「・・・藤本、あの二人は何をやっているのです?」

窓の外の花咲く庭で、きゃいきゃいと何やら楽しそうに花と戯れる双子を興味深気に見て、メフィストは訊いた。彼は月に一度程、視察と称して二人の様子を見に来る。双子はメフィストと話した事は無いが、顔は知っている。メフィストは必ず去る際に二人に遠くから小さく手をふって帰り、双子はぶんぶんと振り返すのだ。
「何って。遊んでんだろ」
一口目のコーヒーがあまりにも不味かった為(インスタントに味なんてあるかとは獅郎の談だ)、メフィストは仕方なく指を鳴らしてアフタヌーンティーのフルセットをテーブルに出した。アッサムの色濃く入った紅茶が、湯気のたつポットからポポポとメフィストお気に入りのティーカップに注がれていく。俺にもくれという獅郎にも淹れてやり、スパイラルトレイからクッキーをつまんだ。
「そうではなく。あの二人、何やらとても楽しそうなのですが、会話をしているように見えません」
訝し気に眉を顰めたメフィストにつられて、獅郎も外の二人を見遣った。燐も雪男も、ニコニコと口角を上げて始終楽しそうなのだけれども、笑い声の気配が聞こえるわけでも、会話をする口が開いているようにも見えない。ただただ楽しそうに二人で花輪を編み、くすぐり愛、ごろごろしている。けれど一つ一つの動作を注視すれば二人が何らかの暗黙の了解のもとで動いている事は明らかであり、それらを全て会話無しでやってのける事のメフィストが訝しむのは当然だった。
「ああ、あれか」
けれどなんて事はないように、獅郎は視線を戻して紅茶をすすった。少しレモンを入れすぎた、と酸味が強く飲み口のきついカップから舌を離して、口直しとばかりにクッキーを頬張る。
「ありゃ双子特有?のあれだ。テレパシーってやつ?」
「テレパシー?」
メフィストは目を見張った。往々にして頂上的な力を発する悪魔からしてみればタレパシーの概念そのものはそこまで珍しいものではないが、それでも滅多にお目にかかれるものではない。言語を違える悪魔同士のテレパシーというのはどちらかというと相手の言語を自主的に感情の起伏込みで変換して自身の言語として聞き取るという側面の方が強い為、頭の中で思った事を相手の思考にも行き来させる事が出来る訳ではないのだ。しかしそれが人間にできるという事は、つまり。
「・・・・双子の神秘という奴ですかね」
「そうかもな。・・・あーほら、一、二年くらい前にあいつらが言葉が遅いって話した事あったろ」
「ああ、そういえばそんな事もありましたねぇ」
お前何百年も行きてる耳年増だろ、絶対何か知ってるはずだと失礼な事をいいながらも沈痛そうな面でやってきたのはもういい思い出?だ。あの頃の二人はかなりの片言で、普通の子供たちと比べると言葉が遅いという悩みだった。両親が多言語を話すハーフの子であると、自分の中で無意識に母国語を決めようとするが為に言葉が遅いというのはよく訊く話だが、獅郎は母国語も彼らを育てる為に使っている言語も日本語だ。そもそもここは日本だ。
「こっちの言ってる事はわかってるみてぇなのに、二人とも凄い静かな子供で・・・でもいつだったかな、俺がずっと一緒だったのに、まるで二人で示し合わせた様な行動をした事があってな、それでお?っと気付いた訳だ」
「ほう?」
「黙りこくってる二人に、お前らなんのお話してるんだって訊いたら、『今度のミサで歌うお歌の練習してたの』ってさ」
「それはそれは」
「凄いぜ、燐がいなくて一人で遊んでる雪男に、お姉ちゃんどこだって訊いたら、少し黙ってから『りんちゃんならお庭にいるって』ってな」
「片割れがどこにいるのかがわかるのですか?」
クッキーのかすをこすり落とし、もう一口紅茶に口を付けてから獅郎は続けた。
「そうじゃねんだな。どうしてわかるんだって訊いたら、『燐ちゃん今どこにいるの?』って訊いたのってさ」
今度は小さなカップケーキのフィルムをはがしながら、一番上に乗っかっているドライラズベリーを指で摘んだ。やる、という言葉と共に皿に転がされたそれに、メフィストは嫌そうに向かいの男を見遣った。
「食べられないなら最初から手を出すなってんですよ」
「うるせぇな、まーそんで、二人だけのときならいいけど、他の子たちがいるときにそんなんしてたら駄目だろ、相手の子無視されてんのってな。だから他の人がいるときに二人で会話すんのはやめるようにしつけ始めてから、格段に言葉を話すようにはなったんだが」
「が?」
「ちょっと心配でなぁ」
「何がです?もう心配事は終わったんでしょう」
「んー・・・燐がなぁ・・最近よく泣くようになったんだよ。昔っから泣くのは雪男の専売特許ってか、燐は夜泣きもしない赤ん坊だったからなぁ」
「女の子はそういう時もありますよ」
「けどよぉ、泣くとき決まって一人なんだぜ?しかも『ゆきがないてる、かなしい』って。雪男が風邪ひいてるときなんかは、燐もゼェゼェ言うし。健康面にはなんも問題はねぇんだが」
「・・・・それは」
「そうなんだよな、それで将来の事とか色々深読みしたらよ・・なぁ?」


「こういうのって、可哀想って言うんですかねえ」














(ゆきお)






(ゆきお きょう おまえにあいにくよーーーーーー・・・・・)



姉さん、僕と、



姉さんが突然家にやってきた。
「お世話になりまぁす」
「どうぞ、ごちそうになります」
くすくす笑いながら迎え入れると、姉さんは機嫌良く中に入っていった。キャラメル色のレースアップブーティが可愛らしい。彼氏にプレゼントされたのかも。ヒールがすり減っているのにピカピカに保たれているのは、姉さんがきちんと手入れをしているからだろう。
「ゆき、これおみやげ」
「わ、なに?」
紙袋の中から出てきたのは姉さんの手作りだろうクッキーやマフィンなどのお菓子だった。
「本当はおかずにしようかなと思ったんだけど、ヒコーキだし」
「ううん、うれしい。ありがとう姉さん」
自分じゃこういうのは買わないし、姉さんの作るお菓子はどれも甘さが僕好みだ。僕と神父さんはあまり甘すぎるお菓子がすきじゃなかったから、姉さんはいつも優しい味わいの素朴なものを作って食べさせてくれていた。
姉さんの肩から僕の腕の中に飛び込んできたクロにも久しぶりと首を撫でて、僕は姉さんのあまり多くない荷物の入ったボストンバッグを抱えて寝室に運んだ。一人暮らしの部屋だからベッドは一つしかないが、僕と姉さんだとあまり問題は無い。幸い僕は自分の体格と仕事の事を考えてクイーンサイズのベッドを使っていたので、昔のように寝れば姉さんと一緒でもきっと狭くはないだろうと思えた。
姉さんのボストンバッグはちょっとアンティーク趣味で、昔ながらの口枠開きだった。カーキ色の合成皮革に、四隅や口、ハンドルの部分はキャメル色。金具はつや消しを施したゴールドで、姉さんのレトロな雰囲気に合っていた。これはおそらく姉さんが自分で買ったものだろう。姉さんのこういう趣味はどこから来たんだろうと考えて、すぐに思い至った。もちろん僕らが育ったあの修道院だ。そして何かと父が愛用していたのも、アンティーク調の物が多かった。ああ見えてファザコンでよく父の物をねだっていた姉さんだから。
遠慮など存在しなかったので、僕は姉さんのバッグを開けて中身を取り出した。三日分の下着と靴下、シャツが三枚にスカートが一着。貧乏性から任務で泊まるたびにホテルからもって帰ってきていた使い捨ての洗顔セット、そしてヘアアイロン。奥底には姉さんが任務で着用する丈夫なショートパンツに、黒のノースリーブのタートルネックが二枚。タートルネックに包まれるようにして、スリムなオートマチックにマガジンが二本鎮座していた。姉さんは倶利伽羅は体内に収めてあるので、ここには無い。
それらを全て取り出して、僕はあらかじめ今朝作っておいたクローゼットのスペースにそれをしまった。上の段にはとりあえず用済みとなったボストンバッグをしまう。洗顔セットは洗面所のラックにしまった。元々僕の部屋には、姉さんがいつ来てもいいように全てが二つずつでそろっている。
「雪男、ちょうどお茶入ったよ」
僕がリビングに戻れば、予想していた通り姉さんはもう勝手知ったる我が家のように茶葉を取り出しティーポットに紅茶を淹れていた。ほかほかと甘い匂いがするのは、姉さんが作ってきたスコーンを暖めたからだろうか。実はこれもくるときに買ってきたんだ、と、紙袋の中から唯一この国のロゴの入ったものを出してきた。老舗のクロテッドクリームと、それに対を為すようにして売られている果実たっぷりのブルーベリージャム。これだけ見るとイギリスみたいだけど。

お茶を楽しみながら当たり障りの無い近況報告なんて物をした僕たちは、その後姉さんのパジャマとドライヤー、そして今夜の食材を買いにいくために外に出た。何となく空が陰りを見せ始め、ランプ式の街頭が街を柔らかく照らしていく。
姉さんは寝るとき僕がいれば雪男のシャツでいいという様な人だけれども、シャツはシャツといってもこだわりがある。僕が部屋着にしているようなTシャツは着たがらないのだ。肌触りがいいからといって白いボタンシャツを着たがるけれど、それを着て仕事に行こうとする僕からしてみればうれしい様ないい迷惑の様な。肌を晒す事によって生まれるシーツとの一体感などをとてもお気に召した姉さんは、子供の頃と違ってもうもっさりとしたパジャマは着たがらない。
手をつないでランジェリーショップに入る。イタリアには専門店が多い。僕が一緒に入っていっても、日本のように店員がギョッとしないところがいいと思う。いつもニコニコとしている姉さんは、日本人ながらイタリア人のお気に召したようだ。何が欲しいの?何色が好きなの?と身振り手振り訊いて来る店員さんに、姉さんは逐一僕の通訳を訊きながら同じように身振り手振りで日本語で話した。
姉さんは試着を繰り返した後、黒と深い青色のナイトスリップを二着買った。キャミソールタイプのワンピースで、丈は太ももの中程まである。寒い日の為にと黒のニットのカーディガンもそろいで買い、僕たちは店を出た。家電量販店で適当にドライヤーを買い、スーパーに寄って食材を買い込む。最後にバールでコーヒーを飲んでから僕たちは帰路についた。姉さんは力持ちだから、ランジェリーとドライヤーを持ってもらって、僕はかさばる物だけを持って、手をつないで帰っていった。


姉さんは今日、突然僕の家にやってきた。日本からは遠く離れたイタリア、ローマ。ヴァチカン本部から三十分程にある、僕のアパルトマンに。


けれど突然というには語弊があるかもしれない。なぜなら僕には、姉さんがくるという事が解っていたからだ。昨日の晩、正確に言うと今朝目覚める直前、僕は姉さんが僕を呼ぶのをきいた。雪男、今日お前に会いにいくよ。
だから僕は飛び起きた。飛び起きて、物があふれたリビングを綺麗にした。


「・・・雪男の匂いがする」
真新しいスリップを身にまとって、姉さんは僕のベッドに倒れ込んだ。裾からのぞくレースの下着はひどく扇情的で男を煽るのに、姉さんの醸し出す雰囲気にはそういうのがまったくない。
「そりゃあ、僕が毎日使ってるベッドだもの」
そういいながら僕は暖気を逃がさないようにベッドに身を滑り込ませた。しっかりと姉さんを胸に抱えて、姉さんの頭のてっぺんに鼻を埋める。僕と同じシャンプーの匂いがした。姉さんは頭はそのままにもぞもぞと体の向きを変えて、僕の体に絡み付いた。そのまま寝ようと力を込めたら、僕は姉さんに呼ばれた。目を開けて姉さんを見ると、姉さんは僕の腕をとって枕にし、僕と額を合わせた。
「雪男」
「姉さん」
瞳が潤みっぱなしの姉さんは、涙をひとしずくだけ落として僕に懇願した。しゃくり上げるのをこらえているようにも見えた。
「雪男、読んで」
「うん」


姉さんの頭の中はたくさんの幸福と奥底の諦めとぐちゃぐちゃな悲しみで一杯だった。


姉さんの思考はまず幸せばかりがあふれていた。任務が重なりデートが何回もキャンセルになったけれども、だからこそようやく重なった休日にいけたデートはとても楽しかった事。水族館に行った事。家で二人で姉さんの作ったご飯を食べたこと。美味しい美味しいと褒めてくれた事。それがお世辞じゃなくて本当にそう思ってもらえるような笑顔だった事。食後のお茶を飲んだ事。ソファでキスをした事。セックスがいつだって優しくて泣いてしまう程大事にしてもらえていた事。姉さんがちょっとわがままを言っても困ったように笑う事。そして必ず叶えてくれる事。すきだと言う事。すきだといってくれた事。ずっと一緒にいたいといってくれた事。ずっと一緒にいたいと言った事。戦う姿が綺麗だといわれた事。それがうれしかった事。けれど体に気をつけろと心配もしてくれた事。それがうれしかった事。
(雪男、雪男、俺はすごく幸せ、こんな幸せな事ってない、好きな人に好きって言ってもらえること、キスをしてもらえること、うれしい、うれしい、うれしい、こんな、こんな幸せな事、きっと一生忘れない)

(そっか、ついに、その日がきちゃったのか)
姉さんの髪を撫で付ければ、姉さんはぶんぶんと頷いて僕の首筋に顔を埋めた。
(そう、そうなんだ、そう、わかってたことだけど、ずっと覚悟してた事だけど、やっぱり悲しい、でも、でも一番かなしいのは、俺に勇気が無かったこと、勇気なのかな、わからない、でもきちんと話してたら綺麗に解決できたとおもう?、でも最後のデートだったし、だって、雪男、雪男、おれは、おれは・・・・)

「・・・・・うん、うん、わかってるよ・・・・」

(だますようにして別れなければならなかった事、それが、それがいちばん、かなしい)

「姉さん・・・もう、寝ようよ・・・明日も、早いよ・・・」

僕の声はかすれていた。姉さんの頭に僕の涙がぼたぼたと落ちる。

(ゆき、雪男、ごめん、ごめん、ほんとうに、ごめん、こんな、こんなぐちゃぐちゃなの、つき合わせて)
(ううんいいんだ姉さん、ねえ、ねえもう寝ようよ、寝たらすっきりする、きっと、少しずつ少しずつ、二人で歩んでいこうよ、ねぇ)
(うん、うんごめん、ゆき、ゆきの幸せな気持ちわけて)
(いくらでももっていって、ねえさん、好きなだけ、ねぇだから、ねえさんの悲しいのも僕にわけて、僕たちはその為に一緒に生まれたんだ)

「・・・りゅう」

最後にそう小さく呟いて、姉さんは僕と一緒にその夜、眠った。













次の朝、僕と姉さんは一緒に起きた。一緒に朝ご飯を食べて、僕はヴァチカン本部に出向かなければならなかったから、姉さんを置いていくのは忍びなかったけれど。僕は姉さんにこちらに来たときに使っていたガイドブックと簡単んな日常会話の本を貸して、家を出た。













次の日の朝には本場らしい、水牛のミルクで濃厚に作った手作りのモッツァレラチーズとフレッシュトマトのサラダが出た。こんがり焼いたフランスパンに、とろとろとした食感とは裏腹にさっぱりとしたきのこのクリームスープ。姉さんはどうやら昨日一日で、地元の人たちと仲良くなっていたらしい。おとといの買い物では買わなかったものばかりが登場している。そして僕は飲み物が注がれるのを今か今かと待ち構えているグラスに、写真が立てかけてあるのを見つけた。姉さんが撮ったのか遠くの物にほんの少しピントがあっていない。けれど真っ青な一面の空にどこへまでも広がっている大草原、その真ん中にぽっかりと、果てなく続く薄茶色の道。ふと裏返してみれば、日付と時間、そして僕へのメッセージが書かれていた。姉さんは今日は朝から任務でいない。

 『 Buon giorno!

   よくねむれましたか?きのうはにんむおつかれ様!
   姉ちゃんはちょっと本部に用があるので行ってきます。おみやげきたいしてろよv
   雪男は今日休みだよな?姉ちゃんは今日はがんばって一人でショッピングします。
   午後一時に、そのへんで会いましょう。
   雪男の今日の仕事は、ランチのおいしいお店を二人ぶん予約すること、
   おしゃれをしてくること、です。

   それじゃいってきます、

   りん

   P.S.、写真いいだろ〜 昨日カメラ買っちゃった 』


姉さんが初めて書いたらしいイタリア語はたどたどしくて変なところに間が空いていたりして不格好だったけれども、なぜか僕はそのおはようの文字を見たとたんに心が暖かくなった。姉さんの気持ちが流れ込んで来る。
一人でショッピングをするという事は、僕とデートをする為の服を買うという事なんだろう。きっとおとといのようにたどたどしい会話をイタリア人と身振り手振りしながら買い物をするに違いない。

僕は用意されていた朝食を食べると、店を予約して読みかけだった本を開いて時間を過ごした。十二時をまわってから着替え始める。襟や裾などの見える裏地がセルリアンブルーとホワイトのストライプが施されている黒のポロシャツに、ベージュにちかい白のジーンズ、そして少しカジュアルなコンバットブーツ。いつどこで悪魔が現れるともわからないので、とりあえず小型のオートマチックだけ靴下の中に忍ばせておいた。少し日差しがきついのでハットもかぶり。だいたいが姉さんの好みに仕上がったのを鏡で見て、僕は家を出た。


(姉さん、いま家を出たよ)

姉さんが聞いていないのはわかっていたけれど、僕はとりあえず語りかけてみた。すると我慢ができなかったのか、すこし耳の中がふるりと揺れる気配がして、姉さんの声が聞こえてきた。

(ばっか、それ言ったら待ち合わせになんねーだろ!)
(ごめんごめん)

もう少し語りかければ姉さんの今日の服がわかってしまうのでやめた。

なんとなく大通りを歩き、直感の導く場所にいってみれば、案の定姉さんはそこにいた。けれど姉さんは既に複数の男から誘いをかけられていたようだった。僕が今まさに到着してたときに声をかけていた男を適当にあしらう姿がなんだか慣れている。DolceだのcarinoだのbellaだのpiuttostoだのbelloだのConosco un negozio di Dolce deliziosoだの、身振り手振り肩をつかみながら姉さんを必死に誘うイタリア男に心底僕は腹が立った。けれどそれ以上に僕の思考を奪ったのは。

(うわぁ、姉さん可愛い・・・)

思わず思考がだだ漏れになるほどには、姉さんは可愛かった。僕の頭に反応して姉さんがこちらを向く。僕の一面ピンクにそまった頭に恥ずかしくなったのか、けれども可愛い可愛いと連呼する僕の気持ちにうれしくなったのか、姉さんは飛びつくようにして僕に抱きついた。すかさず僕もぎゅうぎゅうと抱きしめれば、姉さんが今日ずっと僕の事を考えながら服を選んだのだとわかったから、よけいうれしくなってしまってどうしようもなかった。姉さんが、雪男が喜んでくれて嬉しい嬉しいと思ってくれてるのが伝わる。
「雪男、どんなお店?」
「ピッツァとパスタのおいしいところ」















それから姉さんは食事がすれ違うときはいつも写真の裏に手紙をくれた。



 『 Buon giorno!

   今日はいい天気ですね。
   ベランダから外を見てみてください、お向かいのベランダに咲いている花がとてもきれいです。
   姉ちゃんは今日一日はりこみで日付が変わるころ帰ってきます。
   夜になってから呼び出してくれりゃいいのになっ

   雪男、魚のやき方はわかりますか?
   今朝のごはんは玄米ととうふとワカメのおみそ汁に、にんじんのきんぴらとほっけの西京漬けです。
   ほっけなんてどこで手に入れたんだというツッコミは受け付けません。
   お昼はバールで食べてください。夜はシチューをつくりました。

   ではいってまいります、

   りん

   P.S.、雪男の寝顔はとってもcarinoですね 』





 『 Bentornato!

   Sono sicuro che sei stanco. Anche a me...
   私は先にねます。夜ご飯は食べましたか?
   ジャガイモときのこと秋鮭のグラタンをつくりました
   この時期に秋鮭なんてどこで手に入れたんだなんていうつっこみは受付終了しました
   これはレンジでチンするんじゃなくて、オーブントースターにいれてください。
   時間とあつさはオーブンに書いてあります。

  私は今日、にん、仕事で親子をすくう事が出来ました
  エクソシストなんてずっとやってると、たまに悲しくなるけれど
  やっぱりいいものですね

  おやすみなさい

  りん

  P.S.、いつも食卓にならぶモッツァレラチーズをわけてくれるおじさんです
  とってもdolceでcarinoでamichevoleな人です 』







 『 Yukio, volevo vederti!
  
   Non ti ho visto per due giorni...mi manchi.
  なので今晩はデートをしませんか?

  八時に待っています。

  りん

  P.S.、今日ふたりぶん予約したお店です
  さて、どこにあるでしょう? 』




 『 雪男、Bentornato!
   Domani si bloccherà il ふとん!
  Quindi cerchiamo di alzarsi presto.

  雪男、大好き

  雪男、大好きよ

  おやすみ

  りん

  P.S.、ゆーやけ〜 』



 『 Buon giorno Yukio!

   Non credi che il mio italiano e migliorato?
   雪男のくれたテキストがわかりやすいからですね
   最近たくさん会話をひろえるようになってきました
   毎日feliceでallegroな人たちと話をするのは楽しいです

   昨日は丸一日ゆきおがいなかったので、クロワッサンを焼きました
   すげくね?
   あたためて食べてください

   そうだ
   大通りを外れたところにあるベビーショップで
   クロがめちゃくちゃ気に入ったベッドがあります
   りんの名前でとりおきしてるので買ってきてください

   いってきます

   りん

   P.S.、今日の写真はクロです ちょうかわいい
   ねごとでゆきおっていってたんだぞ 』











****











今日も僕はひとり起きた。隣に抱いて眠っていた筈の姉さんはいない。
いったいいつから、僕は姉さんの気配無しでも眠れるようになったのだっけ。
いったいいつから、僕は姉さんのいない朝食を食べられるようになったのだっけ。







いったいいつから、姉さんに欲情する事を諦めたんだっけ?












***








僕と姉さんが、今よりずっとずっと小さかった頃。
僕たちは、思考をいつだってつなげていた。
わざわざ声に出して会話するよりも、そっちの方がずっと気持ちが伝わったから。
どうしてそんな事を思うのか、そんな事を言うのか。
アイス一つを手渡すのだって、声に出すのと心で会話するのとは全然違った。
姉さんが何故このアイスを選んだのか、何故この味を選んだのか、姉さんは僕の事をたくさん想ってくれていて、それが僕は嬉しかった。
当然姉さんも、アイスを受け取って嬉しいと、ありがとうと、そう返す僕の気持ちが嬉しかった筈だ。
ゆきおに喜んでもらえて、嬉しい。そう喜ぶ姉さんの気持ちを、僕は共有していた。

けれどいつだったか、神父さんに他の人がいるときにそれはやめなさいと言われた事があった。

僕たちはそれからなるべく声に出して会話をしようと努めたけれど、お互い心の中は不満でいっぱいだった。
「おはよう」一つ言うにしたって、今までは愛情がたっぷり伝わってきたのに、声じゃ柔らかい声音だという事しかわからない。
けれど僕たちは神父さんが大好きだったし、神父さんに怒られたくなかったし、なにより神父さんが仲間はずれで寂しいだろという言葉に、ああ、この人を一人にしてはいけないと思ったのだ。
この大好きな人の傍にいるのは絶対に僕たちだと、一生僕たちだと、僕たちはお互いの心にそう誓ったのだ。
けれどやはり不満はあったけれど、神父さんの言う事を訊いておいて本当によかったと思ったのは、僕が祓魔師を目指す事を決めた時だった。




僕たちは心が聞こえるけれど、見える訳じゃないから、僕が幼い頃から見てきた悪魔は、当然姉さんには僕の心を通したって見えなかった。だから姉さんは、僕がどうしようもなく怖いお化けが怖くて怖くて怖くて怖くてという事を知っていたのだけど、なにも出来なくてそれをどうしようもなく歯がゆく思っていたのを、僕は知っている。


訓練を初めてすぐ、僕は心を閉ざす方法を覚えた。祓魔師の部分だけを、心の奥底に、鍵が無いと開けられない宝箱のように、奥底に閉じ込めたのだ。それから姉さんと心で会話をする事があっても、それだけは。姉さんがサタンの落胤であるという事も、僕が祓魔師を目指している事も、

僕が姉さんを好きだと言う事も。



当然少しは漏れてしまう。それはもうどうしようもなかった。けれど姉さんは僕のそんな秘密を思春期特有の、異性同士の姉弟のそれと勘違いしてくれたから、僕は平気だったけれど。僕は、姉さんの秘密に関しては平気じゃなかった。


姉さん。


姉さん、知られていないと思っていた?
姉さんが、風船を離して泣いてしまっている女の子のために、木に登ってぼろぼろになりながら、とりにいって上げた事。けれど力加減を間違えて割ってしまって、女の子に嫌い大嫌いと言われた事。嫌いといわれた事に傷ついて、でもおれが悪いんだと自分を責めていた事、知っているよ。
おばあさんの為に車をどけてあげたのに、お礼も言われずに気味の悪い子ねと言い捨てられて傷ついた事も。
お世辞にも可愛いとは言えない女の子に渡されたタオルを無惨にも棄てた男をなぐって、頭を下げさせられた事。

(やさしいことにつかわなきゃ)

(ふうせんはこれから、もっとそっとつかむようにしよう。くるまは、ひっぱってどけるようにしよう。おとこは、なぐらないで、だめだよといわなきゃ。
もっともっとがんばらなきゃ やさしいことのためにちからをつかわくちゃ)

でもいつの日だったか疲れてしまった姉さんは、学校をさぼるようになったよね。けれどそれが決して面倒くさいからとか、そういう理由じゃない事も、僕は知っているよ。姉さんは昔から嘘が下手で、心を閉ざすのが上手い僕と違って、姉さんはいつもほぼ全開だ。
もう傷つけたくなかったんでしょう。
優しい事をしようとしているのに、空回りをしてしまう。優しい事ができたのに、化け物だから悪魔の子だからと、お礼も言われない。会っただけで嫌そうな顔をされたり。僕と仲がいいからと、不細工と言われたり。うざいと言われて、目障りと言われて、キモイと言われて。
そんな風に姉さんを傷つけられて心をいためる僕を、見かねたんでしょう。

(せかいいち やさしい かわいい おんなのこなのに)

いつだったか心でそういったら、姉さんは泣いた。

(そんなの おもってくれるのは このよでゆきと とうさんだけだよ)





ごめんね。
そんな風に姉さんは僕に心をさらけ出してくれるのに、僕は秘密ばかりだ。




塾で姉さんを見たとき、僕はついうっかり姉さんの心を読んでしまった。
それでも僕は心を閉ざしたまま。なんて卑怯なんだろうと思う。
でもそれは僕の罪だ。姉さんを一生守るかわりに、姉さんに一生嘘をついていこうと思ったのに。
「死んでくれ」
思ったのに、僕は一瞬、心で泣いてしまって、それを姉さんに聞かれた。


「雪男」
姉さんが僕の頭を抱える。
「雪男」
(わかったよ。ようやくわかったよ、雪男。なかないで)
ごめんね姉さん。僕は姉さんに死んでくれなんて、言われるところを想像しただけでも涙が出てきたのに。
なんで僕があんな事を言ったのか、なんで僕が今まで隠してきたのか、なんで僕が祓魔師を目指したのか。
心を聴いてくれた姉さんは、一粒だけ涙を流して、そして、僕に、



キスした。



















僕は毎晩、姉さんの寝顔を見てから寝た。
枕元に跪いて神父さんに祈った。

(神父さん 僕は あと幾程の夜を 姉さんと一緒に過ごせるだろう)

そして僕は毎朝、姉さんの寝顔を見て起きた。
枕元に跪いて神父さんに感謝した。

(神父さん 今日も姉さんが 穏やかな幸福を送れますように)

毎日姉さんの食事を食べ
(神父さん どうか この命を戴く姉さんが 人を殺さずにいられますように)
姉さんを抱きしめ
(神父さん どうか 姉さんのこの体が 心に悲鳴をあげませんように)
姉さんを殺す為の授業を受け
(神父さん どうか 姉さんが自分の致死説を 一生涯知る事がありませんように)


僕は毎日姉さんに恋をして 欲情して それを閉じ込めて 


(姉さんが僕の このドロドロの気持ちを キモチワルイと思いませんように)


姉さんを愛した。


















そう。




僕と姉さんは、 気持ちと思考がリンクしている。








高校時代、

姉さんが初めて異性として勝呂くんを意識し始めた時 僕も同時に勝呂君を好きになった
勝呂君は今まで確かにどちらかといえば僕のお気に入りの生徒ではあったのだけれど
姉さんが勝呂君を好きになったとき 僕は勝呂君が更に気に入った
勝呂君の優しいところを姉さんが気付いて胸を暖かくする度に 僕もそれを共有して どうか二人が一緒になれますようにと心から願った





けれど僕には、

僕は姉さんとは絶対に共有しない、させまいとする想いがあって
気を緩めたら出てしまいそうになる想いを 僕はもう何年も何年も心の奥底に押しとどめてきた

姉さんを愛しているという想い

姉さんを愛し、姉さんに口づけ、姉さんを抱きたいという欲望だらけの想いを、僕は姉さんに読まれないように必死で守ってきた




だから僕は、

皆が祓魔師として活躍しはじめ 姉さんが勝呂君とつき合い始めた時、僕の心の奥底が嫉妬と独占欲で醜く爛れていくのと
姉さんとリンクしている僕の部分がどうしようもなく幸せだと訴えてくるのとで
苦しくて苦しくて




姉さんの感情が流れ込んでくるのは仕方がなくとも

せめて僕自身の視界で

愛を交わす二人を見たくなくて






僕は、日本を出た。













***









今日で、姉さんが僕の家に泊まり始めて一ヶ月半が経つ。












「奥村君、最近彼女でも出来たの?」
そう訊いてきたのは、管理部にいる日本人女性だった。
日本の塾に入ったけれども祓魔師の認定試験に合格できなかった彼女は、そのまま諦めてバックサポートの道を選んだ。イタリアは美しいと迷わずヴァチカン本部を選んだらしく、少ない同じ日本人とあって雪男も彼女とは少し親交がある。
「彼女ですか?」
「そう。最近美味しそうな手作りのお弁当を持ってきてるから。私の他にも日本人の女の子、二人いるんだけどね、ここでたまにお昼食べてる君みながら、彼女かなぁって」
「いえ、彼女じゃなくて姉なんです」
「お姉さん?」
「ええ。最近、こちらでの任務でお世話になってると思うのですが」
そこまで言うと、彼女はきょとんとした顔を見せた。
「お姉さんという事は、奥村燐さんかしら」
「ええ」
「うちには来てないわよ?」
「え?」
驚く僕をよそに、彼女はデスクのパソコンで調べ始めた。
「・・・うん、やっぱり奥村燐さんはいないなぁ。ヴァチカンの任務にはいってないみたいよ?」
「そう・・・なんですか」
「うん。あ、ちょっと待ってね・・・・んー」
姉さんが、任務に行ってない?でも僕らは最近食事がすれ違う。夜は一緒に眠るけれど、姉さんがいない時は大抵任務だと、そう、仕事だとメッセージにも書いてあった。
「あ、あったあった。お姉さんはねぇ、日本支部の任務ねぇ」
「日本の?」
「ええ。・・・あれっでも今一緒に暮らしてるんだっけ?」
「・・・はい」
「変ねぇ。確かにこっちからは彼女に任務渡してないわよ。無限の鍵でも持ってるのかしら?」






おかしい。
彼女にありがとうと言って本部を出た僕は、なんとはなしに公園に入っていった。見かけたベンチに腰を下ろし、もうひと月もすれば夏の暑さも来ようという春の陽気に包まれながら(姉さんのようだと思いながら)、僕は頭を整理した。
姉さんが僕の家に来たのは一ヶ月半前。姉さんは傷心であまりたくさんの事を訊きたくなかったから、任務の話はまったくしなかった。そもそも僕は、姉さんが半ば居候の様な形で僕の家に住み始めて二週間もする頃には、こっちに移動したものばかりだと思っていた。そのうち姉さんと任務につくのかも、なんて淡い期待すら覚えていた。



でもそういえば、僕は姉さんとローマですれ違った事が無い。



朝起きて姉さんがいなければ、当然のように姉さんはそこにいない。姉さんが前の日にとった写真が立てかけてあって、当然のようにその裏にメッセージが書かれている。そこにはいつも何時に帰るだとか、作り置きしたご飯はなんだとか、そして僕への小さなメッセージが書いてあって、追伸には写真についてが書かれている。
僕はこの一ヶ月半で出来た新しい習慣を当然のように許容していたし、むしろこれを何年も続いてきた物のように感じていた。
(あれ?)
でも、そういえば。

そこまで考えて、僕は走って家まで帰った。ベッドの両脇には引き出しのついたサイドテーブルがあって、片方は姉さんにあげている。僕は自分の方に姉さんのくれた写真を全ていれてあった。姉さんが任務先でもらってきたという、写真が入るサイズのクッキーの缶。一枚一枚取り出して、僕はそれらを食い入るように見つめた。そして、四枚の写真に行き着いた。
クロの写真、ある修道院の写真、任務中であろう、山の入り口の緑の写真、そしてココアの入ったマグの写真。
問題なのは、これらの写真が全て、日本でとられたという事だった。
クロの寝顔が可愛いと言っていた写真には、クロがビビッドカラーの座布団に気持ち良さげに寝ている。けれどこの座布団は、姉さんが日本で一人暮らしを始めた時に、しえみさんがプレゼントした物だ。姉さんがこっちに来たとき、姉さんは最低限の物しか持ってこなかった。それから物が増えてる事も無い。姉さんの写真には必ず日付がプリントされているから、ずっと前に撮ったという事もない。そもそも姉さんが写真を撮り始めたのは、こちらで暮らし始めて初めてなのだ。
修道院の写真だって、よく見ればこれは、北十字にある女性修道院だ。女性修道院という事で、うちとはあまり交流が無かった。神父さんだけは、たまに姉さんを連れて行っていた。あそこのシスターたちは皆いい人だったけれど、男子修道院じゃあ色々と行き届かないでしょう、とことあるごとに姉さんを引き取ろうとして、僕としては非常に不愉快だった。神父さんもその度に「申し出はありがたいが俺の娘だから俺が育てる」といって断っていた。けれどまぁ確かに、小五の時に姉さんの胸がふくらみ始めた時や生理が来たときなんかは、お世話になったのだが、それはそれだ。
山の入り口の写真だって、よく見ればイタリアには到底生えていないだろう木ばかりだった。これは明らかに日本だ。そして、マグの写真。
これは姉さんのお気に入りで、確かまだ二人で男子寮に住んでいた時に姉さんが買ってきたものだ。無駄遣いをして、と呆れながら叱った僕に身を竦めながら、だって、と食い下がるようにしていたのを覚えている。雪だるまにじゃれている黒猫のデザインの描かれた、姉さんの両手にすっぽり収まったそれに、僕もそれ以上反対する事など出来なかった。明らかに、僕とクロを思って姉さんは買ってきたのだから。けれど当然、姉さんの持ち物にコレは無い筈だ。
(・・・なんで?)








(もしかして)

そう、もしかして。もしかして姉さんは、僕が家にいないあいだ、ずっと日本にいたのかもしれない。「一緒に暮らしていた」と思っていたのは僕だけで、姉さんはそうは思っていなかったのかもしれない。寝る時は一緒だったけれど、僕の任務の終始時間がはっきりとわかっている日は必ず一緒に夕食を食べたけれど、姉さんがオフで僕が家にいない日。僕の食事を作り置きした後は。

姉さんは、どこにいたんだ?

そういえばクロだっていない時が多々あった。大抵はいつも姉さんと一緒にいるクロが。きっと散歩をしているんだろうと僕は思っていたけれど、もしクロが、姉さんのアパートでゴロゴロしていたとしたら。僕の生活リズムを知り尽くしている姉さんが、僕の部屋に通じる鍵を持っていて、僕の食事の時間にこちらに来て食事を作って、僕と食べて。時折散歩だとか言って十分程家を出て行く姉さんは。散歩ではなくて、本当は自分の家に帰っていたとしたら。ーーーそれなら、姉さんが日本支部の任務についている事も、なんら不思議ではないのではないか。















姉さんは、勝呂君との結末に未練が無いようだった
もとから、心の奥底でいつかは別れなければならないと思っていたのかもしれない
勝呂君は祓魔に特化した明陀宗の座州血統で、姉さんはその敵と言っても過言ではない、魔神の落胤。
もちろん京都の人たちは姉さんの事をそんな風には思っていないだろうけど、いつも姉さんを歓迎してくれているけれど、それでも、やっぱり。
座州血統にサタンの血を取り込むのは、やっぱり。

勝呂君は今頃、お見合いで出会った女性で祝儀を上げている筈だ。その祝儀を上げるため、姉さんは別れた。
勝呂君は最後まで知らなかったらしい。姉さんは一人志摩君と三輪君にそれを伝えられ、姉さんは勝呂君に黙ったまま最後のデートをした。そしてデートが終わる直前に、・・・・別れを。












(あれ?)


そういえば僕は、姉さんがこちらに来た時、ずっとここにいていいよという言葉をかけただろうか。

僕は何か大切な物を道に落としてしまったのに、それがなんだかわからない、漠然とした不安に教われた。
















***










「・・・あたまがいたい」
ずっと考えていたせいか、頭が痛くなって、僕は眼鏡を外して目がしらを揉んだ。ソファにごろりと横たわって、なんとなく眼鏡をくるくると弄ぶ。レンズが汚れているのに気付いてシャツでふこうとしたけれど、ふいに、何故だか眼鏡ケースがどこにあるのかが気になってしまって、僕は起きた。眼鏡ケースなんて普段滅多に使わないのに。あれはどこへやったっけ。
先ほどまで頭が痛くなるほど悩んでいた筈なのに、僕はなぜか眼鏡ケースに思考を奪われた。この嫌な感じには覚えがある。中学の時、姉さんがけがをして帰ってくる予感がした時に似ている、嫌な感じ。
どこだろうどこだろうと思いながら、僕は家中を捜索した。乱雑に雑誌や物が置かれているラックの中や、洗面所の引き出しの中、クローゼット。本気でどこだろうと悩みだして、僕はベッドに寝転がった。姉さんが使っているサイドテーブルが目に入る。
(そういえば、姉さんが来る前あそこは掃除しなかったな)
僕と姉さんには遠慮という物が存在しない。本当に何か隠したい物が隠れている場所は(そう、例えば秘密の誕生日プレゼントとか)、僕らには近づけばわかる。だから僕は迷い無く引き出しを開けた。一番奥に、確かに眼鏡ケースは入っていたけれど。けれど中を埋め尽くしていたのは、僕の、写真だった。

奥底に勝呂君の写真が5枚程あって、後は僕の写真ばかりだった。それもこっちに来てからの。寝ている僕、報告書を書いている僕、ご飯を食べている僕、クロと戯れている僕。ローマの街を歩く僕。いつの間にこんなにたくさん。僕は一度だって、撮られている事に気付かなかった。
見てはいけない気がしつつも、僕はごそりとそれらを取り出した。一枚がひらりと束を抜け出して床に落ちる。拾おうとした僕は、上を向いた裏面に言葉が書き連ねられているのを見た。

「・・・・・っ・・」



『雪男は気持ちをきいてくれる 大好き』

『雪男、無理をしないで』

『雪男、いつまでそうやって幸せそうにわたしのご飯を食べてくれる?』

『雪男、わたしはまだ日本支部しょぞくです。気づきませんか?』

『雪男、わたし、あのマグカップを持ち込んでいいですか?』

『雪男、クロのお気に入りのあのざぶとんを、持ってきてもいいですか?』


何枚も何枚も 全ての写真にはメッセージが刻まれていて しかもそれらはどれも 消されていたり誤字があったり



ふと僕は一枚の写真を手に撮った。刻まれている日付は、二週間前。





『雪男、今日で一ヶ月になります。私はここにいていいんですか? 日本のあの家を引きはらっても、いいですか?』



「・・・・・・・・っっ・・・・」









     姉さんの気持ちを 垣間見た気がした











姉さん、この文面に、愛があふれているのは僕の気のせい?僕はつい直接姉さんの心を読みがちだから、心を読み解く事が上手くないんだ
それに僕は、言葉で気持ちを伝えなければいけないという事を覚えてから、僕は心を知るのが怖いんだ
姉さんが好きなのに 姉さんは勝呂君が好きでしょう 僕がそれを嬉しいと思うのにつらいと思うのは 勝呂君に嫉妬をするから
でもこうやって期待はしていいのかな? 姉さんも僕を好きだと勘違いしていいのかな? それが怖いよ
だからこうやってなあなあな関係を続けたがるんだ だから一線を、僕の方から超えたくないんだ
情けない話なのはわかってるよ
姉弟でいられれば、どんなに関係がこじれても僕たちはずっと一緒でしょう?
だって、 だって
姉さんが僕の想いを受け取ってくれるか、わからないじゃない
小さい頃はそれこそ、全てを贈り合って受け取り合っていたのに、
今は姉さんが僕の想いを受け取ってくれるかわからないじゃない
受け取ってくれても、返してくれるかはわからないじゃない
大人になるって嫌な事だ あの頃は見返りなんて求めなかったのに 姉さんに思いが伝わっている事自体がしあわせそのものだったのに








ああ、でも


今まで僕は 姉さんの視線の意味を計りかねて、知りたくなくて思考を閉じてきた

姉さんを誰にも渡したくないと思うのに、姉さんの勝呂君尾との幸せな関係に翻弄される僕の気持ちばかりで僕は今までつらいつらいと嘆いていたけれど

それは姉さんにしたって 同じじゃないのか?



姉さんも、勝呂君との幸せな関係によいながら、僕の見にくい感情にも挟まれて苦しかったのかもしれない

姉さんが苦しいと思ってた事は知らなかったけど

僕が見せまい見せまいとしていた姉さんの思いのように

姉さんだって苦しいと思っていた事を隠していたのかもしれない




(そもそも僕は、姉さんへの想いを 本当に隠しきれていたんだろうか)

姉さんは本当は僕の気持ちを知っているんじゃないだろうか
僕の気持ちを知っているから一緒に住む事を言い出せないんじゃないか
僕がいつまでも言わないから 姉さんは不安なんじゃないのか

姉さんには覚悟があるのに僕には無いから?
勝呂君と姉さんへの気持ちに挟まれて苦しいのを知っているから?




(・・・本当、シュラさんに言い返せない)


(『Hello, my name is Billy』)












***













「・・・・姉さんに、僕の気持ちを言おう」








日が傾き、夕陽がローマを赤く染める頃

僕は決心した。そして覚悟をした。


伝える決心と、傷つく覚悟を。













***





家を飛び出した僕は、カメラや写真の事なんてさっぱりだから、仕方が無く現像の手間のかからないポラロイドカメラを一台衝動買いした。家に帰り、僕のクローゼットの奥底にしまってあった、紙袋を取り出す。姉さんは二時頃帰ってくる筈。あと一時間。
僕はだいぶ前にプシュケのハニーセットを購入していた。そう、だいぶ前。ピオニーでアクアマリンともターコイズブルーともとれるエメラルドグリーンのそれは僕が姉さんに贈りたくて仕方が無かったのだけど、その頃姉さんはまだまだ新米祓魔師で、中級や上級悪魔を倒したときにもらえる高級な額にふらふらするような状態だったから、とても受け取ってなんて言えなかった。それにその後すぐに僕たちは独り立ちをしてみようと二人住んでいたところから離れて一人暮らしを始めたから、ハニーセットなんて渡せなかった。
それと、そしてその後足すようにして買ったお揃いのティーポットとクリーマーを取り出して、簡単に水洗いをして布巾で拭いて乾かした。テーブルにセットする。その後思い出したように花も買いにいった。
そして僕はドキドキしながら紙袋から柔らかいシフォンの小袋に包まれた箱を取り出した。姉さんに絶対似合うと思って衝動買いした、何十万もするけれど、けれど絶対受け取って欲しくってかった品。
合計0.28カラット、アクアマリンと18Kホワイトゴールドの指輪。姉さんが女性らしい装いをするようになって初めて二人でウィンドウショッピングをして、初めて姉さんが興味を持った、ティファニーの、メトロリング。
その箱のふたを閉じたまま、僕はそれを写真におさめた。プリントされた写真が、どんどん鮮明になっていく。僕は写真の下部にある余白に、今まで一度もいわなかった、本当は言わなければならなかった事を書いた。写真を花束を飾った花瓶に立てかける。数歩下がって全体を見てみた。
左右対称になるように置かれたエメラルドグリーンのプレート、ティーカップ&ソーサー、ティーポットにそしてクリーマー。真ん中には花瓶に飾った花束。本当は花言葉とか姉さんの誕生日花でそろえようかなんて恥ずかしい事を考えたけれど、花言葉も姉さんが知っているわけないし姉さんの誕生日は僕の誕生日だ。だから無難にというか、これなら絶対に間違わないだろうと思って薔薇の花束を。そしてその花瓶に写真を立てかける。



姉さん、知ってる?
僕の家のものは大抵が姉さんの色であふれている
キッチンタイルもバスルームの壁の色もシーツの色もブックカバーの色も淡い青だという事
姉さんの炎の色だと言う事
姉さんがどれほどいやがっても
結局姉さんに一番似合うのはその炎の色だということ



「・・・・どうしよう」

(喜んで、くれるだろうか)

「・・・怖いな」

(想いを伝えるのって、本当はとても怖い事なんだ)

簡単に伝わってしまう想いには、重みがなくなる。


           ( 『お前たちは、もっと言葉の重みを知りなさい』 )


ああ、神父さん


           ( 『何の為に俺たちは、聖書を・・・神の言葉を、声に出す?』 )


「姉さん・・・」




「あい、・・・あ、あい、」












***









「ただいまー」


それからしばらくして ソファに座っていた僕は姉さんの声に飛び上がった。


「雪男、帰ってんの?どこ・・・・」


姉さんがぽとりと鞄を落とす音がする 布ずれの音が耳に痛い 心臓がバクバクする
かちゃん、と小さな音がして 姉さんがセットに触れたのだとわかった ああなんて言われるだろう 最悪、無駄遣いだと叱られるかもしれない
「・・・っ・・・」
息をのむ音がする。姉さんは、写真に気付いてくれたのだろうか。箱を持つ手に力を込めた。
姉さん メッセージを読んでくれた?それが僕の気持ち
姉さんに否定されたくないからって いつまでもなあなあな姉弟の関係を続けようとしてごめん これが僕の気持ち 伝わるかはわからないけれど 汲み取ってほしい わがままでごめん
足りなかったら、言葉にするよ
手元の箱をそうっと開ければアクアマリンがきらきらと光を反射している
振り向けば姉さんにこれを差し出せる
ねえ姉さん メッセージを読んでくれた?それが僕の気持ち





『姉さん 僕とここで 一緒に暮らしませんか』





それが僕の精一杯のプロポーズ





クローゼットを半分こしようよ。

2012年3月10日(2012年2月19日初出)