われたという事も実の兄弟でもない事も包み隠さず教えたが、それでも雪男にとって燐は姉だったし燐にとって雪男は弟だった。最初事実を知ったとき、二人で獅郎をなじったなあと苦い記憶を思い起こす。なんでそんな事を言うの神父さんの馬鹿と詰って、二人で部屋に閉じこもった。ストライキだった。ごめん、ごめんなと神父は部屋の前で謝り続けた。雪男は食の細い子だったのでハンストをしたが、食い意地が張っていて燃費の悪かった燐は一食も抜く事に耐えられなかった。結局空腹に耐えかねてドアを開けて、神父としっかりと抱き合っていた。お腹いっぱいになると色々とどうでもよくなったらしく、「それでもおれはお前のねえちゃんだろ」といって雪男を引き上げた。
そんな燐だったから、たとえ血が全くつながっていなくても、燐が悪魔として覚醒してしまった後も、雪男は獅郎と一緒に命がけで彼女を支える事が出来た。何故自分が修道院に預けられたときには既に魔障をおっていたのか、わからない。そんな事はどうでもよかったのだ。
雪男と燐は獅郎を尊敬した。世界で一番何よりも憧れる人だった。獅郎の頭のてっぺんからつま先まで、雪男と燐は愛していた。だから本当の親子でなくとも「藤本」を名乗れる事が嬉しかった。燐は将来は神父さんの様な人と結婚すると公言していたし、雪男は将来神父さんの様な男になると公言していた。結局雪男は「藤本雪男」にはなりきれなかったけれど。
二十歳になる少し前、雪男は本当の親が名乗り出るという形で見つかった。戸籍が仮戸籍から本来の戸籍に戻って、「奥村雪男」となった。当然雪男は反抗した。今更本当の親などいらなかった。ごめんね雪男ごめんねと目の前で泣き崩れる年老いた女が雪男は末恐ろしかったし気味が悪かった。ずっと藤本雪男でいたかったけれど法律がそれを許さなかった。彼女を母親と認める事、一緒に住む事、そして月に一回会う事、それら全てを雪男は拒否した。彼女は悲しそうだったが雪男は譲らなかった。一番譲りたくなかった名前を譲らされたのだ。誕生日すら変わってしまった。雪男が産まれたのは夏だった。夏真っ盛りの八月。それなのに雪男。なんだか滑稽だと思ってしまった。当然拒否した。雪男は燐と一緒になって祝われるクリスマス直後の自分の誕生日がすきだった。
雪男にとって唯一の救いは、神父が雪男の想いを全て受け入れてくれて、自称母親のその女に雪男は自分の息子として育ててきた、自分は雪男の父親だし雪男がそう思ってくれている限りは自分は一生そのつもりだと言ってくれた事。そして燐が、雪男に親が見つかってよかったなとか、羨ましいとか、そういった事を言わなかった事だった。なんで雪男だけ、みたいな裏切られた様な顔すらしなかった。むしろ雪男を、お前は家族じゃなくなるのか、そんなの許さないとばかりに憎々し気に睨みつけて、雪男はそれが心底嬉しかった。燐は泣いたし怒った。お前は藤本雪男だぞ、誕生日も俺と一緒の十二月二十七日で、俺たちは姉弟で藤本獅郎は俺たちの父親だ!そういってくれた事が心底心底嬉しかった。

だから家族というのは雪男にとって大切でかけがえの無いもので、そして決して失えないもので。獅郎が燐と雪男を愛おし気に見てくれる度にいつか神父さんの様な父親に成りたいと思ったものだった。だから、神父さんのようになれるかもしれないと思ったのかもしれない。雪男たちと出会う前の獅郎はそれはそれはどうしようもない男だったと人づてに聴いていたので、ひとたび父親に成れば名実共に大好きな神父のようになれると思ったのかもしれない。


「侑?起きた?」
ぐずぐずとむずがりながら起きた侑は、目の前に父と伯母がいるのを見て、嬉しそうに破顔した。
「ね、ね、おとーさんきょうおしごとないの?」
「うん、無いよ。侑といっぱい遊べるよ」
「っ!じゃあっじゃあねっゆうとー、おとーさんとー、りんちゃんとでー、ぴくにっく!ぴくにっくいきたいっ」
「よっしゃ」
興奮したように飛び跳ねる侑の髪をくしゃくしゃと混ぜて、燐は立ち上がった。
「おばちゃんが豪勢なお弁当を作ってやろう!」
「わあい!」





年月日