とある女の肖像



「君はとても信頼されているようだね」
 頭上からかかった優しい声に、アンカ・ラインベルガーは顔を上げた。同じ女性でありながら、調査兵団のトップを務めるエルヴィン・スミス団長と、アンカは直接的な関わりがない。けれど今、こうして彼女の裸の背中を拭っている。人払いのされた部屋の外では今頃、エルヴィンの部下であるリヴァイと、アンカの上司であるピクシスが守衛を務めている事だろう。
「司令ですか?」
「ああ」
 アンカは背中を拭う手を止めると、エルヴィンに多いかぶさるように密着し、腰に力をいれて彼女の身体を引っ張り上げた。ヘッドボードにゆっくりと凭れさせてやる。背中との間に枕を差し込んでやると、エルヴィンはほう、と熱いため息をもらした。
「ありがとう。助かるよ、まだ動き回れるほどには回復していなくてね。身体がひどく重いんだ」
「いえ、腕を無くされて尚長時間巨人相手に戦われたのですから、無理もありません」
「ますますあの人にはもったい部下だな、君は」
「恐縮です。腕、失礼します」
「頼むよ」
 アンカは膝に置かれた左腕を取ると、絞り直した布巾で肩から下に滑らすように、ゴシゴシと力強く拭きはじめた。しばらく無言が続く。けれどその程度の沈黙が重々しく感じるほど、伊達にアンカもあの腹に一物も二物も抱えているような老人に仕えていない。淡々と仕事を続けていたアンカであったが、ふと思い出した事を、この際エルヴィンに訊いてみる事にした。
「あの」
「ん?」
「エルヴィン団長は、昔司令の部下であったとお聞きしました」
「ああ、そうだよ。丁度君のポジションに私がいた。といっても十年以上も前の事だから、あの人はまだ南部を統括する師団長だった。やっぱり、お酒好きな人だったよ」
「頭が痛いです」
「そうだろうね」
 腕のついでに脇から腰までのラインを拭くと、アンカは伺う様にしてエルヴィンを見遣った。前を拭くべきかどうか迷ったのだ。
「ああ、貸してくれ。前は自分でやるよ」
 そういってアンカが手渡した布巾で鎖骨から胸にかけて拭き始めたエルヴィンではあったが、力が入らないためか、うっすらと米神に汗をかき始めた。それにめざとく気付いたアンカが、そっと布巾を取り上げる。失礼します、と断ってから、アンカはエルヴィンの豊満な乳房を拭き始めた。
「…すまない」
「いいえ」
 そもそも、看護士でもないアンカがこうしてエルヴィンの身体を拭いているのには訳があった。エルヴィンが目覚めるまでの一週間は、もちろん看護士が付きっきりで身体の世話をしていたのだが、今日はピクシスとリヴァイの2人が訪れる日だったので、一日中人払いをしてしまったのだ。今日は少し気温の高い日で、汗もかきやすかった。なじみ深いハンジがその役を請け負ってもよかったのだが、あいにく彼女は現在とてつもなく多忙で、ゆっくり上司の身体を拭いている暇など無いのだ。そうすると、同室に同性はアンカ一人しかいなかったため、自然と彼女に矢がたったのである。
「セクハラはされてないかい」
「は…」
「部下にも平気で下品な事を言う人だろう」
 それともその悪癖はもう治っているのかな。そう、懐かしそうに笑うので、アンカはいいえ、とかぶりをふった。
「相変わらず下品極まりないです。この前、お前にもっと胸があったら、と言われました」
「それは酷いな」
「腹がたったので、お尻に蹴りを」
「素晴らしい」
 おかしそうに笑ったエルヴィンの顔はどこか少女めいていて、アンカは一期に親近感を覚えた。女性兵士としては年嵩で、いつも大人の色気を振りまいているようなエルヴィンだが、こうしてアンカも共感できる昔話をしてくれる様子は可愛らしい。アンカは、これはピクシスを懐柔する手法をいくつか学べるかもしれない、と若干身を乗り出すようにして尋ねた。
「…団長もセクハラを?」
「ああ、よく胸を触られたよ。触られたというか、鷲掴まれたというか」
 自分の胸に目を向けるエルヴィンにつられて、アンカも胸に目線を落とす。どこかしこも鍛え抜かれているのに、胸はふくよかで同じ女としてうらやむ形と大きさだ。ハリも弾力も申し分なさそうで、確かにこれでは触りたくなっても仕方がないかもしれない。だとしても、部下の胸を断りもなく鷲掴んだという事実と、逆に自分の胸には残念そうな視線を向けられたという二重の事実に腹がたって、アンカは自分が出せるものでもかなり低い声で、ぼそりと言った。
「最悪ですね」
「だろう?」
「報復は?」
「しなかった」
 アンカは腹を拭く手を止めた。エルヴィンはありがとう、と小さく言うと、左手でシャツを被りながらぽつりと視線を落とした。
「しなかったんだよ。私にはできなかった」
 アンカは、シャツの裾を引っ張って、エルヴィンの着衣を手伝ってやった。エルヴィンは長い髪をシャツの中から引き出すと、そのまま懐かしむように語り始める。
「私はまだ若くて、立ち回り方を知らなかった。上官の意のままである事が昇進への近道と思っていたんだ。何をされるのも昇進のために受け入れるべきだと信じていた」



 エルヴィンは、脊髄反射で足払いをかけようとしたのを、寸での所で堪えた。ぐい、と腕を引かれ、身体が反転していると脳が認識する頃には、諦めていたのだ。すぐにスプリングの効いたソファに、身体全体が沈んだ。自分でも大きいと自覚している胸が大きく揺れて、男の眼前に晒される。
「どうした」
 少し歳の入って擦れた声に、エルヴィンは顔を上げた。眼前には鋭い眼光をエルヴィン一人に向けているピクシスがいた。今より少し若かったが、それでも年相応に皺の刻まれた顔で、エルヴィンを真直ぐ射抜いてきた。
「抵抗せんのか」
 ピクシスの問い掛けに、エルヴィンはゆっくりと自分の置かれた状況を確認した。縫い止められている腕は体重こそかけられているが、腕の力は弱い。体の右側にソファの背もたれがあるので、左に体をひねれば簡単に抜けられそうだ。エルヴィンは再び頭上のピクシスに視線を向けた。真剣な面差しの理由は推し量れない。けれどエルヴィンに、抵抗する気は起きなかった。
「……光栄です」
 感情の読めない声で、エルヴィンは静かにそう言った。胸中は穏やかだったように思う。ピクシスはそんな彼女の様子をしばらくじっと見つめていたが、やがて大きくため息を一つつくと、あっさりとエルヴィンの身体から引いた。そしてぶっきらぼうに、こう言い放ったのだ。
「つまらん奴だ」
 白いシャツの前を押さえて起き上がったエルヴィンに一瞥をくれると、ピクシスはポリポリと頭を掻いた。近くにいる椅子にドッカリ座り、エルヴィンを見つめる。エルヴィンは一言断ってから、ボタンがひとつ外れたシャツを合わせた。ぐっと唇を噛み締め、震える手を叱咤してシャツを直した。

 つまらない奴。

 その評価は、エルヴィンに思わぬ打撃を与えた。人間として取るに足らない価値の人間だと、尊敬する上司に断じられた気がした。エルヴィンはまだまだ若かったのだ。
 目頭がかっと熱くなり、エルヴィンは羞恥で震えた。この歳で言葉に傷つき泣くなどみっともない。けれどピクシスは相変わらず蔑む(少なくともエルヴィンにはそう見えた)様な目で彼女を見つめてくるし、シャツのボタンは止め終えてしまってすることが無い。顔を上げたいのに潤んだ瞳は見られたくなくて、エルヴィンはとうとう行き場の無さに縮こまった。
「……はぁ」
「っ……」
 もの言わぬエルヴィンに呆れたのか、ピクシスは大きなため息をエルヴィンに向かって吐いた。それが決定打となって、エルヴィンはとうとう、その青目から大きな熱い涙の粒をこぼした。気付かれまい、見られまいと必死で嗚咽を殺した。けれど肩の震えや、空気の水っぽさにエルヴィンの努力はいとも簡単に打ち砕かれて、ピクシスはぎょっとする事も無く立ち上がって彼女に近づいた。
「ああ、ほら泣くな」
 ピクシスは胸ポケットから上等のハンカチを取り出すと、そっとエルヴィンの目の下に当てた。見られた事にさらなる羞恥を覚えて、エルヴィンはハンカチをひったくる。上質な布はエルヴィンの涙をぐっしょりと吸い上げ、その染みは彼女を更に惨めな気にさせた。
「そうやって泣くぐらいなら、最初に抵抗せい」
 隣にどっかりと座ると、ピクシスはエルヴィンの頭を抱き寄せた。
「そうやって何でもかんでも受け入れて、お前の行き着く先は使い勝手のいい駒だ、エルヴィン。お前はせっかくその野心をちらちら覗かせているんじゃからな、もうちょっと大きく出たらいい。儂がお前を鍛えてやろう」




「その【つまらない奴】という評価が、どうにも悔しくてね」
 年甲斐もなく泣いてしまったよ。そういって笑うエルヴィンに、アンカは失礼とは思いながらもぽかんと開いた口をそのままにしていた。
「泣いた、んですか」
「これでも昔は、それなりに純だったんだ」
 ぱちり、とエルヴィンは片目をつぶってみせた。彼女に枕営業の噂が立っている事は、アンカも知っている。
「そういう意味では」
「すまない、わかっている」
 エルヴィンはシャツの一番上のボタンを外した。手慰みなのか、またボタンを留めようとする。やはりまだ苦戦するのをみて、アンカはそっととめてやった。
「だから、君は優秀だよ。上司を諌めるという事をよくわかっている」
「…光栄です」
「この通り、私はもう前線にはたてそうにないが……」
 エルヴィンはだらりと垂れ下がるばかりの右袖を見遣った。
「戦えない私だからこそ、できる事は沢山ある。それこそ司令には、ご迷惑も助力もお願いするだろう」
 エルヴィンは背筋をただすアンカを見ると、彼女の目をまっすぐと射抜いた。
「だから司令をよろしく頼む、アンカ」
「……は!」
 アンカは反射的に、すっと立ち上がって敬礼をした。自分よりも十何年と、長い間戦場に立ち続けていた兵士の言葉だ。中でどのような話をしていたのか、アンカは知らない。だが知らなくていい。考えるのはピクシスの仕事だ。彼女はピクシスの忠実な、考える駒としてあればいい。
 アンカはそのままドアへと向かうと、ピクシスとリヴァイを招き入れた。窓から差し込む光が、もうずいぶんと寂しくなって久しいピクシスの頭をつるりと照らす。ついついそれに吹き出してしまったエルヴィンにつられて、アンカも笑った。時を経て、一人の男に仕えた女が二人、こうして言葉を交わしたのだ。それはきっと後々自分の財産になるだろうと、アンカは未来に思いを馳せた。



51話妄想。エルヴィンが今の地位への足がかりに、駐屯に身を寄せていた時期があったら面白いな、と思って。あとアンカさん好きです

2014年6月29日