もうずっと長い事、エレンは終わりの見えない海でもがいている。


 ほんのわずかに開いた窓から漂う緑と朝露の匂いに、エレンは音も無く目をさました。投げ出された腕の先は一回り大きい手にそっと握られていて、エレンはぼうっとした頭のまま、隣で眠る男をみる。結婚して三年目になるエレンの夫だ。おとぎ話にそっくりそのまま出てきそうな、優しげな風貌をいくらか幼くして、すうすうと寝息を立てる、彼。エレンは握られた指をゆっくりほどくと、するりとベッドから抜け出した。
 エレンが抜け出した穴がぽかりと空いたベッドはどこか寒そうで、エレンはすこし迷った後、夫の肩までブランケットをかけてやった。

 いつもと変わらず、愛猫を腕に抱えて、音を立てぬ様に部屋を抜け出す。いつもと同じ様に、草むらからはきつぶした靴を取り出して、中庭でまどろむ。いつもと変わらない、エレンの習慣だ。この屋敷にやってきてからずっとそうしてきた。初めて抱かれた夜の朝も、真摯な愛の言葉を捧げられた夜の朝も、はじめて長い時間ふたりきりで話をした夜の朝も、エレンはひとり、そうしてきた。それが彼女を清々しい気持ちにさせた。そうする事が、自分をここに縛り付ける男への意趣返しだと信じていた。

 それを心苦しく思ういまが、忌々しい。忌々しいと思ってしまう事が、かなしい。


 エレンは今日もかわらず差し出された紅茶に対する礼を返して、すっかり白髪になってしまったベルニをみた。昨日、彼にきかれたばかりだ。彼の事が、嫌いかと。……彼の事が、憎いかと。
 嫌いなら、憎いなら、そうだろう。アンリは、あの王子様然とした男は、金と権力に物を言わせてエレンを娶った。母の復讐のために生き、剣を振るっていたエレンから、巨人と立体機動装置を取り上げたのだ。これがどうして、憎まずにいられる? エレンは覚えていた。自分がどれほど、甘い声でエレンと呼びながら、自分を見つめる男に対して憎しみを抱いたか。激情を表にだして、殺してしまわないだけ自分を褒めた。兵団から、エルヴィン団長から、ハンジ、ミケ分隊長から、リヴァイ班から、ーーーリヴァイ兵長から、引き離される自分が、どれほど悲しく、つらかったか。エレンは苦労無く思い出せる。
 ーーーけれど。
 けれど、とエレンは思う。指先をほのかに暖める、ティーカップの暖かさと柔らかさが、そんな自分を鈍らせる。今のエレンに、当時の生々しい感情はわき上がってこない。彼が未だに嫌いだし、憎い。それは変わらない。けれどもう、衝動としてはわき上がらなくなっていた。三年間ぬるま湯にならされた弊害だろうか。それすらもエレンには判断がつかない。絶望とともに、彼女は思う。
(ーーーああ、絆されてしまった)
 絆されてしまった。絆されてしまったのだ。なんて事だろう。ひどい裏切りだ。エレンはベルニに空のカップを返すと、視線から逃げるように愛猫を抱き込んだ。ベルニに知られてはならない。その実、エレンがもう、アンリの存在に馴染んでしまっている事を。未だにアンリに慣れていないと思っているベルニには、知られたくない。

「……着替えて、くる」
「はい、いってらっしゃいませ」
 訝しげな視線から逃げるようにして、エレンは素早くたった。愛猫は置いていく。どうせきままに毛繕いをするだろう。エレンは先程ひとりで出てきた部屋に戻ると、衣装部屋に向かうべくベッドを横切ったところで、ぴたりとその足を止めた。夫は、まだ眠っている。わかる。静かな寝息が、エレンの耳には届く。
 エレンは着替えて、また夫のところへ戻った。スカートを太ももまで捲り上げて、いつも仕込んでいるダガーを取り出す。それを安心しきった寝顔の夫の首もとに、そっと当てた。すこしでも体重をかければのど元を突き破る。夫は死ぬ。エレンはどうなるだろう。兵団に戻れるだろうか。いいや、無理だ。王家の血脈を受け継ぐサヴィル家の嫡男を、ハリファックス侯爵家の現当主を、美しきカリロエを治める領主を殺した罪で、きっと断罪され、きっと死ぬ。もしかしたら、巨人達のくちに、生きながら放り込まれるかもしれない。ナイフ一本持たせてくれるなら、それは少しいいかもしれないとエレンは思った。最期は、ナイフ一本あらがいながら、巨人のなか。それはーーーそれは、調査兵団の兵士としては、本望に足る死に方じゃないだろうか?

 そこまで考えて、エレンは息をついてナイフをしまった。かぶりを振る。バカな事をしようとした。エレンは人を殺す事にためらいを持つ質では無いが、明らかな悪事を働いているわけでもない夫を、憎いという感情だけで殺せるほど非情でもない。一気に疲れた気がして、エレンは夫の枕元に座り込んだ。至近距離で見つめる夫は、使用人が起こしにこないから、まだ起きない。なぜこんな状況でも寝ていられるのだろう。のど元にナイフを突きつけられていながら、本能も働かないのか。生きながらにして、生きていないのだろうか。エレンは泣きたくなって、シーツに突っ伏した。

 どれほど憎くても。どれだけ嫌いでも。ネガティブな感情を維持するのはとても疲れる。エレンはだいぶ前から、諦めていた。アンリを嫌うことを諦めていた。そしてそれを、自覚していた。

 ーーーだって、夜、エレンが寂しくて心細くて泣きそうになる夜、エレンを胸元に抱きこんで眠ってくれるのはアンリなのだ。暖かくて、趣味のいいコロンの香りが仄かに香って、回される腕は守ってくれているようで。寂しいのも心細いのもすべて彼のせいなのに、その彼がエレンのそんな夜の恐怖を取り除いてくれるのだ。逞しくもない、みてくればかり立派の、その腕で。

 自分はいったいどうなるのだろう。このままずっと彼のそばで、ぬるま湯の中生きていくのだろうか。そのうちきっと、ダガーを振う動きすら鈍くなる。使われない立体機動装置は錆びて、己の心も、錆びてしまうかもしれない。


 それは、とても恐ろしい事だ。






2014年12月8日