我が至高の姫君



1.私の心はあなたのもの

 起床し、朝のトレーニングを終え、シャワーを浴びて同僚と朝食を素早くすませて初めて、ジェレミアの朝は始まる。
 長身な己さえもくまなく移す姿見の前に立ち、ジェレミアは目につくところの身だしなみを整えていた。手袋を外して髪を撫で付け、ほんの少し歪んでいたスカーフは最初から巻き直し、襟がよれていればピンと張ることでそれを直す。ブーツの中におさめたパンツはほんの少しもはみ出てはいないし、靴の裏には泥も無い。騎士を拝命してから気を遣い始めたスキンケアは今朝も実を成し、ジェレミアの肌にはシミどころかニキビの一つすら存在を見せない。女性ではないのだからと笑われるかもしれないが、人の第一印象は最初の十五秒、そして顔で決まるのである。自分の顔の美醜すらそのまま主の顔につながるのであれば、ジェレミアがそういったことに努力を惜しまないのは当然だった。最後に顔の半分を覆っている、熱を持たない仮面に汚れがついていないことを認め、ジェレミアはそっと息をついた。
 今朝、時間は六時半。数年前の誕生日に主より贈られた繊細な作りの懐中時計をそっと懐にしまって、ジェレミは最後に白い手袋をはめる。

 部屋を出ればそこは簡易の談話室となっており、更にその部屋を出れば主の執務室へとつながる。執務机の後ろにある重厚な扉を開くと、そこは絢爛ながらも落ち着いた雰囲気の談話室となっており、更に奥にはいくつかの扉が並んでいる。中でも再奥にある扉を開き、すぐに現れたもう一つの扉を開いて中に入れば、大きな窓から余す事無く降り注ぐ朝日の中で、ベッドに身を起こしている主がいた。相変わらず、その朝は早い。けれども実際は低血圧な為に朝が得意ではない主は、やはりどこか眠たそうだ。眠気を払うためなのか、最近お気に入りだというピカレスク小説を手に取っている。それでもこっくりと上下している頭を見やり、ほんの少し頬を緩ませながらジェレミアは閉じた扉の前で膝をついた。
「お早う御座います、ルルーシュ様」
 呂律が回らないため、返事が無いのはいつものことだ。それでも柔らかくなった雰囲気を是として取ると、ジェレミアは立ち上がってそばに寄った。天蓋のカーテンをギリギリまでひけば、天窓から降り注ぐ朝日がようやく主の頭までを照らした。チェスト脇のクッションに大事そうに置かれている、ヒールの低いパンプスを引き寄せてから主に向かって恭しく手を差し出せば、手袋に覆われた無骨な手に白魚の様な細い指先が乗った。ほんの少し力を入れて引き寄せれば、主がしゅるりとシルクの音をたてながらシーツをめくる。手のひら以上に白く、そして華奢な足がジェレミアの立てた膝に乗せられて、彼はそっとその足首を手に取り、片方のパンプスとそっと履かせた。もう片方の足にも同様に履かせ、最後にジェレミアはその美しい足の甲に唇を寄せる。
 ふと髪に重量を感じ、引き寄せられるようにして顔を上げれば、ようやく眠気がさめたのか、主がジェレミアを柔らかく見下ろしていた。その美貌に息をのみ、胸を満たす幸せに彼は瞳を緩めた。
「おはよう、ジェレミア。いい朝だな」



2 ご命令を

 味わう事にも、見る事にも慣れてしまったけれど、匂いだけは慣れそうにない。鼻につく血と火薬、そして焦げたなにかが混ぜこぜになった異臭に眉を寄せ、ジェレミアはそっと、自分の斜め前に立つ主を見た。その背筋はまっすぐで歪みなく、揺れる髪さえも彼女の率直さを表している。崖に立っている彼女にはジェレミアよりも異臭が鼻につくであろうに、その指先は顔を覆うことがなかった。
「……ルルーシュ様」
「なんだ、ジェレミア」
「そろそろ中へ。お体が冷えます」
 寒さを理由に中に誘えば、ゆっくりと主が振り返る。まっすぐジェレミアを見つめ返しつつも、その瞳は暗い。ゆっくりと近づいてきた主の手がするりと鋼鉄のほほを撫でるのを感じて、ジェレミアは反射的に目を伏せた。
「……ジェレミア」
「はい、ルルーシュ様」
「生きろよ」
「ーーーイエス、ユアハイネス」
「私の命令だけを聞いていろ。お前はそれだけでいい」
「はい、ルルーシュ様、我が主。何なりと、心から、命に代えましても」



3. 触れれば汚してしまいます

「ミアーーージェレミア!」
 遠くから自分を呼ぶ主の声に、ジェレミアは作業の手をとめた。
 アリエスの離宮は皇宮の中でもはずれに位置するが、その分雄大な自然の麓にある。主であるルルーシュは山に近い場所に畑を所有しており、規模は小さいがそこでいくつかの野菜を育てていた。たまの休みにでさえ、趣味と称して畑仕事を手伝うジェレミアを、こうして主自ら探しにくる事は、彼女の多忙さゆえに多くはなかったが、珍しくもなかった。
「そこにいたか、ジェレミア」
 この畑の外れには三つほど、オレンジの成る木がある。熟れたそれらを?ぐのに脚立に跨がっていたジェレミアは、遠目からも見つけやすかったのだろう。主は柔らかい土に足を取られるのを気にする事無く、真っ白いパンプスでジェレミアに近寄った。計らずも彼女を見下ろす事になったジェレミアは、慌てて脚立から腰を上げた。
「そのままでいい、気にするなーーーほわあっ」
 脚立から降りようとしたジェレミアを止めようとしたのだろう。大きく一歩を踏み出した主は、兄らにもからかわれるおっちょこちょいを遺憾なく発揮し、足を滑らせた。ジェレミアはとっさに、脚立から飛び降りて彼女の前に着地した。主を転ばせず受け止める暇は無い。ジェレミアは下敷きになる方がマシだと、まっすぐ倒れる主と地面の間に体を滑り込ませた。
「ーーー大丈夫ですか、ルルーシュ様」
「……すまない」
 ジェレミアの屈強な体がクッションになり、主は怪我などはしていないようだったが、恥ずかしいのだろう。己の迂闊さに顔をあげられずにいるようで、彼女はジェレミアのシャツをきゅっと握った。耳がうっすらと赤い。ジェレミアの気遣わしげな視線から逃げるようにさっと立ち上がると、彼女は尻餅をついたままのジェレミアにすっと手を差し出した。
「すまない、ありがとう。ジェレミア、手を」
「え、あ、いえ、あの」
 ジェレミアの手は汚れている。午後からずっと畑仕事をしていたし、今しがた主を受け止めたときに後ろ手についた手の爪には土がこびりついている。とても、主の白く細い手に重ねていいものでは無かった。ましてや彼は、一人で立ち上がれる。戸惑いを見せるジェレミアに焦れたのか、主はもう一度、手を、と言った。
「ルルーシュ様の手が、汚れて」
「ジェレミア」
 彼の言い分をぴしゃりと撥ね付け、主は眉を寄せた。最終的に彼女は膝を曲げてジェレミアの手を無理矢理とると、強引に引っ張って彼を立たせた。
「これくらい、どうってことはない」
 主はジェレミアのごつごつした手を両手で包むと、頬をよせて目を伏せた。
「私を守る騎士の手だ。愛おしく思う以外ないさ」



4. 理由がなくてはいけませんか

 ジェレミアの主が最近、執務の合間などによく物置の中を覗き込んでいるのを、彼はメイドに教えられて知った。めっきりと冷え込む12月も半ばの頃だ。それがどうにも、何か探し物をされている様なそぶりで、とジェレミアに相談するメイドは、頬に手をあてて首をかしげた。
「お手伝いを申し出たのですけれど、ご自分でなさるの一点張りで」
 定期的に手は入れられているとはいえ、物の多い離宮の物置だ。それなりに繁雑としているし、奥へ進めば埃も多い。一回の休憩にそう多くの時間を割けない主はその度に息も絶え絶えに部屋から出てくるそうで、けれど手伝いも撥ね付けられるとなれば、メイドもとうとう、騎士であるジェレミアに一報を入れる事としたのである。
 仕事に必要な物であるなら、主は遠慮無しにジェレミアやほかの人間を使うだろうし、かといってそう大した物でもなければ、それこそメイドに探し物を頼むだろう。それでも尚、この12月という季節に、ひんやりと底冷えのする物置でその白い手をさらに青ざめさせる事を選ぶというのだから、きっとなみなみならぬ事であるに違いない。メイドに手渡された渾身のティーセットを押しながら、ジェレミアは執務室をくぐった。
 暖房が入れられているとはいえ、明かり取りのためにカーテンの開け放たれた窓からは、しくしくと冬の冷気がにじむ。ジェレミアの主は誰も見ていないのをいい事に靴を脱いで両足を椅子にあげ、縮こまるようにして書類に目を通していた。
「ルルーシュ様、お寒いのでしたら上着を」
「……ああ、ジェレミア。ありがとう」
 近くの椅子に無造作に放られていた上着を肩にかけられてようやく気づいたのだろう、主はジェレミアを見上げると、ようやく両足を床におろした。ジェレミアはお茶に誘い、彼女にティーカップを差し出す。たっぷりとミルクの淹れられたそれにほう、と重く息をついて、彼女はようやく少し笑った。
「思いのほか、寒かったようだな」
「そのように薄着で過ごされるのなら、せめてカーテンをお閉めください」
「反省するよ」
 両手でカップを包んで暖をとる姿は、とくに思い悩んでいる様には見受けられない。ジェレミアは思い切って、質問をそのままぶつけた。

 一週間後、ジェレミアは相変わらずカーテンの開け放たれて冷気のしみ込む執務室で政務に精を出す主に、とある包みを差し出していた。
「…これは?ジェレミア」
「一介の騎士の身で、差し出がましい真似である事は重々承知しておりますが…」
 ジェレミアの中々結論にたどり着かない弁明は延々と続いたが、これはさっさと中身を見てしまったほうが早いだろうと、主はかさばるその包みを開けた。
「……これ、は……」
 臙脂色の、ふちを白い糸で細かく刺繍された、膝掛けだった。その柔らかい手触りに主は何度も手を滑らせ、そして信じられない、とジェレミアを見上げた。
「どうして…」
「…私の方が、年上ですから。大きさも手触りも、記憶にありました」
 しきりに膝掛けを撫でる主をみて、ジェレミアは遠い過去に思いを馳せた。あれは彼の主がまだ、十歳かそこら。それこそ、士官学校卒業したてのジェレミアが、一介の警備兵としてこのアリエスの離宮に配属された頃の記憶だ。
 秋になると、主の母ーーージェレミアの当時の主であったマリアンヌは、臙脂色にふちで白い花の刺繍のされた膝掛けを出してきて、主や彼女の妹をそれで包んで膝に抱えていた。子供の体には大きいそれはあたかも毛布のようで、手触りのよく暖かいそれは幼い姫二人にとって魔法のような布で。そしてそれはマリアンヌの死後、彼女の遺品とともに物置のどこかに忘れ去られているはず。しくしくとしみ込む冷気に幼い頃のあたたかな思い出を恋しく思った主が、それを探してみようと思い至ったわけだった。
 けれど、十年以上も前に使われていた膝掛けなど、ずっと放置されていればどうなるか、わかりきった事で。だからこそジェレミアは昔の記憶をたよりに、そっくりなものを自費で、主への贈り物として、購入してきたというわけだった。
「…あ……」
 ある一点に気づいたらしい主に、ジェレミアはぴんと背筋を張った。そっくりな物を、と思いはしたが、完全に同じものというわけにはいかない。ジェレミアは主に、贈り物をしたかったのだ。思い出の品を新品とすり替えて渡したかったわけではない。だからこそ、ジェレミアは膝掛けのすみに、白い糸で刺繍をいれてもらった。ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの名と、羽ばたく鳥の模様を。マリアンヌの名と、花の模様とは違う、それを。
「これは…こんなに暖かいものだったか」
 子供の頃のように膝掛けにくるまった主は、鼻先をふわふわと柔らかいそれに埋めた。
「カシミアと、アルパカが織り交ぜてあるそうです」
 だから保温性に関してはカシミアだけよりも少しは優れているはずだ、と告げると、主はジェレミアを見上げた。
「……どうしてここまでしてくれるんだ」
「どうして、と仰いますと」
「私はべつに、膝掛けが欲しかったわけじゃないぞ」
「承知しております」
「母上のあの膝掛けが、みつかったとしてもとうにボロ切れであろう事はわかりきっていた。ただ、子供の頃のあれと、今みるあれとではどう違うものなのか、ほんの少し懐古的な気分になっただけだ……ここまでしなくとも」
「……理由がなくてはいけませんか?」
 静かに訪ねると、困惑したように目を瞬かせた。ジェレミアはその場にひざまずくと、まっすぐ主を見上げる。主の瞳を薄く縁取る揺らぎには、見ないをふりをして。
「私が、ルルーシュ様にあたたかい膝掛けを、差し上げたいと思っただけで御座います」



5. 貴方の存在が私の命を繋ぐもの

 もはやここまでか、とジェレミアはきつく歯軋りをした。
 撤退命令は既に出ていた。周囲を伺う限り劣勢という訳ではなさそうだったが、戦略的撤退という事なのだろう。ノイズのひどい通信越しに司令官である主の命令を耳にし、ジェレミアはすぐさまそう判断した。けれど自分は敵陣の渦中で、進退どちらも難しそうだった。敵の自殺的ともいえる攻撃方法で、ジェレミアの機体はエナジーウィングの片翼を失い、バッテリーはあと20%も残っていない。此処から自陣まではそう遠くないが、こちらが撤退を始めている以上、敵側も撤退しにかかっているだろう。つまりこの場所から抜け出せたとしても、まさに進行方向から敵軍がやってきて、ジェレミアの機体を見つけ次第攻撃を仕掛けてくるという事になる。エナジーウィングさえ無事なら彼らの頭上を飛び、多少の攻撃は受けてでもとにかく主のもとへ帰れるというのに。ただ突っ切るだけなら今のエナジー残量でもどうにか持ちそうだが、迫り来る敵の攻撃をかいくぐり、応戦するとなると、消耗は激しいだろう。最悪敵陣のど真ん中で立ち往生なんて事になれば、それこそジェレミアに残された道は死のみだ。こんな森林でコックピット毎脱出したところで、たどり着く先は目に見えている。
 モニターに、敵影反応が多数反映される。彼らもジェレミアを視認したようで、銃を構えながらじりじりと寄って来ていた。なんどか救援信号は打っているが、果たして味方は来てくれるだろうか。
 敵はとうとう、ジェレミアにむかって四方から発砲しはじめた。攻撃をかいくぐりながら、なるべく自陣に向かって交代する。だがすぐにエナジー残量もわずかとなり、コックピット内がエラービープと共に赤色に点滅し始めた。ーーーこれまでか。
(…申し訳ありません、ルルーシュ様)
 そう思った、次の瞬間だった。
『ジェレミア、そのまま動くなよ』
 聞き慣れた声。ジェレミアが反射的にグリップに込めていた力を抜くと、目の前にいたはずの敵影は爆音とともに粉々になっていた。
「アーニャ…!」
 カメラを頭上に向けると、そこにはナイトオブシックス、アーニャ・アルストレイムの長距離攻撃型KMF、モルドレッドがあった。
『敵はアーニャに任せ、ポイントD4まで撤退。その後コックピット内で待機』
「イエス、ユアハイネス!!」
 モルドレッドの拡声器越しで伝えられた命令に、ジェレミアはすぐさま行動に移った。残りわずかのエナジーを駆動にのみに費やし、ポイントまで最短の距離を移動する。その間、ジェレミアは生身の目から涙をこぼした。先程までしなしなと萎れていた生への希望が、あの声を耳にしたとたんたちまち湧いてきた。
 ルルーシュ様、ルルーシュ様、ルルーシュ様。
「ルルーシュ様!!」
 歓喜に震える声で、ジェレミアは主の名を叫んだ。

「おかえり、ジェレミア」
 無事味方に回収されたジェレミアを待ち受けていたのは、ジェレミアが死の淵にたっていた事などまるで知らないような、穏やかな主の姿だった。
「…ただいま帰りました、ルルーシュ殿下」
「まったく」
 主はジェレミアに近づくと、困った顔でひざまずいている彼の頬をつかんだ。
「ジェレミア。たとえお前の声が聴こえなくとも、私はお前を助けにいくだろう。お前は私の、唯一の騎士なんだ。そのお前が、自ら自分を殺さないでくれ」

「……申し訳ありません」
 少しでも、死を覚悟した事をせめられ、ジェレミアはうなだれた。そんな彼の顔をあげさせ、主は今度は、意地の悪い顔で笑った。
「今度、あんなバカな事を考えてみろ。クビにするぞ?」
「そ、それだけは」
 とたんに狼狽えたジェレミアに、今度こそ主は声をあげて笑った。




以前ブログで一話と二話を掲載していたものを完結させました。ルルーシュの騎士は、永遠にジェレミアただ一人。

2014年6月22日