「はい、兵長。」
 そういつも返す、気持ちのよい返事が好きだった。

 子供の髪が、案外心地の良い手触りだったので、リヴァイは子供の髪を鍛錬に邪魔だと切らせる事もせず、毎朝手ずから結ってやっていた。終わるとぴょんとリヴァイの膝から降りて、遠慮がちに裾を掴む。その手を掴んでやると、嬉しそうに破顔してぷらぷらと振ってから、食堂の不味い飯を食べる。こんな夢をみたあんな夢をみたと語る子供の汚れた口を拭いてやった。まだまだ未熟な身体に無理な鍛錬はさせられず、どちらかというと心構えや気概など兵士に必要な要素を叩き込むだけにとどまったが、それでも二年で子供は大変な成長を見せた。訓練兵団に入れる前の日の朝、いつも通り髪を結ってやろうと扉を開けたリヴァイの目に入り込んだのは長い髪をばっさりと切り落とした子供の姿で、リヴァイはその日、珍しく少し落ち込んだのを覚えている。
 三年たって、子供は女になろうとしていた。へいちょう、と幼気に呼ぶ、ころっと鈴の転がるようだったのが、深みのある澄んだ声に変わっていた。棒切れのようだった長いばかりの手足が曲線を描くようになって、腰や胸に丸みが増した。ふっくらとしていた頬がすっきりとして、仕草がいちいちたおやかになった。感慨深気に子供だった女を見ながら、リヴァイは兵士となった彼女を正式に部下として迎え入れて、扱き上げた。よくぞついてきたものだと今では思う。
 秘匿の花のように、隠しておけばよかったと後悔しても遅かった。いつの間にか子供は侯爵に見初められ、抵抗もできずに結婚が決まっていた。いやです、とぼろぼろなく子供の顔を、リヴァイは今でもはっきりと思い出せる。

『なんでですか……っおれ、おれ兵士なのに、リヴァイ兵長の、手足なのに……なんでっ……』
『エレン』
『いやです、いやだ、貴族になんてなりたくないっ……誰かの奥さんになるなんて、そんなのいやです……おれは、おれは戦って、兵長の下で戦って、巨人を駆逐して、外に出たい……兵長の傍で、世界を見たいです……!』
『エレン、もうどうにもならん。……覚悟を決めろ』
『っ……』
 突き放されたと、傷ついた子供の表情も覚えている。リヴァイのベッドで、リヴァイの膝にすがりついて、しくしくと子供は泣いていた。母親を目の前で食われて、アドレナリンもひいて突如悲しみが押し寄せてきた時のように、拭っても拭っても溢れる涙を、リヴァイのズボンにしみ込ませていた。

『団長が、いつ帰ってきてもいいようにって、鍛錬は欠かさないようにしなさいって言ってくれたから』
 目をこすり、しゃくりあげながら、子供はリヴァイに訴えた。
『だからおれ、あの人に言おうと思うんです。おれは根っからの兵士ですって。鍛えるのをやめるつもりないですって。身体、やわらかくないですけど、覚悟してくださいって、いうつもりです。でもやっぱり、怖いです。だから、だから、』
 金色を溶けかけた飴のように潤ませて、子供はーーー女は、リヴァイに懇願した。
『おれ、おれ、……は、はじめては、兵長がいいです。兵長、だめですか? あの人のものになるまえに、心臓は公に捧げましたけど、心と身体を、兵長に捧げちゃだめですか?』

(ーーーリヴァイへいしちょう、ほんとうにおれなんかひきとってくれるの? だっておれ、ただのこどもだよ)
(うるせぇくそ餓鬼、テメェは巨人を駆逐したくねぇのか?)
(したい! したいです、したい。……へいしちょう、おれぜったいぜったいめいわくかけないから。すごいがんばるから。きっとへいしちょうのやくにたてるように、がんばってつよいへいしになります。だから……だから、おれのことひとりにしないでください)

 手を握って帰ってやった時、子供の手は血まみれだった。しくしくと泣きながらこれからの子供の身の振り方を説明してやると、驚きながらも嬉しそうだったので、自分のこの行動はきっと子供の為になるだろうと勝手に納得した。それでも独りにはしないでくれと見上げて来るから、その顔はどうにもリヴァイをむずがゆくさせたので、ぐしゃりと望まれるがままに頭を撫でてやったのだ。ーーーその時の表情にそっくりだから。そんな顔をされると、とても弱くなるのを知っていたから。


『……ちくしょう』
 ずっと子供だと思っていたーーー女を抱くのは、正直苦痛だった。押し倒して涙で汚い顔中にキスを降らせ、乾いた涙の跡を舐めては消してしょっぱい味に顔を顰めた。それでも、子供がよく知りもしない男に散らされるよりは、幾分かましだと思ったから、リヴァイはその夜、子供を女をーーーエレンを抱いた。これはおれのだ。おれが拾って、おれが育てた。



「はい、兵長。」
 そういつも返す、気持ちのよい返事が好きだった。
 あいつは今オレの預かり知らぬ所で、『はいだんなさま』といいながら生きている。





2014年12月8日(初出:2013年5月9日)