「ああ、ほら。エレンストップ」
 突如鳴り止んだ伴奏に、エレンは今まさに大きく吸い込もうとしていた息を止めた。
「そこはあまり走らないで。クレッシェンドと書いてあるからといって、テンポまで早めてしまってはダメだ」
「はい……」
 エレンは苦笑する講師に肩を落とすと、crescendo (だんだん大きく)と表記されている部分に、色ペンで小さく「落ち着いて」と書き込み、それを大きく丸で囲った。
「だからかな、息をする時も肩が上がり気味だよ。それじゃあ身体のサポートを崩してしまう」
「オーケイです」
「もう一度、27ページ目のトップから行こう」
「はい」
 講師が目を細め、数小節前から伴奏を始める。心に訴えかけるような切ない旋律に目を細めると、エレンは大きく息を吸った。最初の音は、C。




Whither must I wander



「何の曲?それ」
 耳によく馴染んだ声に、エレンは楽譜に集中させていた意識を向けた。あと十分でクラシック&ロマンティックの音楽史のレクチャーだ。エレンが座っている数少ないベンチの周りには大勢の生徒達がいて、エレンは初めてその喧噪に気付いた。
「アルミン」
「イタリア語だね。なんて曲?」
「Lasciar ch'io pianga。ヘンデルの」
「ああ、美しい曲だ。でも君、ヘンデルとかの古典苦手じゃなかった?」
 隣に座りながら聴いてくるアルミンに、エレンは鞄をどかしてやりながら顔を顰めた。
「すっげー苦手。バロックからアーリークラシックにかけてのイタリア歌曲は俺の鬼門だ」
「エルヴィン先生ならそれくらいもうとっくにわかってる筈だろ。なんで今更ヘンデルなんてやるのさ」
 アルミンは身を乗り出し、楽譜を読みながら曲を口ずさんでいる。アルミンが歌うに合わせてエレンも指先で曲の抑揚を振ると、大きく肩を落としながら息を吐いた。ずるずると尻がさがり、ベンチに浅く腰掛ける恰好になる。
「これならアリアの一つだし、感情的だから他のヘンデルよりはやりやすいだろうって。得手不得手はあるにしても、仮にも演奏学部の人間が苦手だからって逃げちゃだめだって」
「さすがエルヴィン先生、厳しい」
「二年の初めに言ってくれるだけありがてーよ。三年に入ってからやらされるんじゃ他の所も崩しそうでやばいもん」
「今ならまだまだ調整が利く?」
「多分なー」
 エレンは腕時計を見て楽譜を鞄に戻した。丁度頭がいい具合にアルミンの肩の近くにあったので、おかまい無しに凭れ掛かる。「エレン、重い」というアルミンの文句を歯牙にもかけず、エレンは唇を尖らせた。
「らーしゃー、きょぴあーんがー……」
「エレン、そこはRa じゃなくて La。きょ じゃなくて きお」
「あ…」
「エレンって、イタリア語自体も苦手だよね。中々RとLの音がはっきりしないんだから」
「人にも得手不得手ってもんがあるんだよ」
「まぁ、ドイツ人のくせにアメリカ英語みたいなイタリア語歌ってた時よりは大分進歩したんじゃない?」
「努力の結果だ」
「君が誰よりも努力家なのは、僕が一番良く知ってるよ」
 時計の短針が十一時を指し、大勢の生徒がオペラホールへと入って行く。エレンとアルミンもそろって腰をあげると、人の波が大分落ち着くのを待ってから中へ入った。


 ホールに入ると、二人は入り口近くに積み上げられたプリントを三人分取り、上の方の席に座った。エレンの隣の席に鞄を置き、教授の準備が整うのを待つ。教授がマイク越しに揚々と話し始めると、するりと音も無くエレンの隣の席が埋まった。二階席の扉からやって来たミカサだ。彼女は静かな動作でエレンの鞄を彼の足下に置くと、ヴァイオリンケースと鞄を置きながら二人に話しかけた。
「ターク」
「「ターク」」
「席、ありがとう」
「いいよ」
「レッスン、どうだった?」
「とても、順調。第二章に進む」
 アルミンがミカサの分のプリントを渡すと、彼女はこくりと頷いた。鞄からペンケースとノートを取り出し、ノートを取る構えをとった。
「来月のコンプラは問題なさそうだね」
「聴きに来てくれる?」
「勿論」
「いつだっけ」
「来月頭、金曜朝九時」
「僕はいけるよ」
「第一週か?二週か?」
「二週」
「おし」
 行く、と頷いたエレンに頬を染めて、ミカサは教授に向きなおった。それに倣って男二人も前を向く。教授も、丁度軽い与太話を終えた所だった。

「そういえば、エレン」
 声を潜めて、ミカサはそっとエレンに話しかけた。ノートを取る手を止め、エレンが彼女に視線をむける。
「この前見せてくれた曲、今度、弾いてみたい…のだけど」
「ええ?いつ」
「今度のコンプラの二曲目に」
「はぁ?何言ってんだよ……」
 エレンはぎゅっと眉を顰めると、ミカサにびしっとボールペンを突きつけた。
「あのなぁ、あれはただのお遊びだぞ……ヴァイオリン学科の首席様が、コンプラで弾くようなもんじゃねぇよ」
「でも、とても良い曲……」
「ちゃんと先生が選んでくれた曲があるんだろ?それを弾けよ……作曲科でもない人間が趣味で作った曲なんて弾いたら、お前のランクが下がるぞ」
「でも……」
「しつこい……とにかく、ダメだ。そもそも、伴奏パートだってまだまだ未完成なんだからな」
「……」
「わかったか?」
「…わかった」
 ブスっとした雰囲気のミカサの小突くと、エレンは再び前を向いた。教授の話はエレンが覚えている所よりもずっと先をいっている。アルミンの方をちらりと見ると、彼は小さくため息をついてノートをずらしてみせてくれた。
「ミカサ、あんまりわがまま言っちゃダメだよ」
「……ごめんなさい」
 これだけ完璧なノートを取っておきながら、エレンとミカサの会話はしっかりと聴いていたらしい。相変わらずすげーやつだ……速攻でノートを写し取りながら、エレンはそんな事を思った。




 約二時間のレクチャーを終え、昼食も済ますと、エレンは二人と別れて音楽院の最深部へと向かった。三週間後に控えたコンプラに向けて、伴奏者探しをする為だ。コンプラは「Concert Practice(コンサート・プラクティス)」の略称で、どの楽器科にも一ヶ月に二回ほど設けられているコンサート形式の実技試験だ。一学期中に六回ほど開催されるその中で、一人平均2回ほど参加する。その学期の課題ジャンルに沿った選曲を1、2曲披露し、よほど出来が悪くない限りは「Pass(パス)」が貰える、ある意味気楽な試験だ。講師達から詳細かつ親密な講評を貰える上、ようは本番慣れする為の仮コンサートなので、よほどの緊張しいでも無ければそう構えるほどの物ではない。
 
 さて、エレンが目的とする伴奏科は、実はとてつもなく辺鄙な場所に位置している。エレンの通う音楽院は真っ白な外観が特徴的な城をベースに建設されているのだが、外観を損なうのが憚られたのか、城を一階として、音楽院全体が地下へ地下へと広がっている。地下三階を「一階」としているのだが、この一階部分が、とてつもなく厄介な構造をしているのだ。
 設計ミスか、はたまた地下という特性ゆえに発生した結果なのか。作曲科、伴奏科、そして一部の木管楽器科が据えられているオフィスは、一階にあるにも関わらず、一階からは行けない、という、とてつもなく辺鄙な場所にあるのだった。まずは二階にあがり、音楽学科、音楽教育学科を通り過ぎ、奥へ奥へと進んだ先に見える階段を下りた先がそうだ。決して一階からは行けない一階の学科。生徒にも教師にも行くのをめんどくさがられる場所だった。

「えーと……エルヴィン先生は誰が良いって言ってたっけ……ジョンだかジャンだか」
 エレンは伴奏科のある場所へ下りると、掲示板に張ってあるリストを眺めながら唸った。声学に限った話ではないが、伴奏者というのはとてつもなく重要なのだ。主旋律を歌い始める前に流れる導入部分。ここをどう弾いてもらうかでこちらの気分や感情のノリも変わってくるし、曲の特性を生かしつつソリストを上手くサポートしてもらうかで、曲の仕上がりは大分変わる。特に声楽家は気分と感情がモロに楽器の調子に影響がでる人種だ。ほんの少しの不安や焦燥感が喉を締め付け、歌い出しが上手くいかなくなる。エレンはこの一年で数人の伴奏者と組んだが、いまいちピンと来た人はいなかった。これから三年間、コンプラ毎にぽんぽん伴奏者を変えるのはエレンにとっても伴奏者にとってもよろしくない。二年目の初めでできれば一人に絞った方が良いというのがエルヴィンの意見だった。

「あった……ジャン・キルシュタイン」
 エレンは携帯を取り出した。リストに書いてある名前の下には連絡先も明記されていて、自由に連絡が取れるようになっている。エレンはリストと見比べながら番号をうっていくと、通話ボタンを押しながら近くの窓へ寄った。ここは地下三階ではあるが、そもそもの一階部分がなだらかな丘の頂点に位置しているので、地下とはいえども外は地上なのだった。
 けれど直ぐに流れて来たアナウンスに、エレンは眉を潜めて通話を切った。二、三度試してみるが、結果は変わらず。エレンは伴奏科のオフィスのドアをノックすると、顔を上げた事務員に携帯を見せながら声をかけた。 
「あの、ジャン・キルシュタインの番号ってあってますか?繋がらないんですけど」
「ええ?」
「伴奏者リストに載ってる、ジャン・キルシュタインの番号です。何度かかけてるんですけど、繋がらなくって」
「ちょっと待って……ああ、あった、ジャンの番号。君が打ったのは?」
「XXXX-XXX-XXXです」
「ああ、違う、最後の所は0だ、9じゃない。ごめん、僕が間違えたんだな、新しいのをプリントしておくよ」
「お願いします」
「でもジャンなら、今1045室にいる筈だよ、すぐそこ」
「本当ですか?」
「うん、直接交渉してきたら?」
「そうします。ありがとうございました」
「じゃあね」
 エレンはオフィスを出て、近くにある校内地図をみた。いつ来てもここはダンジョンのようだ。1045室の場所を確認して、エレンは歩き始めた。


「ここか」
 1045室はすぐに見つかり、エレンはドア横のガラス窓から中を覗いた。グランドピアノに、鍵盤に添えられた骨張った男の手が見える。件のジャンだろうと辺りをつけ、エレンはノックし、返事もまたずにドアを開けた。
「失礼しまーす」
 ぴたりと演奏が鳴り止み、男は鍵盤から手を離した。とたんにギンッと効果音がつきそうな程鋭く睨まれ、びくっと肩が跳ねる。その眼光の鋭さは明らかにヤバそうで、エレンはすぐさま居住まいを正した。
「おい」
「ハイッ」
 男は低い声でエレンを呼ぶと、組んだ膝に腕を置いた。下から掬うように睨まれ、嫌な汗が出る。マフィアの一味ですと言われたら納得する。そんな雰囲気をぐいぐい醸し出す男に、エレンは悲鳴を上げるように返事をした。
「あっ、あの」
「テメェは誰だ。ここをどこだと思ってる?」
 問われて、エレンはぐるぐるとオフィスを見渡した。明らかに練習室ではない。グランドピアノの直ぐ傍にはL字型のデスクがあり、教員用のパソコンと、備え付けの本棚がある。しかも良く見れば男は多少童顔ではあるが立派な成人男性の物で、とてもではないが、エレンと同い年だという件のジャン・キルシュタインには見えなかった。
「えっ……と、ここは1045室では……?」
 エレンが恐る恐る尋ねると、男はつい、と顎をしゃくって右を示した。
「ここは1044室だ、1045室はすぐ隣……大方、ドアが隣接してるから間違えたんだろうが……」
 エレンはオフィスから首だけだして隣を確認した。1045室。確かに隣だ。1044室の表札を見ると、そこには作曲科教授という縦書きと「Dr.」の文字が。エレンはさっと青ざめると、バッと男に向き直りながら部屋をでた。
「すっ……みませんでした!いきなり教授のオフィスにお邪魔して……!気をつけます!失礼しまっ……」
 した、と言いかけたところで、エレンは肩をドアにぶつけた。腕に抱えていた楽譜が散らばる。それは大きく広がり教授の足下にまで走って行って、エレンは更に顔を青くした。
「すいません……!」
 エレンは跪くと、がさがさと楽譜をかき集めていった。相変わらずピアノチェアに座ったままの教授が、足下におちた楽譜を拾う。それに礼を言いながら顔を上げると、エレンはさっと背中が冷えるのを感じた。
「あ……それ……」
 教授はファイリングスリップにいれられていたそれらを抜き取ると、エレンにも構わず一枚一枚さっと目を通した。エレンが震える手を伸ばしているのに目もくれず。
「……お前のか?」
 教授はちらりとエレンを見遣った。エレンがか細い声で返事をする。そうか、と教授は返して、また楽譜を読み始めた。エレンは集め終わった楽譜をぎゅっと胸に抱えて、所在無さげに立ち尽くした。教授の手にあるのは、エレンが作曲科の教授にだけは見られたくないと思っていた、エレン自作の曲だ。コードもプログレッションもまだまだ稚拙な、エレンの趣味の結晶だ。それを、プロの目に晒されるのは恥ずかしい、とエレンは思っていた。ミカサやアルミンはとても良いと褒めてくれはするけれど、それを鵜呑みにするほどエレンはバカではないし、自信家でもなかった。歌に関してはそれなりの自負とプライドがあるが、これに関しては完璧に下手の横好きという自覚があるのだ。
「あ、の……」
 どうやったら返してもらえるだろうか。エレンはぐるぐる考えて、小さく教授に呼びかけた。けれど反応はしてくれず、あろう事か教授は三枚に渡る楽譜を譜面台にかけると、置いてあった眼鏡をかけて、鍵盤に手をかけたのだ。
「サー?」
 エレンの訝し気な問いも無視すると、教授は徐に旋律を奏で始めた。耳に嫌というほど馴染んだその音は、まぎれも無くーーーエレンの作った、メロディだ。
「〜〜〜〜〜〜〜っっっ」
 エレンはカッと頬を染めると、手を宙に浮かしながら教授に詰め寄った。あ、だのう、だの声が出るが、教授は耳も貸さない。エレンは長い指に奏でられる音に真っ赤になりながら、足踏みするように突っ立った。

「これは……」
 ぼそり、と教授が口を開く。おそるおそる顔を上げると、教授は眉間の皺を思いきり深くしながら続けた。
「ヒデェ出来だ。特にここのエピソードのコードプログレッション。訳がわからん上に、パラレルフィフスとオクターブの連続……テメェ何年だ?これが作曲のタブーだって習わなかったかよ」
「え……あ……」
「あとここ。ダブリングの違反多数。コードの原型止めてねぇぞ。なんだこりゃあ……テメェ……ここでこんな不協和音になったらサスペンションの意味がねぇだろうが」
「すいません………」
 次々と投げかけられる批判の嵐に、エレンはただただ項垂れた。ぐうの音も出ない。恥ずかし過ぎて顔から火が吹き出そうだ。最後のページ、フェルマータによる小休止でとまった教授は、静かに「だが」と続けた。
「悪くない」
「………え?」
 主題の再提示を、エレンの書いた伴奏部分を思いっきり無視して弾く教授に、エレンはぽかんとした顔を見せた。そして耳に響く旋律に、びりびりと肌が粟立つ。旋律は確かに聞き慣れた物だ。エレンが完成させるまでに何度も繰り返し聴いた、彼オリジナルのメロディなのだから。だがこれはなんだ。エレンはこんな音を知らない。こんな、暖かい海の波に身体をとられるような音を、エレンは知らない。
(即興で、伴奏つけてくれてるんだ……!)
 エレンは胸元をぎゅっと握った。目の奥があつい。喉の奥に何かが競り上がって来ている感覚がする。
 最後の一音をすっと締めると、教授は音の余韻を十分に待ってからペダルから足を離した。部屋に静寂が訪れる。エレンはほう、と熱い息をこぼすと、ずっと詰めていた息を吐いた。ちょっとだけ涙がこぼれる。それを拭うと、エレンはぼうっと教授を見つめた。
「ルールがまるで成っちゃいないし、コード選択もヒデェもんだがーーー」
 教授は眼鏡を外して譜面台の隣に置くと、楽譜をエレンに差し出した。
「………美しい旋律だ。久しぶりに良い音を弾かせてもらった」
「ぁ……」
「俺はリヴァイだ。お前は?」
「え、エレン……イェーガーです……」
「何年だ。楽器は何をやっている?」
「二年……テノールです」
「……エルヴィンの生徒か」
 リヴァイは立ち上がると、未だにぼうっと突っ立ったままのエレンを促してオフィスから出した。再び楽譜を差し出し、エレンが今度こそそれを受け取ると、リヴァイはドア横の名刺入れからカードを取り出し、それをエレンのシャツの胸ポケットに差し込んだ。
「また来い、エレン」


 そして、ドアは閉じられた。



音大生パロ。エレン→テノール、ミカサ→ヴァイオリン、アルミン→ピアノ、リヴァイ→作曲科教授、エルヴィン→声楽科教授

2014年6月23日