ーーーエレン。エレン、エレン・・・エレン・・・・


 ああ、ミカサが泣いている。






 あの忌まわしい日からすっかり表情が抜け落ちてしまったらしいミカサが、しくしくと泣き虫のミカサちゃんになるのが雨の日だった。その日ばっかりはミカサはエレンの袖をちょこんと摘んで、しくしくと泣いてみせるのだ。わざとでもなんでもなく、雨になると半ば反射の様にそうなってしまうミカサを、エレンはその日だけは甘やかした。手をつないでやったし、お風呂も一緒にはいってやったし、夜通し雨がふりそうな日は一緒のベッドで眠ってやった。そうして最後に「もういいだろ」と手を離そうとすると、とたんに不安そうな目でみてくるのだ。「心配しなくとも、俺とお前はずっと家族だ」と言ってやると、ようやくほっとしたように手を離す。何度言ってやっても駄目なのだ。
 ある日の雨の日の事、ミカサは雨が降り出すととたんにびくりと身を震わせて、後ろにいるグリシャにぴったりと張り付いた。膝の上にミカサをのせて本を呼んでいたグリシャは、微笑んで彼女の背中を何度も優しくさすってやった。それでもやっぱり不安そうなので、グリシャは声を張り上げて別室にいるエレンを呼んだのだ。エレンはすぐさま飛んできて、ミカサをかっさらって再び部屋に戻っていった。
「またかよ」
「うん」
「まったくもう」
「ごめんなさい」
「怒ってない」
「ごめんなさい」
「お前はおれの家族だよ」
「ほんとうに?」
「ほんとうに」
「おばさんも、おじさんも」
「うん。四人でひとつの家族だ」
「でも、いなくなったら」
「ならない」
「そんなのわからない」
「いなくなっても、家族じゃないことない」
「じゃないこと、ない」
「ずっと家族だよ。はなれても」
「はなれても、家族」
「うん」
「ほんとうに?」
「ほんとうに」
「じゃあ約束してくれる?」
「するよ」
「ユビキリもしてくれる?」
「・・・・・」
「してくれないの」
「ユ・・・リってなんだ」
「ユビキリだよ」
「ユビ、キーリ」
「うん」
「なにそれ」
「母さんに教えてもらった。約束する方法」
「どんなの」
「約束、やぶったら。針千本、のまなきゃいけないの」
「ええ、やだあ」
「でもしなくていいって」
「いいのかよ」
「それくらい、約束ってたいせつだって」
「そりゃそうだな」
「だから、ユビキリしてくれる?」
「うん」
「こゆび、だして」
「こゆび」
「うん。それで、わたしのと、つないで」
「こゆびじゃないとだめなの?」
「こゆびじゃないとだめなの」
「それが約束か」
「それが約束だよ」
「それで?」
「ふって、うたうの」

「「ゆーびきーりげーんまーん うーそつーいたーらはーりせんぼんのーます」」





「「ゆび、きった」」




指切りげんまんできないエレン【前編】



 エレンはベッドの上で目覚めた。一番最初に見たのは泣きそうな家族の顔だった。
(相変わらず泣き虫なんだなぁ、ミカサ)
 先ほどまで見ていた夢の所為でそんな風に思って、エレンは腕を動かした。少なくともそのつもりで意識を動かした。上げようとした右腕は手首がぴくりと跳ねるくらいで、エレンはようやく、身体がひどく重たいことを自覚した。
「目覚めたかい、エレン」
「・・・・ハン、ジさん」
 清涼なアルトが耳に届き、エレンはその方向へ目を向けた。相も変わらず快活な笑顔を浮かべた研究者が、エレンの瞳孔を覗き込んでいた。
「うーん。大丈夫そうかな。目覚めるまで三日かかったよ、エレン。何があったかは覚えているかい」
「・・・あまり」
「そうか。じゃあ簡潔に説明しよう。っとその前に、忘れてた。・・・・あ、ねえ。エレンが目覚めたから、エルヴィンとリヴァイにそう伝えてくれる。ありがと」
 ドアを閉めると、ハンジはカップにコーヒーをそそいでエレンの横にどかりと座った。ミカサは相変わらずエレンの傍に跪いたまま彼をじっと見つめており、右手を両手で握りしめていた。感覚が鈍いながらも右手を駆使してミカサの手を親指でさすってやる。
「壁外調査から帰ってきて三日だ。兵士の死亡数は前回の六割ほど。これは大きい数字だよ、エレン。よく頑張ったね」
「ありがとう、ございます・・・」
「さてあなたの身体だけど、壁に帰る途中で七メートル級が三体と奇行種が一体現れた。七メートル級は容易に片付ける事ができたけれど、この奇行種がやっかいでね。四足で走り回って、口が大きい上に首がねじれていたんだ。お陰でうなじを正確に狙う事ができなくて、いたずらに兵士を死なせてしまった。」
 若干興奮気味に、鼻息荒くその奇行種の説明を行うと、ハンジはいやはやと眼鏡をとってシャツでレンズを拭いた。
「あなたは巨人化をした。首がねじれていて正規の方法での殺しができない以上、首そのものを吹っ飛ばすしか方法が無い。幸い大きさ的にはあなたの方が上だったから、特に問題は無いように思えた。でも、予想外の事が起きてね。その奇行種は蛙のように飛び跳ねて、あなたの左上半身を齧り撮った。もちろんその直後にあなたは彼を殺したけれど」
「ひだり」
「そう、左上半身」
 念を押されるようにそういわれ、エレンは身体を捩った。まだまだ身体は重くて、うまく動かせそうにない。視界の端でミカサが慌てていて、安心させるようにエレンは右手に力を込めた。けれど、左は。ーーーああ、どうりで。
「感覚が、無いです・・・・」
 ハンジに向けてそう呟くと、戦慄した顔を見せたミカサとは逆に、ハンジは一つ頷いただけだった。
「上腕二頭筋の半ばくらいまでは再生しているよ、エレン。少しずつだけれど、どんどん組織が再生していっている。時間はかかるだろうが、元通りになるだろう。感覚が無いのは、具体的にどの辺かな?ここは?」
「あ、わかります・・・・でも、」
「感覚が鈍いんだね。ではこっちは」
 ハンジが指で、エレンの左上半身を指で触って行く。心臓の真上からはじまり、脇、肩を伝って、握り込むようにして腕を触って行く。
「・・・ハンジさんが、さわってるのは・・・わかるん、ですが・・・どうにも感覚が・・・」
「エレン、麻酔を受けた事は?」
「あ、ありま、す。それに近いです」
「ちょっとつねってみるね。どうかな」
「痛くない、です。自分の腕じゃないみたいで・・・」
「ふむ」
 そのままエレンの左半身をふにふにと触り、何かをクリップボードに書き込んで行く。右半身も同様に触ってから、ハンジは少し考えこんでから口を開いた。
「どうやら失った部分で、心臓から遠い部分ほど感覚が薄いみたいだね。今まさに再生してようとしている腕の先は、私が触ってもわからない?」
「はい・・・」
「時期にリヴァイがここへ来る。あと兵士を二人警備に付けて、地下室に戻るのは身体が再生しきってからだね。あなたをこの医務室内でも拘束するかどうかは、リヴァイに一任する」
「了解、しました・・・」
「これは面白いよ、エレン。あなたは心臓を失うと再生能力が低下するのかな?今までこんな現象はなかったよね。項だけでなく、あなたは心臓を失っても駄目らしい。でもね、エレン。それはあなたが人間たる所以だよ。私はすこし、安心している」
 そういって、ハンジは笑って出て行った。




+++




「生きてるか」

 暗闇の中にぽつりと浮かび上がった音に、エレンはそっと笑った。生きてます、と小さく返す。そうか、と呟いた声は、するっと音も無くエレンの傍にたった。腰掛けた椅子はギイと軋んで、空間を一気に現実に戻した。
 視界の端で、左手をそっと包まれたのがわかった。どうやら寝ている間にずいぶん再生したらしく、指が数本欠けている以外は概ね修復されたといったところだろうか。一拍遅れてじんわりと熱が伝わってきて、無意識にほう、と息をついた。ミカサが渋々出て行ってから、どうやらずいぶんと人のぬくもりに飢えていたようだった。
「へいちょう」
 会いたかったです。
 左手を包んでくれた大きな手を握り返したかったのだけれど、人差し指以外はどれもバラバラだったので諦めた。
「エレン」
「兵長、お怪我は・・・?」
「無い」
「良かった・・・」
 ああ、この人の傍にいるだけで、生命力が溢れる気がする。
 首を伸ばしてまで目を凝らしているのに、目は一向に暗闇に慣れようとしない。エレンはすっかり動くようになった右手を上げると、リヴァイのいる方向に伸ばした。左手を包んでいるのとは別の手でそっと取られ、ちいさく口づけられる。
「ッ・・・・」
 ちゅ、ちゅと啄むように口づけられている。恥ずかしい。嬉しい。ああ、兵長。
「へいちょう・・・」
 どうにも我慢ならなくて、エレンはぐっと腹に力を込めた。両手が取られている以上、腹筋で起き上がるしか方法は無い。ふらつきながらもどうにか身を起こすと、エレンはリヴァイのいる方向に首を伸ばした。
「兵長、どこですか・・・」
「見えていないのか」
「まだ、目が慣れないみたいで・・・」
 口づけられている右手をひっくり返して、リヴァイの頬を包む。それを起点にぐっと顔を近づけると、ようやくリヴァイの煌々とした瞳が見えた。
「あ、へいちょう、」
 この人にくちづけたい。
 エレンは右手を引っ張って、リヴァイの手の甲に口づけた。頬が熱く、息は少し荒くなる。下肢を持ち上げるまでには至らないが、リヴァイの匂いを感じるだけで気分が高揚した。
 手のひらに口づけ、古い傷跡をなぞり、マメをそっと舐める。涙がこぼれそうだった。
 するとリヴァイの気配がぐっと近づいて、ベッドがぎしりと音を立てた。乗り上げたリヴァイがエレンをそっと抱き込む。まだ生えない左の小指の付け根をそっと撫でられて、エレンはぴくりと跳ねた。
「まだはえねえな」
「もう少しです・・・」
 おれの指の心配なんて、しなくていいから。
 そんな気持ちを込めて振り向くと、呆れた色をのせたリヴァイがふっとため息をついた。額に口づけられて、目尻が緩む。瞼、鼻、頬と順番に口づけられて、エレンはくったりと力を抜いた。右手はつながっているのに、左手はエレンの指が生えてないから一方的に握られたままだ。握り返したい。
「エレン」
 リヴァイの無骨な手が、するりとエレンの左手の甲を撫でた。子供をあやすようなその仕草がくすぐったくて、エレンは目を閉じた。
「愛してる」
 ゆっくりと口づけられて、エレンは幸福に涙をこぼした。


 生きて。生かして。生かされている。
 この残酷で、それでも涙が出るほど美しい世界で。





+++



 シャッと気持ちのいい音をたててカーテンが開いた。
 現れたリヴァイの顔に、ハンジはどうしたのと問いかける。
「風呂で本読むの、やめろっつったろ」
「私が私の本をどこで読もうと、あなたには関係ないじゃない」
「本が湿る、湿ったら湿気が発生する、そうするとカビが生えて、最終的に奴が出て来る」
「奴?・・・ああ、ゴキ「その名前は言うな」・・・悪かったよ」
 リヴァイはどうやら話がしたいらしい。普段なら放っておいてくれるハンジの読書タイムを邪魔して来るくらいだから、相当なものだ。やれやれと肩を竦めて、ハンジは本に栞を挟んでサイドテーブルに置いた。
「それで?」
「俺も入る」
「ワイン持ってきてよワイン」
 リヴァイが再びカーテンを閉じて、音を立ててどこかへ行った。本を読むのは諦めるしかなさそうだ。ハンジはそう決めると、濡らさないように細心の注意を払っていた両腕をどっぷりと湯船に入れた。とても暖かくて、気持ちがいい。
 チン、という軽やかな音が風呂場に響いて、ハンジはリヴァイがワイングラスを持ってきた事を知る。続いて布のこすれる音が少しして、ちゃぽんという水の音。再びカーテンが開かれると、反対側のバスタブにリヴァイがつかっていた。
 リヴァイとハンジの部屋は備え付けの風呂場を挟んで両隣にある。元々そうたくさん資源があるわけではないので、幹部ともなるとわざわざ性別で兵舎を分けられる事は、少なくともこの調査兵団内では無い。リヴァイは言わずもがな、ハンジは普段とは打って変わって自室で一人で騒がしくするタイプではないので、何の問題も無くお隣付き合いをしていたのだ。それが変化したのが数年前だった。ハンジが何をやらかしたか、風呂場の壁をぶち破ったのだ。紆余曲折を得て、二人はその状態を享受する事にした。二人は文字通り裸の付き合いとなったわけだった。
 リヴァイが元々壁があった場所にカーテンを取り付けたので、プライベートになんら問題は無い。ハンジがおもしろがってカーテンぎりぎりにお互いのバスタブを寄せたが、たまにプライベートな話を楽しみたいときにそれは大いに役立ったので、今の所リヴァイも文句は無い。二人は時折酒も交えてリラックスした時間を過ごすので、お互いこの状況を割と気に入っていた。
 リヴァイはハンジにグラスを持たせると、どこか気品のある仕草でグラスにたっぷりとワインを注いでやった。それに礼をいい、リヴァイのグラスと軽くあわせた。
「それで。話があるんでしょう」
 ワインを一口含んで、舌鼓を打つ。そういえばこの年は当たり年だと聞いた事があった。
「エレンの」
「エレンの?」
「左指がはえねぇ」
「おや」
「いや、他は全部生えた。左の小指だけが生えてこねぇ」
「左の小指か」
 ハンジはグラスを銜えて、最後にエレンの左腕を見たときを思い出した。三日前の話だ。親指と人差し指は完璧に生えて、中指と薬指は第一関節まで。立体起動の訓練に支障を来してしまうと不満げだった顔が浮かんで、ハンジはああと声をあげた。
「生えてなかったね、そういえば」
「薬指も、爪だけまだだが。小指は付け根からごっそりねぇ。俺が見た限りじゃもう肉も埋まって、組織再生が始まりそうには見えねぇ」
「明日私も見てみよう。エレンはどんな感じかな?」
「立体起動でトリガーが押しにくいって文句たれてやがる。ああ、あと」
「あと?」
「できねぇって言ってたな」
「できない?何が」
「知らん」
 ばっさりと言い捨てると、リヴァイは思案するように斜め上に視線を上げた。モゴモゴうごかす口をごまかすように、ワイングラスに唇を付ける。
「ユ・・・なんとかっつってたか」
「ユ?」
「ユーリだかなんだか。東洋の言葉らしい。アッカーマンがそうだろう」
「ああ、そういえば」
 ぬばたまの髪を持つ少女を思い出す。一人だけ周りと妙に顔立ちが違う彼女は、その美貌も相まって神秘性さえ感じさせる。
「小指を使うのかい」
「みてぇだな。東洋の儀式か?」
「私に聞かれたってわかんないよ。でも、注意して見ておく。リヴァイもそうしてくれる?」
「ああ」
「心臓が、鍵なのかな」
 ハンジは左手をそっと左胸に置いた。長年鍛えた所為で柔らかみの少ない胸ではあるが、一応女性としての最低限の膨らみは保持している。目をつむって耳を澄ませれば、鼓膜の奥で心臓が心地のいいリズムを奏でているのが聴こえた。
「エレンは今まで手首が吹っ飛んだり身体の至る所を齧り取られたりっていうのは何度も経験している。今までと、今回。再生速度の違いの要因として何があるのか考えてみたんだけど、私は心臓なんじゃないかと思うんだ」
 指を伸ばして、リヴァイに近づく。とん、とリヴァイの心臓に手をおいて、ハンジは目を閉じた。


「心臓が欠けたら死ぬのは人として当たり前だよ。エレンもそうやって、心臓が欠けると何かを失うのかもしれない。悲しい事だけれど、私はうれしい」


 リヴァイがハンジの手を取り、握り込んで心臓にあてた。



それでもエレンは、バケモノなんだね。

2013年8月4日