朝日が昇りきる前の、冷気が身を射るような静かな時間。エレンが一番好きな時間だった。彼女は気配を殺して中庭にたどり着くと、近くの茂みから踵の踏みつぶされた靴を取り出すと、それを履いて中庭に出た。庭の一角では既に庭師が花の手入れを初めていた。
「おはようございます、エレン様」
「ーーーおはよう、ダミアン」
 丁度エレンの毎朝の定位置ーーー淡い色の薔薇を咲かせている部分の手入れをしていたダミアンが、苦笑しつつもエレンに声をかける。剪定鋏を一旦脇によけると、彼はクッションを取り出した。地面に落ちた余計な葉をざっとはらい、そこにクッションおく。
「ありがと」
「今日は少し冷えますよ」
「うん、毛布持ってきた」
「準備がよろしいですねぇ」
「兵士の基本だからな。あと、湯たんぽもある」
「あはは」
 そういって、腕の中に囲っていた愛猫、【リイ】を見せる。夫に数多くもらった贈り物の中で、エレンが唯一気に入り、慈しんでいるのがこのリイだ。かの人類最強の名前をもじったのはエレンだけの秘密である。彼女の腕の中でナァと一鳴きすると、リイは再び目を閉じて潜り込んだ。
 エレンがきちんと毛布に包まるのを手伝ってから、ダミアンは再び鋏を手にとった。そんな彼に、コホンとわざとらしい咳をたてる初老の男性がいた。彼はほんの少しだけ眉を顰めると、教本からそのまま取り出した様な動作で中庭に降り立つ。掲げているティートレイの上にはワイルドストロベリーの装飾があしらわれたティーカップとポットがあり、そして小さなビスケットがいくつか皿に盛られていた。
「おはようございます、エレン様。貴女はこの屋敷のご夫人なのですから、いい加減こうやって毎朝薄着で出歩くのはお辞めなさい」
「おはよう、ベルニ。そうはいっても、ベルニはこうやって暖かいお茶を出してくれるじゃないか」
「貴女に風邪を引かれては困りますから」
「ありがとう」
「……いいえ」
 このやり取りも慣れたもので、ベルニは汚れどころか皺一つない執事服で芝生に膝をつき、トレイも置いてお茶の準備を始めた。濃い目にいれた紅茶に温めたミルクをたっぷりといれて渡すと、エレンはそうっとカップを傷つけぬようにカップだけを受け取った。ソーサーはベルニの手に残ったままだ。普通の貴族の女ならば優雅に片手でもち、装飾を楽しみながら口に含むものだが、エレンは逆だ。装飾など二の次で、とにかく万が一でも落としてしまわぬようにと両手で包んでそうっと飲む。時折ビスケットを嬉しそうに摘んで、まるで降り注ぐ朝日だけが心の安らぎとでも言いそうな具合だ。
「寒いけど、日差しがあったかいな。良い一日になりそうだ」
「それはよう御座いました」
「うん、絶好の訓練日和。十キロくらい走ろう」
「……ほどほどになさいませ」
 何度いっても聞きやしない主の姿にため息をつきながら、ベルニは立ち上がった。この家に嫁いでもうすぐ三年がたとうとしているが、未だにエレンはアンリに慣れる事をしない。許される限り彼との接触を避けるのだ。アンリがどれほどエレンを愛しているかを知っているベルニにとって、それは複雑な事だった。叱るのは簡単だ。だがおいそれをそれが自分にできない事も、ベルニはわかっていた。
 二年と少し前、この屋敷にやってきた少女は、何も持ってこなかった。布袋に入れられた兵団服と肩からさげた立体起動装置以外、何も。アンリはエレンから全てを取り上げてこの屋敷につないだのだ。悪気が無くても、そういう事だった。エレンの顔には、高揚も、緊張も、喜びも何もなかった。貴族の仲間入りという事実に、むしろ肩を落とすほどだった。彼女にあったのは、兵士としてのプライドだけで、そして今もそうなのだ。
「……アンリ様が、お嫌いですか」
 小さく呟いたつもりが、聴こえたのだろう。エレンはゆっくりとベルニを見上げると、くしゃりと泣きそうな顔で笑った。
「嫌いだと言えば、兵団に帰してくれるのか」






2014年12月8日(初出:2013年7月11日)