雨が降っている。

 さあさあと、あまり音の目立たない雨だ。エレンは部屋から窓越しにその雨を見つめて、そしてゆっくりと振り返った。こんな雨の日は、ヒールの小さな音さえ響かせてはいけない気になる。
「ーーーリヴァイさん」
 彼の名をささやく。先ほどから彼は蓋をした鍵盤に身を伏せたままだ。この距離から、自分の声は届くだろうか。
「ーーーリヴァイさん」
 借り上げた後頭部にかかる髪が美しい。そこからうなじにかけての曲線は倒錯的ですらあって、エレンはほう、と熱の篭った吐息を漏らした。そうっと近づく。彼に似合うと言ってもらえて買ったブーティが、こんなときだけ恨めしくなる。先ほどからコツンコツンと音をたてて、満ち足りた空間を邪魔するのだ。
 リヴァイの後ろに座って、エレンは丁寧に靴を脱いだ。そのまま椅子に乗り上げ、リヴァイの逞しい背中にぴたりと寄り添う。暖かい。
 ーーーふと、リヴァイがゆっくり身をあげた。それに伴ってエレンも身体を起こし、後ろからリヴァイに改めて抱きつく。肩に顎を預けて、エレンは唇をリヴァイの耳にそっと触れさせた。リヴァイの腹にまわされている手をぽんぽんと撫でて、リヴァイもエレンにキスを返す。節くれ立った手が鍵盤の蓋を押し上げるのを見て、エレンはささやいた。
「なにをひくんですか」
 ポーンと一音ならすリヴァイが、何が良いと訪ねて来る。
「なんでもいいです。・・・この雨に似合う曲を弾いて」
「おやすい御用だ」
 コロラトゥーラ、そうたっぷり甘い声でささやかれてはたまらない。ぞくぞくと甘いしびれが腰にくるのに耐えながら、エレンは辛抱強く待った。

 リヴァイが、ポンと優しく鍵盤を打った。両手を優雅に持ち上げて、鍵盤にそっと触れさせる。流れてきた、曲は。
「・・・Gymnopedie・・・?」
 かの有名な、Erik Satie (エリック・サティ)の『ジムノペデイ一番』。最初の三つの和音からエレンはとっさにそう思ったのだけれど、すぐに違うメロディーが流れて来る。リヴァイの手つきはよどみなくて、エレンはおねだりをする子供のように唇を尖らせた。早く、教えて。そんな雰囲気を漂わせるエレンに、リヴァイは笑みをこぼした。
「・・・ヒントをやろうか?」
「・・・・ピアノ曲にあまり詳しくないの、知っているくせに・・・」
 リヴァイの腹を軽く叩く。そうだったな、と、リヴァイは今度は答えを口にした。
「ーーーGeorge Winston. "Frangenti"」
 その名前には聞き覚えがある事に気付いて、エレンは空中に視線を移した。確か、彼のアルバムが一枚くらいは幼い頃、父グリシャの書斎にあった筈だ。
「あ・・・知ってる・・・・かも」
「アルバムがあるか」
「はい・・・」
「そうだな、Winstonのアルバムを持ってない奴に出会った事はねぇ、今の所、一度もな」
「・・・・・今度、実家から持ってきます」
「むくれるな、エレン。ーーー何が聴きたい?」
 ーーーああ、そんな声で聞かないでほしい。
 エレンはぎゅっとリヴァイの服を掴んだ。出会った時から、リヴァイはエレンの全てを支配するのだ。笑みで、顔で、指で、音で。・・・彼の全てで。
 せっかくリクエストを聞き入れてくれるというのだから、エレンは期待に答えなければと必死に頭をめぐらせた。リヴァイは既にFrangenti から Living without you という曲へとシフトしていた。聴いた事のある曲だ。
「・・・アルバムは?」
「Summer。ついでに、Frangenti はPlains」
「Summer...」
 ああ、それだ。グリシャの書斎にあったのは、きっとそれだったように思う。黄金色の夕陽が花溢れる草原を切なく燃やす、胸を締め付けられるようなジャケットだった。そうだ、そうだとエレンは瞼を下ろした。小さな頃の思い出がぽろぽろと星のように降って来る。あたたかな日曜の午後、グリシャの大きな膝に抱えられて、一緒に本を読んだ思い出が。二人で良く聴いていたのは、ーーーいたのは、確か。
「"Black Stallion"・・・」
 エレンは息をするようにささやいた。リヴァイは、了解だ、と囁き返して、スリーメジャーほどトランジションを作ってから数秒止めた。息を吸い直して、手首をしならせる。




 そのときのエレンは、夢心地だった。

 雨はしとしとと音を変え、いつの間にか真新しい陽の光が中庭を明るく照らし始めていた。もう夕陽の時間だ。黄金色の光がリヴァイの横顔を照らしていた。エレンはいつの間にか彼の手ではなく顔をみつめていた。肩に顎をのせたまま、ずっと。めざとく気付いたリヴァイは、照れるでもなく、瞼を伏せてエレンの唇に口づけを落としてくれた。そのままほんの少し額を擦り付け合って、離れる。リヴァイは最後の一音を丁寧にならすと、そのまましばらく動かずに音の余韻が消えるのを待った。
 ふっと肩の力を抜いたリヴァイが、丁寧にエレンの腕を腹から解いた。立ち上がり、鍵盤にカバーをかけて蓋を下ろす。靴を脱いでいるエレンをみて、リヴァイは足下に跪いた。腹が減った、カフェへ行くぞ。断言的なお誘いを、エレンが断る筈も無い。ストッキングに包まれたエレンの足を恭しくとって、リヴァイは子供にするようにブーティをエレンに履かせていった。されるがままのエレンは、伏せられた瞼から覗く睫毛を見つめるばかりだ。

 ーーーああ、この人が、好きだなぁ。












 リヴァイとの出会いは、中々にエキセントリックでドラマチックだったとエレンは記憶している。リヴァイにも同意を求めた所、エキセントリックはそうかもしれないが、ドラマチックは違うだろうと否定された。あの足を取ってうやうやしく靴を履かせてくれた所なんか最高だったとエレンは今になって思うのだけど。
「バカ言え、あん時お前今にも泣きそうだっただろうが」
 そうだったかなぁ、とのんきにエレンは思った。確かにあの後号泣した覚えはあるが。
「そうなんだよ。あんなんドラマチックでもなんでもねぇ」
「ドラマチックですよ」
「どっちかっつーとペインフルだろあれは」
「痛かったでしたっけ?」
「さあな。お前が路地裏でレイプされかけてたのが痛くも痒くもなかったってんなら」
「ペインレスですね」
「ペインレスっつーか、クレイジーだな。」
 伸びた髪をかき回してやる。その手を受け止めて、エレンは静かに笑った。
「俺の中ではもう、レイプされかけデーからリヴァイさんと出会った記念すべきデーですよ?」
「そうかよ」
「そうですよ」
 次第にニコニコと笑い始めるエレンの頭を小突くだけで止めてやる。感性がどこかおかしい様な気がしなくもないが、何にせよあの日の悪夢を過去の事と片付けられているならいいのだろう。
 エレンをひょいと抱え上げたリヴァイは、そのまま膝に抱っこしてテレビを見始めた。とある建築家の製作期間に密着したドキュメンタリーだ。大人しくリヴァイの足の間に収まるエレンは興味が無いのか、足下にあった楽譜を引き寄せて読み始める。無意識に口ずさみ始めるその小さな唇を指でそっと押さえるのを繰り返しながら、リヴァイは身体を抱く腕に力を込めた。
 そんな彼の胸板に頭を預けて、エレンは先ほどの会話を心の中で反芻した。
(ほんとうに、気にしてないんだけどな)
 一年前のリヴァイとの奇妙で幸せな出会いの日。災い転じて福と為すとは良く言った物で、エレンにとってあの日は幸せの象徴でしかない。ああ、思い出すだけで幸せだ。
 楽譜を読むのを諦め、エレンはそれをソファに放った。リヴァイの膝の間に身体を丸め、本格的に目を閉じる。気付いたリヴァイがエレンを包むように抱きしめ直してくれて、エレンは夢を見るような気持ちでその日を思い出した。
 一番始めに交わした言葉は、そう。こんな感じ。





               ♪♪♪





 大型の量販店の中、ごつごつとした無骨な手が細い足首を掴んだ。安物のフラットシューズはぴったりと足に馴染み、ゆっくりと床に下ろされる。履き心地を確かめてから頷くと、頷き返した男はそっと彼女の手をとった。
「ーーーお名前、は」
「リヴァイだ」
「リヴァイ、さん」
「ああ。・・・いくぞ、エレン」
 そういって、リヴァイと名乗った男はエレンを連れて店を出た。
 置いていかれたくなくて、エレンはすたすたと先に行くリヴァイに必死でついて行った。待って、とついに声をかけそうになった所で、リヴァイはぴたりと止まった。ほんの少しだけ目が合い、リヴァイは口を開いた。
「おい、何か飲むか」
「へ・・・」
「何がいい」
「えっ」
「何がいい」
「・・・・・・じゃあ、カプチーノ」
 諦めたエレンがそういうと、リヴァイはさっさと近くのスタンドへ寄って行った。エレンは通行人の邪魔にならないように壁にもたれて、俯きながらじっと待っていた。強く掴まれた左腕が気持ち悪くて、何度こすっても取れそうになかった。
 しばらくして戻ってきたリヴァイはエレンにラージサイズのカプチーノを持たせ、右肘をエレンに差し出した。エレンが躊躇いながらも左腕を絡ませると、リヴァイは今度はゆったりと歩き出した。
 左手にレギュラーサイズのカップを持っていたので、何なのか聞いてみると、「カプチーノ。ただし、ココアパウダーは無しで」といった。
「甘いもの、嫌いですか」と聞くと、「好きだが、カプチーノのココアパウダーだけは許せない」といった。
「俺は、甘いもの好きだけど、レーズンは嫌いです」
「奇遇だな、俺もだ」
「でも、ドライマンゴーは好きです」
「俺もだ」
 エレンがほんのちょっとだけ笑うと、リヴァイは組んでいた腕を少しだけ組み替え、彼女の手を握った。強く跡が残る腕を、節くれ立った親指で摩った。
「送ってやる。家はどこだ」
「ヘンリーロードを五つ行った所の、ページアベニューの先です」
 エレンがそういうと、リヴァイは少し驚いたように間を置いてから、そうかと言って大通りを歩き出した。エレンはそのとき、(俺と同じくらいの背丈なのに、大きいな)と、彼の逞しさに見惚れたのを覚えている。
 素敵な人だと思った。こんな人に助けてもらえて本当によかったと、エレンはしみじみ思った。リヴァイが来てくれなかったら、エレンは今頃名前も知らない路地でヴァージンを捨てていた筈だった。助けが呼びたいのに声が出なくて、震える事しかできなかった。 
 そういえば、お礼を言っていなかったな、とエレンはその時気付いた。リヴァイが下げている紙袋には、エレンのヒールの折れた靴が入っているのだ。助けてくれたお礼、靴のお礼。あと、カプチーノのお礼。
「あの」
「何だ」
「ありがとう、ございました」
「何が」
「助けて、くれて。わざわざ、靴まで。あと、カプチーノ」
「はっ」
 助けた事に礼を言われる事は想定しても、カプチーノにまで礼が及ぶとは思っていなかったらしく、リヴァイはおかしそうに鼻をならすと、エレンの手をぎゅっと握った。
「怖かったな」
 その言葉に、堪えていたはずの物がエレンの頬を滑り落ちて行った。
 
 怖かったな。
(そう、怖かった。)




 オシャレが好きで、毎日可愛く着飾ってメイクもばっちり決めて大学に行く俺が、経験豊富だと思われているのは知っていた。直接その手の話題に乗った事はないけれど、でも今まで彼氏が何人もいて、ロストヴァージンは10年生の時に社会人の彼となんていう噂が流れているのも知っていた。
 でも本当は彼氏なんて一人もいた事ないし、男の人と手をつなぐことすら父さんとアルミン以外はなかった。本当の俺は恋愛に夢を見ていて、素敵な街で素敵な彼とゆっくり愛を育んで行くのが理想な、腐れ縁曰く『頭がふわふわしてる』女だ。下手に大人びて見える所為で、勘違いされる事が、多々あるけれど。
 夢がぶちこわされそうになって怖かった。俺に被いかぶさってくる男は息が荒くて、俺の下はふかふかなベッドじゃなくて冷たくて固い石畳で。
 好きな人と抱きしめ合ってしたいと思っていた筈のセックスを、石畳の上で。


「ふっ・・・・うっ、うううう」
 号泣するエレンを、リヴァイは抱きしめるわけでも無く、ただ組んだ腕をそのままにエレンと一緒に歩き続けた。その速度はゆっくりで、手の中のカプチーノを傾ける仕草には余裕があった。そんな彼の態度はエレンをとてつもなく安心させた。いつでも寄りかからせてくれそうな寛大さがあり、そして必要以上に近寄ってこない距離感があった。
 リヴァイは終いにはポケットからティッシュと真新しいハンカチをエレンに差し出し、彼女はそれを遠慮なく受け取った。
 
 アパルトマンに着き、エレンはポケットから鍵を取り出して門を解錠した。そしてエレンの代わりに門を押し開いたリヴァイが入って行ったのだ。そんなリヴァイにエレンはうろたえて、待ってと初めて声をかけた。
「あの、もうここでいいです」
「そうだな。俺は自分の部屋に帰るだけだ」
「え?」
 聞き返すエレンを無視して、リヴァイはスタスタと階段を上がって行った。エレンも慌てて追いかけていき、何階まであがるんだろうと考えた。
 リヴァイがポケットから鍵を取り出し向かって行った部屋を見て、エレンは驚きを隠せなかった。そこは、302号室。エレンが慣れ親しんだ301号室の隣。
「俺の、お隣さん?」
「みたいだな」
 リヴァイは部屋の鍵を開けて中に鍵束を放ると、ドアをそのままにしてエレンの傍に来た。すっかり空になったカプチーノのカップをすっとエレンから取り上げて、暖かい手のひらで彼女の頬をすっぽりと包んだ。エレンは、呆然と呟くしかできなかった。
「お隣の・・・チェロ弾き・・・?」
「しっかり休めよ、コロラトゥーラ」





チェロ弾きとコロラトゥーラ





 リヴァイは、エレンという女を愛している。
 滅多に口にはしないし、本人以外にはそんなそぶりも中々見せないので周囲に疑われがちだが、リヴァイは、自分でもちょっとビックリするくらい、隣に住むエレンというコロラトゥーラを愛している。
 エレンはリヴァイより身長が2センチ低い。小作りの顔がバランスよく収まるその小柄な身体は、160センチというコンプレックスはあれど鍛えられた身体で大きく見えるリヴァイが抱き込むには丁度いいサイズだ。
 だがエレンはお洒落と化粧を息をする事のように行う女で、靴も当然の様にヒールのある物が好きだった。リヴァイが隣にいようが後ろに立とうがおかまい無しに10センチヒールを履くのだ。それでエレンは簡単に170センチ近い身長になってしまう。これじゃあキスをするのだって苦痛なのだが、エレンがにこにこと邪気の無い笑顔でリヴァイの隣に立つものだから、リヴァイは下手に苦言を漏らせない。
 リヴァイの独りきりの部屋に、エレンは良く馴染んだ。正直リヴァイはもう引っ越してくればいいと思っているのだけど(リヴァイの部屋はエレンのよりも一部屋多いし、リビングだって広い)、エレンはまだもうしばらくこのままで良いと言う。正直それにどんなメリットがあるのかは知らないが、エレンが屈託なく笑うのでまぁいいだろうと諦めはしている。結局の所、リヴァイはエレンが笑っていればそれでいいのだ。初めて言葉を交わした時の顔が、恐怖に歪んだ顔だったので、なおさら。

 自分の腕の中で本格的に眠ろうとするエレンを、リヴァイは感慨深気に見遣った。いや、感慨深いのは自分に対して、かもしれない。
 目の前のドキュメンタリーは佳境に入った。作曲家とどこか通じる所のある建築家に密着という内容に、興味があったのは確かだ。けれどリヴァイの意識はすっかりこの腕の中の恋人に向けられていた。猫っ毛の髪を掬っては落とす。今はぺたりと身体の線に沿って流れているが、エレンは自分の身を飾り立てる事を本当に自然に行うのだ。初めて会った時も、その次の日も、髪は緩く巻かれていた。今はすっかり伸びて背中の中程まで落ちる髪は、最近ではあまりいじられないけれど。リヴァイが、エレンのしょっちゅう変わる髪型を面白いと思っている事を、エレンは知っているだろうか。そうならそのままでもいいと思うし、もし気付いているならば、髪があまりいじられなくなったのは。リヴァイが、指でエレンの髪を遊ぶのが半分癖のようになっているのに気付いているからかもしれない。付き合い初めのころ、リヴァイはエレンにしょっちゅう怒られた。片方に流れる髪だけ、リヴァイが遊びすぎてカールが取れるという事が多々あったから。
 
 雨があがったな、とリヴァイは思った。いつの間にか、壁越しの小さな雨音が聴こえなくなっていた。冷蔵庫にはもう何も無い。明日二人でカフェへ行こうと心に決め、リヴァイはエレンの細い身体を抱き込んだ。朝早くから行くのがいいだろう。朝露の匂いが新鮮な筈だ。

 そう、あの日も確か、朝っぱらから叩き起こされたのだ。



              ♪♪♪



 ドアを開けて一番に現れた眩しい笑顔に、リヴァイは目を覚ました事を後悔した。
「おはようございます、リヴァイさん!」
「・・・・・・・・お前、今何時だと思ってる・・・?」
 顔面蒼白のリヴァイを気にもせず、エレンは満面の笑みを返した。
「朝の六時半です!」
「・・・・・出直してくれ」
「ああッまって!」
 力なく閉じられようとしたドアの隙間に、エレンは慌てて足を差し込んだ。意外とアグレッシブなんだな、と感想を抱いたのを、リヴァイはよく覚えている。じろりと睨んでやってもエレンは思いの外ケロッとしていて、リヴァイはあっさり諦めたのだ。エレンの目が真っ赤なのは間違いなく、前の日の事で泣きはらして眠れなかったのは目に見えて明らかだったから。けれど、助けてやったといってもリヴァイだってエレンをレイプしようとした男と変わらない、男性だ。男など見たくない筈なのに、どうしてリヴァイに構うのだろうと、リヴァイは寝起きの頭で考えたものだった。
「・・・・何のようだ」
「一緒に朝ご飯食べませんか。ここから裏通りを一分歩いた所に、とっても美味しいカフェがあるんですよ。まだきちんと自己紹介もしていないし、お礼だって・・・だから、貴方が良ければ」
 腫れぼったい目尻をつり下げて笑う女の誘いを素気なく断れるほど、リヴァイは薄情でも無いつもりだった。ましてや一応知り合いだ。昨日なったばかりの知り合いだったけれど。
「・・・五分で支度する」
 そういって、今度は丁寧にドアを閉めた。


 エレンに紹介されたカフェを、リヴァイは甚く気に入った。その時既に今のアパルトマンに住んで三年が経っていたというのに、彼はこのカフェの存在にまったく気付かなかったので。あんまりだ、と自分にうんざりしながら、リヴァイは案内されるがまま店先のオープンテラスのテーブルセットに腰掛けた。丁寧に掃除が行き届いていて、コーヒー豆の香りが充満し、奥からはパンの焼ける匂いまでただよって来る。リヴァイのすぐ傍に飾られた花は目立ちすぎずに、店先をそっと飾り立てていた。
 朝からにこにこと近づいてきたサーバーに、エレンは朝のカプチーノを頼んだ。リヴァイの視線を受けて、二つ。ただし、一つはココアパウダーを抜きで。更にエレンはハム&チーズクロワッサンを、リヴァイはスモークサーモンとスピニッチとスクランブルエッグをパニーニで挟んだサンドイッチを注文した。カプチーノを飲み、ディッシュが運ばれてきた時には七時半を回っていて、丁度いい頃合いの時間だった。
 エレンは朝から魚を食べた事がなかったので、美味しいのかと聞くと、
「昔日本に住んでいて、毎朝焼き鮭ばっかり食っててな。その所為か朝に食べるサーモンは妙に落ち着く」
 とリヴァイは答えた。そういう物だろうかとエレンがクロワッサンを頬張ると、リヴァイもバカにした風でもなく、淡々と「良く朝からそんな脂っこい物が食えるな」とエレンに聞いたので、「亡くなった母が休日の朝、必ず焼いてくれて。この香りが大好きなんです」と答えると、リヴァイは一言だけ「そうか」と言って食事に戻った。それにホッとしたエレンも、またクロワッサンを頬張った。大抵の人はエレンの境遇を聞くと、一瞬だけ痛ましそうな顔を作って謝るのだ。悲しい事に違いは無いのだけれど、母親のいない生活が当たり前となるほどの年月を過ごしているエレンはあまりそれが好きじゃなかった。

 自分の中で起こった気まずさを払拭する為に、エレンは話題を変えた。
「あの、リヴァイさんは、朝から甘いものは平気ですか?」
 パッと顔を変えて訪ねたエレンにリヴァイが一つ頷くと、エレンはほっとしたように胸を撫で下ろした。
「じゃああの、クイニー・アマンを奢らせてください。ここの凄い美味しいんですよ。あと、二杯目のコーヒーも。・・・昨日のお礼には、釣り合わないとは思いますが」
「・・・いや。頂こう」
「本当ですか!じゃああの、・・・っていうか」
 エレンは今気付いた、とばかりに慌てて背筋をぴんと伸ばして、神妙な顔でリヴァイを見た。
「きちんとした自己紹介がまだでした。エレン・イェーガーといいます。国立音楽院の二年生で、演奏学科で声学を専攻してます。昨日は本当に・・・本当に、ありがとうございました」
「・・・リヴァイ・スミスだ。三年の作曲科。チェロが専門だが、弦は色々手をつけてる」
「あ、リヴァイさん作曲科なんですね、道理で音楽院で見かけないなって」
「何度も会ってるぞ」
「えっ」
 リヴァイはカップに口をつけながらほくそ笑んだ。エレンがどこでどこでと前のめりになるのを手で制して、当ててみろとからかった。ヒントをくださいとすがってきたので、リヴァイはしょうがないと笑ったのだ。
「席が隣になった事が何度かある」
「席が?・・・・あっ」
「気付いたか」
「現代音楽のレクチャーですか?」
「ああ」
「そうなんですね!チュートが被らないから・・・すいません、気付かなくて!」
「いや」
「・・・・・あれ、そういえば」
 食器を回収しにやってきたサーバーにエレンが二度目の注文を手早く伝えた。にこりと一つ笑ってから踵を返した彼女を見送ってから、リヴァイに再び視線を向けた。
「どうして俺の事、ソプラノってわかったんですか?しかもコロラトゥーラだって」

 音大生同士が初めて学内で会った時、「こんにちは」の後に交わす最初の言葉は「楽器は何?」だ。楽器を背負っていなければ何を弾く人間なのかは音大生同士でも区別がつかない。管楽器の人間なんかはケースを見ただけではそれがヴァイオリンかヴィオラかすらもわからないし、弦楽器の人間も、ケースだけでオーボエかクラリネットかを見分けるのは難しい。更にレッスンがある日以外は音楽院に楽器を持ってこない生徒も多く(楽器は、たとえ小さかろうが持っているだけで邪魔臭い)、楽器を持っていない生徒イコール声学かピアノとはならないのだ。
 更にエレンは音楽院の練習室で練習をするのを好む人間だった。住み心地の良いアパルトマンはどの部屋にもグランドピアノがついているような音大生向けの物件だが、エレンは人の声が楽器と違って好き嫌いの激しく別れる楽器だと思っている。特に発声練習は他の楽器の単調な指ならしと違って不快に聴こえてしまう事が大半だ。あまり周りの迷惑になりたくないエレンは、練習は音楽院でしかしないのである。週末だってわざわざ音楽院に出向くほどだ。だから、リヴァイがエレンの歌声をアパルトマンで聴いた事がある筈が無い。エレンの体型からソプラノである事を推察できたにしても、コロラトゥーラかどうかまではわからない。
 エレンは毎日のように隣の部屋から聴こえて来るチェロ(他にもピアノやギター、ヴァイオリンの音色も聴こえて来たが)の音色にうっとりしながら耳を澄ませていたので、リヴァイがチェロ弾きだと言う事は昨日の時点ですぐにわかったが、逆はあり得ないだろう。そう思って聞いたのだが、
「歌ってるだろ」
「え?」
「シャワー浴びてる時に、歌ってるのが聴こえた」
「・・・・・っ」
 あけすけな言葉に、エレンは真っ赤になってうつむいた。まさか聴かれていただなんて。無意識のうちにやっていた最も無防備な声を、リヴァイに聴かれてただなんて。
 確かにエレンは、お風呂場で歌う。歌ってしまう。もちろんワンフレーズ歌ってすぐに反響する事を思い出して慌ててやめるのだが、まさか聞かれていただなんて。
 運ばれてきたカプチーノとクイニー・アマンにも気付かずうつむいたままのエレンに笑って、リヴァイはぽんぽんと頭を撫でてやった。耳まで真っ赤に染めたエレンは、ついに首筋までぶわりと朱を走らせた。
「良い声してる」
「ッ・・・ほ、ほんとですか・・・」
 未だにぷるぷるしているが、それでもほんの少しは恥ずかしさから抜け出せたのだろう。エレンはそっとリヴァイを見ると、頷かれた事にようやく顔をあげて、はにかんだ。




              ♪♪♪




「・・・なに笑ってるんですか?」
 目の前で一心不乱にクロワッサンを頬張っていたエレンが、リヴァイを見て首を傾げた。 
「うん?」
「わらってるから」
「ああ、初めて二人でここに来た時の事を思い出してな」
 パニーニのサンドイッチを一口噛み切ってそういうと、一瞬間を置いて理解したエレンが眉間に皺を寄せた。うっすらと頬が赤い。
「・・・・なんで・・・」
「お前、随分積極的だったろう」
「う・・・」
 頬の紅潮が一層濃くなって、エレンは恥ずかしそうに口をカプチーノの入ったカップで隠した。だって、とリヴァイから視線をそらしながら口を開く。
「貴方の物に、なりたかったから・・・・」
 そこまで言い切ると、エレンはとたんに照れて顔を両手で覆った。いつの事を思い出しているのかはリヴァイにはわからないが、きっと交際を始めてからその後の組んず解れつまで想像を膨らませたのだろう。その証拠に、顔をそらしつつも指の隙間からリヴァイを盗み見る目は熱に浮かされたように潤んでいる。欲情しているのを必死に押しとどめている時の顔だった。朝っぱらから劣情を誘うその顔に、買い物は後回しだ、とリヴァイは密かに予定を変えた。一旦アパルトマンに帰ってその身体を堪能させてもらわなくてはたまらない。
 くすりと笑って、リヴァイは足をこつんとエレンのサンダルに近づけた。タイツもストッキングも纏っていないふくらはぎをそっとなで上げると、ぴくんとエレンの肩が跳ねた。テーブルに肘をついて口を覆い、あさっての方向を見てリヴァイに視線を向けないようにしているけれど、その顔は男を誘うそれだ。リヴァイがあっさり足を離すと、エレンは不満そうにリヴァイに視線を寄越した。どうしてやめたの、蕩けきった目でそう強く訴えられては、リヴァイも期待に答えなければならない。あくまでリヴァイにそんな気はなさそうに、ゆったりと椅子に背を預け、サンドイッチを堪能する。しばらくそんな事を続けていると、じれったくなったのかエレンは残りのクロワッサンをカプチーノで流し込むと、リヴァイの足首に両足を絡めた。
「ね・・・リヴァイさん、」
「あ?」
「俺・・・アパルトマンに忘れ物しちゃって・・・だから」
「そうか、待っててやるから行ってこい」
「・・・・そうじゃなくてぇ・・・」
 手を伸ばして唇に触れる。赤い舌を覗かせていた厭らしい唇を指で摘んで閉じさせると、エレンはむずがるように頭を振った。
「食後のデザートくらい楽しませろよ」
「・・・もう知らない」
 興奮と羞恥で潤んだ目から、ぽろりと涙が一粒落ちた。





              ♪♪♪





「・・・どうですか?」
 運ばれてきたクイニー・アマンにフォークを入れると、それはあっさりと刃を通した。
「確かに美味い。バターが少なめか」
 堪能する為にゆっくりと咀嚼しながら言ってやると、エレンはとたんに破顔した。
「はい、多すぎてベシャッとしてるの、あんまり好きじゃないんですよ。ここのはさっくりしてて、朝からでも食べられるんです」
「そうか」
 いくら甘い物が好きだと言っても、合間合間にコーヒーや紅茶を挟まないとさすがに重たい。リヴァイは箸休めにカプチーノを飲みながら、エレンを見ていた。落としてしまったスプーンの代わりをサーバーに気安く頼む様子は、どうにも手慣れていた。
「ここには良く来るのか」
「は、はい。朝一で授業が無い日は、ほとんど毎朝・・・。あとアフタヌーンティーも、ここで」
「そうか」
 聞きたい事を聞いてしまうと、リヴァイは特に話す事がなくなってしまった。だが沈黙は苦手ではなかったのでそのまま黙々とクイニー・アマンとコーヒーを交互に口に運んでいると、頬を赤らめて黙り込んでいたエレンがはじかれたように顔を上げた。
「こっ・・・ここ!ここ、ガトーショコラも美味しいです!」
 突然の大声にびっくりしてエレンを見ると、エレンはみるみるうちに顔中を真っ赤にさせていた。
「そ、うか」
「紅茶も、紅茶もティーポットで出してくれて、美味しいです」
 ーーー誘われている。
 他にも、ええと、とまごつくエレンに、リヴァイは直感的にそう気付いた。起き抜けに現れたエレンに対して抱いた、意外にアグレッシブだ、という感想を一気に塗り替えた。アグレッシブなんて物じゃない、こいつは酔狂だと。
 (昨日男にレイプされそうになったばっかだってのに、酔狂な女だ。)
 ーーーだが不思議と、悪くないと思えた。
 丁寧に磨かれた爪は見苦しくない桜色をしていたし、動きやすそうなキュロットからは健康的な足が覗いていた。恥ずかしそうに俯いて下唇を噛む仕草は愛らしかったし、蜂蜜色の瞳は味が想像できそうな程甘く蕩けていた。声は声楽科だけあって聞き苦しくない、鈴の音をしていた。見た目だけは合格点だ。
 性格はどうだろうか、とも一瞬思ったが、そんなのは後々知っていけばいいとリヴァイはかぶりをふった。大体、自分が朝っぱらからこんな所に大人しく連れ出されて、あまつさえ朝食まで共にしている時点で目の前の女の存在を生活に許容できるかできないかは明確だった。そしてリヴァイは、後になってその判断が間違っていなかった事を知るのだ。
「・・・ブリオッシュはあるのか?」
 さてどう答えた物かと逡巡しながら、結局リヴァイはエレンにそのまま乗った。
「はい?」
「好物だ」
「あっ・・・あります!ブリオッシュも美味しいです、ここ!」
「そうか」
「は、はい・・・・」
 いつの間にかエレンは、別の意味で赤くなっていた。フォークを持つ手が震えたままテーブルの上に置かれていて、リヴァイはその手をそっと包んだ。エレンがついに耳まで赤くして、リヴァイは可愛い、と思ったのを覚えている。
「・・・また一緒に来ても?」
「は、はい・・・・」
 朝から丁寧に巻かれた髪が、素直に可愛らしいと思った。





              ♪♪♪





 家に上がったら即靴を脱ぐのがリヴァイの家のルールだ。もたもたしているエレンをさっさと置いて靴を脱ぐと、リヴァイは足早にリビングへ向かった。
「あっ・・・や、リヴァイさん、待って」
 ブーティの靴ひもをもどかしそうに解き、エレンは焦った声でリヴァイを呼び止めた。リヴァイは鍵を放って上着を脱ぎ、ソファにどっかりと座り込む。その涼しそうな顔に、エレンはたまっていた不満がぶくりと膨れ上がるのを感じた。
 スリッパも履かずに走ると、エレンはリヴァイを勢いよくソファに押し倒した。リヴァイは驚いた風も無くて、エレンは腹が立って歯がぶつかりそうな勢いでキスを仕掛ける。
「ん、ん・・・」
 ちゅうちゅうとリヴァイの唇に吸い付き、必死でこじ開けようとするのを、リヴァイは笑ってエレンを見つめるばかりで拒んだ。
「ん、リヴァ、さん、くち、あけてぇ・・・」
 そう懇願されて、リヴァイはようやく固く閉じていた唇を薄く開いた。とたんににゅるりと肉厚な舌が入り込んできて、リヴァイの口内を蹂躙せんと動き回る。動きは苛烈なのに、ちゅ、ちゅ、とどこか幼い音をたてるキスは、なんとなくリヴァイをこそばゆい気分にさせた。
 キスだけでは物足りなくなったのか、それともエレンにされるがままで何もリアクションを返さないリヴァイがじれったくなったのか、エレンはごそごそと手を下に滑らせると、スラックスの上からリヴァイの陰茎を撫で上げた。一心不乱にリヴァイを責め立てるエレンを薄く笑いながら見ていると、しびれを切らしたのかエレンが口を離す。ほんの少し硬度を持ち始めただけの陰茎をなぞって、エレンははぁっと熱の篭った吐息を漏らした。
「いじわるしないで・・・」
 その言葉を受けて、ゆっくりと身を起こす。腰を使ってまたがったエレンの陰核を軽く揺すってやると、小さく嬌声があがった。
「忘れものはどうした?」
「ん・・・」
 当初の目的を意地悪く聞いてやりながら、リヴァイは服の上から胸を先端をなぞった。首筋を下から上へと舐め上げる。羞恥でほんのりと頬を染めたエレンが、逡巡してから腰にあたるリヴァイの陰茎に股を擦り付けた。
「・・・リヴァイさんのこれ、昨日からもらってなかったから、だから、これが忘れ物なんです・・・」
 かぁっと真っ赤になって肩に顔を埋めてくるエレンに笑って、リヴァイはシャツ越しにエレンのブラのホックを外した。トップスを脱がせてやり、軽い身体を床に下ろす。熱っぽい瞳で見上げて来るエレンの額にかかる髪をどかしてやり、そこにキスを一つ落とした。
「エレン、上手にできるよな?」
「ん、はい・・・」
 スラックスの前をくつろげてエレンの目の前に晒すと、エレンはうっとりとした顔を隠しもせずにリヴァイのものを一撫でしてからぱくんと銜えた。
 一生懸命舐めしゃぶるエレンの頭をくしゃりと撫でてやると、くぐもった声を漏らしながら嬉しそうに応える。じゅぶじゅぶと音を立てるその舌技にゾクゾクと背筋を震わせながら、リヴァイはエレンの乳首を摘んだ。とたんにぴくりと体を跳ねさせるエレンに、思わず笑みがこぼれた。
「ん、ぅう・・・」
「ほら、もっと動かせ」
「ふぁい」
 裏筋をねっとりと舐め上げるエレンの恍惚とした表情にみっともなく陰茎を膨らませながら、リヴァイはエレンの頬を撫でた。上目遣いで強請ってくるエレンにぶるりと内股が震える。いつからこんな顔をするようになったのか。一年前までは瞼に口づけてやるだけで真っ赤になっていたというのに。
「ふ、ん!?」
「は、ぁ・・・」
 リヴァイの手がエレンの後頭部にまわり、ゆっくりと前後させるように動かした。エレンの下に敷かれているリヴァイの足がじわりと湿って行く。指を丸めるようにして持ち上げると、いっそう高い嬌声が上がった。

 近隣の部屋から、音の怪しいパガニーニが聴こえて来る。
(ヘッタクソ)
 ラリッたアル中みたいな超絶技巧に合わせて、リヴァイはエレンの頭を支える掌に力を込めた。



              ♪♪♪




 それからの二人は、ほんの少しずつ距離を縮めて行った。

 二人が被っている授業は月曜日にある歴史のレクチャーしかなかった。十一時に始まるそれまで、二人でカフェに赴き、朝食をとりながら授業に関する話をした。レクチャーにエレンは変わらず幼馴染みのアルミンと一緒に座り、リヴァイは一つ席をあけて隣に座った。エレンは時折ノートの端っこを破っては何かを書き付け、くすくす笑いながらそれをリヴァイに見せた。紙媒体でなくパソコンでノートを取るリヴァイは返事をワードにタイプして、画面をずらしてエレンに見せた。それに声もまたくすくすと笑い、エレンはアルミンに咎められながら前を向いた。
 他の曜日は授業が被らなかったのであまり会えなかったけれど、廊下ですれ違えば会釈をしたし、ライブラリーで会えば立ち話をした。リヴァイは滅多に楽器を持ち歩かなかったが、たまにチェロケースやギターケースを抱えている事はあった。
 時折帰り道にばったりあった。料理も好きなエレンが籠一杯に野菜や肉を詰め込んでいるのに対して、リヴァイの籠の中身はお粗末だった。だからエレンは重い籠を持ってもらう代わりに手料理を振る舞った。
「どうですか・・・?」
 不安げに見上げて来るエレンに、リヴァイは一つ頷く事で肯定を返した。
「よかった」
 ほっと笑い、エレンはようやく自分のラザニアに手をつけた。


 それから、あいた時間を見繕っては互いの部屋に行き来したり、ピアノがさほど得意ではないエレンにリヴァイが手ほどきをしたり、二人で映画をみたり、美術館へ行くなどして、二人はお隣という生活を満喫した。

 エレンのリヴァイに対する視線が、期待に満ちた物になるのにそう時間はかからなかった。











「花でも買ってさ、告白してあげなよ」
 肘をついたハンジが、ポテトを摘みながら笑った。
 その日、リヴァイは同じ作曲科のハンジと音楽院近くの公園で寝転んでいた。たまには暑いほどの太陽光を浴びたほうが調子が良くなる。道中購入したホットチップスを分け合いながら、二人は楽譜をひろげつつ雑談をしていた。
「花ねぇ」
「私もエレン見た事あるよ。可愛い子だよね、お洒落が上手い子」
 ハンジがカップからポテトをひとつ取り出し、自前のチキンソルトを振り掛けた。
「お前、いつか塩分過多で死ぬぞ」
「本望だよ」
 笑いながらハンジはポテトを咀嚼し、手に残ったもう一本をひらひらと上下にふった。
「大体さ、恋人になったからって何か減るわけじゃないじゃない。増えるだけでしょ、キスとセックス」
「まぁ、そりゃあな」
「じゃあ何を遠慮する事があるの」
 心底不思議そうな顔をするハンジを睨め付け、リヴァイは細く息を吐いた。








 その日、エレンはいそいそと手挽きミルと小型のエスプレッソマシンを持参して、リヴァイの部屋にお邪魔していた。
 エレンはお洒落が好きだ。幼少期のやんちゃのお陰で口調こそ男っぽいまま抜け出せなくなってしまったが、年頃になるに釣れお洒落がメイクが好きになっていき、見た目にこだわるようになった立派な乙女である。洋服や化粧品、自分を飾り立てる物にかかる費用は自分でアルバイトをして稼いだ。そんなエレンが自分に与えたご褒美の一つが、この手挽きミルだった。ミルだけではどうにもならないだろうと、音楽院合格祝いにグリシャが与えてくれた一人用のエスプレッソマシンと合わせて、エレンの宝物である。
 二人で映画を観ようという約束が叶った日だった。雨がふっていた。
 エレンは課題として娘を想う母の悲痛な叫びを綴った曲を歌う事になっていて、リヴァイもまた、楽曲提供をしている姉妹校のミュージカルのテーマが似た様な物だった。そんな二人が、イメージ作りの為に似たモチーフの映画を一緒に観ようとなるのは、最近の二人の仲では至極自然な流れだった。
 休日のリヴァイに、自分が飲むコーヒーを飲んでほしい。そう考えて、エレンは自分の部屋から考えつく物を手当たり次第持ってきたのだ。(リヴァイの部屋の方が大きなテレビがあり音響設備も整っていたので、エレンの部屋で観賞するという選択肢は無かった)それを見越してかリヴァイはお茶請けに貰い物だというクッキーを出してくれて、エレンはふわりと笑った。
 二人掛けのソファにリヴァイが座り、その足下でエレンはクッションを抱えてラグに座り込んだ。お互い手にはエレン手製のカプチーノがあり、時折コーヒーテーブルの上のクッキーを摘んでいた。


 映画が始まり、一時間も経つとエレンはどんどん悲愴になっていく内容に涙をこらえきれずにいた。作り物の話にはあまり食指が動かない彼女ではあったが、どうにも内容が過去の自分と母と被ってしまったのだ。嗚咽を堪えようと用意していたハンカチで口を押さえた。けれど堪えきれずに、エレンは顔のすぐ傍にあったリヴァイの膝にすがりついたのだ。
 そんなエレンを咎めるでも無く(その頃にはもう、エレンはリヴァイが潔癖性である事を熟知していた)、リヴァイは膝元のエレンの髪をすくっては落とし、なで付け、かき回してなだめてやった。胸がきゅうんと高鳴って、エレンは調子にのってぐりぐりと膝に擦りついた。
 リヴァイはエレンを抱え上げると、ソファに寝かせてエレンの頭を自分の膝に横たえた。心臓がうるさくて、エレンはその日、俺は爆発して死ぬに違いない、そう確信したのを良く覚えている。リヴァイはそうしてエレンの頭にそっと手をおくと、また映画の続きを見始めた。あと二十分もすればエンドクレジットが流れる頃だった。まさにクライマックスの真っ最中で、病室で母と娘が抱き合っていた。
                               
「すいませんリヴァイさん、お手洗い、借りますね・・・」
 エンドクレジットが流れる五分の間たっぷり泣いた後、エレンはそういってふらふらとソファから身を起こした。リヴァイはDVDをデッキから取り出し、空になった二つのカップをシンクにいれた。クッキーを片付け、テーブルを拭いてしまうと、エレンが出て来るまでやる事がない。
 リヴァイは仕方なく、朝から出しっぱなしにしていたチェロを手に取った。








 雨にまぎれて聴こえてきた重厚で艶やかな音に、エレンは瞼を押さえていたタオルを落とした。情熱的にふられる頭につられて跳ねる髪の毛の微かな音。節くれ立った指が弦を押さえる時に発する、僅かな硬質な音。音の区切りと共に漏れる、微かな吐息。
 じゅん、と腰にしびれが走ったのがわかった。
「あ・・・・」 
 音色につられ、エレンはふらふらとリビングへと戻った。ピアノチェアに腰掛けてチェロを奏でるリヴァイの後ろ姿を、壁にもたれて見つめた。小柄ながら筋肉の隆起が美しい、その姿。弓を引く度、ハーモニックを奏でるたびに肩甲骨が存在を主張する。
 欲情していた。その声に、身体に、ーーー音に。

「エレン?」
 いつの間にかへたり込んでいたエレンの気配に、リヴァイは弓を弦から離した。フォン、と反響する音の波がぴりりとエレンの耳を打ち、ゾクゾクとしびれが腰に走った。チェロを床に置き、リヴァイは感情の伺えない表情でエレンの場所まで歩いた。エレンと目線を合わせ、覗き込んで来る眼光は鋭くて、エレンはその時、支配される喜びに震えていた。
「リヴァイさん・・・・」
 きっとみっとも無い顔をしていただろう。リヴァイと出会って半年が経ち、エレンはリヴァイとの仲が進展しない理由に気付いていた。そもそもの出会いが出会いだったのだ。リヴァイは未だにエレンを、レイプ未遂の被害者と思っていただろう。恋仲の延長線上には肉体関係がある。エレンがそれに恐怖するそぶりを見せなかろうが、リヴァイにとってエレンの過去はそれだけで関係を維持するに相応しい理由だったのだ。
 けれど、その時のエレンは、情欲に満ちあふれていた。
「リヴァイさん・・・リヴァイ、さん」
 形の良い手が頭を撫でる度、肌が粟立った。エレン、と名前を紡ぐ唇で触れてほしかった。逞しい胸にもたれかかりたかった。腰のしびれが酷くて、子宮が波打った。
「ごめんなさい、腰・・・抜けちゃって・・・・」
 早く、早く、早く。心臓が、走った。
 喉が乾く。息が上手く吸えなかった。エレンから言わねばならない事だった。だからエレンは、揺れる瞳を隠しもせずに、リヴァイにすがった。
「すきです・・・・」
 首に手を回し、胸に顔を擦り付けた。
「好きです・・・」

 リヴァイの手が、躊躇いがちにエレンの背中に回った。それだけで齎される快感に、エレンは背筋を震わせた。それに気付いたリヴァイが、エレンを見た。その目は獰猛で、欲に濡れていて、今にもエレンを欲していた。
 過去も、今も、関係なく。
 抱いて欲しかった。
 なおもすがるエレンを、リヴァイはきつく抱きしめた。耳に吹き込まれる声にゾクゾクと肌を震わせて、嬌声を洩らし、エレンは、好きを繰り返した。
「   」
 その声にエレンは、リヴァイの腰に足を絡めた。





              ♪♪♪





 俗にピロートーク、と呼ばれるこの時間が、エレンは好きだ。シーツを身体に巻き付けた格好でリヴァイにもたれかかったエレンは、足をぷらぷらと振った。エレンが熱い視線を送っているにも関わらずベッドで楽譜を読む彼もまた下着のみという格好なのだが、気にならないらしい。
「リヴァイさん」
「ん」
「セックスの後に楽譜読むの、やめましょうよ」
 不満たらたらのエレンが愚痴をこぼすと、リヴァイは丁度胸元にすっぽりと頭を治めていたエレンの頭をぐりぐりとなで回した。子供扱いしないで、となおもむくれるエレンの(そこが一番近かったので)頭にキスをし、再び楽譜を読む作業に移る。そうじゃない、とエレンは抗議したけれども、聞き入れてはくれないらしかった。
 セックスの余韻に浸る事なく、色気も無い楽譜に没頭する恋人が憎らしく、エレンはちょうど目の前にあった乳首を指で弄る事にした。ーーーのだが、当然それが許される筈も無く、頭をはたかれて終わってしまう。
「ねぇ、どうして楽譜読むんですか」
 仕方が無いので、エレンはリヴァイに付き合って楽譜を読む事にした。身体をずりあげ、目線をリヴァイと同じくする。リヴァイも見やすいように楽譜を少し下げた。
「カラヤンいるだろ、ヘルベルト・フォン・カラヤン」
「指揮者の?」
「ああ。カラヤンの『音符に命を満たして』っつぅ言葉知ってるか」
 首を振るエレンに、リヴァイはそうか、とだけ言った。
「正確には、『この四つの音符に命を満たして』だ。良い表現だな」
「・・・だから?」
「ん、だから、セックスの後は楽譜読みたくなるなって話だ」
「・・・ぇえ?」
 リヴァイの言いたい事が掴めず、エレンは思わず振り返った。
「なんで?」
「なんでもだってもねぇよ。んで、」
 リヴァイは楽譜をサイドボードに放ると、エレンを再びシーツに埋めた。
「その後はまたセックスしたくなるだろ」
「・・・リヴァイさんて、ほんと、変ですよね」
「お互い様だろ?コロラトゥーラ」
「それやめてって、言ってるのに・・・」










 ハンジの言った通り、二人が正式に恋人になって変わった主な事といえば、普段の生活にキスとセックスが追加された事くらいだった。それでも例えば、歩く時に手をつなぐ事だとか、関係性を問われた時に否定をしなくなったりだとか、そういう些細な変化は沢山あった。相変わらず朝は強いエレンがリヴァイを起こし、キスをして、カフェに赴く。二人で音楽院に行き、授業を受け、ランチを食べ、練習する。帰りは二人で買い物をし、エレンが夕食を作る傍らリヴァイが作曲に没頭し、食べ、互いのぬくもりを享受する。時折セックスをして、どちらかのベッドで寝て、また、朝を迎える。
 そんな降り積もるばかりの小さな幸せが、二人を仲を取り持っていた。


「ずるいです」
 絡め握ったリヴァイの手を強く握り返して、エレンは頬を膨らませた。重そうなチェロケースを肩に担いで歩くリヴァイが目線で続きを促す。彼のこれまた重そうなサブバッグを持ってやりながら、エレンは口を開いた。恨めしそうな視線の先には、リヴァイの真っ黒なチェロケースだ。
「俺がヴァイオリニストかピアニストだったら、リヴァイさんとデュエットできたんですけど。コンチェルトとか」
「ああ?」
「だって、やっぱり憧れます。それにリヴァイさん、この前ヴァイオリン科の美人なお姉さんとセッションしてたじゃないですか!」
「ペトラか。いっつも伴奏してやってんじゃねぇか、ピアノで」
「ピアノじゃ意味ないんです」
 リヴァイの呆れかえった様なため息にもエレンはびくともせず、ぷうぷうと頬を膨らませたままだ。ごきゅごきゅと手の中のカプチーノを飲み干し、近くのゴミ箱に捨て、エレンはリヴァイの手をひいて足早に大通りを歩いた。
 そんなエレンを尻目に、リヴァイは腕時計を見遣った。このまま音楽院へ行っても、授業までは一時間ある。少しくらい寄り道をしても大丈夫だろうと、リヴァイは逆にエレンの手をひいた。
「リヴァイさん?」
「こっちこい」
 大通りから外れると、リヴァイは川の傍の通りまで歩いた。階段を下り、ベンチに腰掛ける。ぽかんとしたエレンをそのままにチェロを取り出し、構えると、リヴァイはようやくエレンを見た。
「オラ、お前の好きな曲弾いてやるから歌え」
「ええー」
 エレンはベンチの近くまで寄ると、半目でリヴァイを睨んだ。
「何か凄いやっつけな感じ・・・」
 手っ取り早くエレンの機嫌を取ろうとしているのが目に見えて、エレンは逆に機嫌が急降下していくのを感じた。のだが、それも、リヴァイが曲を奏で始めたとたん霧散した。よもやピアノ伴奏版をチェロで弾くなんて思ってもみなかったのだ。
「あっ、えっ、リヴァイさん凄い!」
「だから言ってんだろ、ほら歌え」
 あっという間にご機嫌になったエレンにほくそ笑んで、リヴァイは指を滑らせた。弓が跳ね、まあるい音があたりに響く。エレンはいっぱいに背伸びをすると、静かに息を吸った。



 今日もどこかの街で、チェロ弾きとコロラトゥーラが愛を歌っている。


(fine.)




麻華さんの多分わかりやすいざっくり簡単音楽用語講座ヾ(:3ノシヾ)ノシ

【コロラトゥーラ】って?

声学では基本的に声を六分割します。音域(人の声で出せる音の高さの範囲。声域ともいう)が高い順から、ソプラノ、メゾ・ソプラノ、アルト、テナー、バリトン、バス。(バリトンとバスの間にバスバリトンがあったりしますが、ここは割愛)
普通の歌曲の場合はこの分け方でいいのですが、オペラの場合はもっと細かく区分します。
コロラトゥーラは、オペラにおけるソプラノの内の一つです。
基本的に声を音域で区分するのとは別に、オペラでは声の音色や特性で区分します。その代表的な区分がこちら↓
・レッジェーロ
・コロラトゥーラ
・リリコ
・リリコ・スピント
・ドラマティコ
全部説明するのは面倒なので(・・・)コロラトゥーラだけ説明すると、ソプラノ中でも割と高めの音域を持っていて、軽やかな音を軽く愛嬌のある感じに出せる人が大抵コロラトゥーラに分類されたりします。もっとざっくり言うと、装飾音の多い音の高い曲をころころ歌えるのがコロラトゥーラです。コロラトゥーラがどんな曲を歌うのかを、わかりやすい所で言うと、例えばGeorge Frederic Handel(ヘンデル)の「Messiah(メサイア)」のソロパートや、Mozart(モーツァルト)のオペラ「Die Zauberfl?te(魔笛)」の中で夜の女王が歌うアリア、「Der H?lle Rache kocht in meinem Herzen(邦題:復讐の炎は地獄の様に我が心に燃え)」なんかが有名ですね。


他にもわからない用語がある、説明分かりにくい、という事がありましたらコメントでお願いします〜


2013年9月21日(初出2013年9月20日)