「――――いい夜だ」

 胸いっぱいに瑞々しいほどの空気を吸い込むと、漆黒の存在は頭上を仰いだ。 天に座す女神は、世界が構築されたその瞬間、否、それよりも前から美しくその輝きを世界にもたらす。 手を伸ばせば触れてしまいそうなほどに天が近い満月の夜は、彼らに至大の安息を与えた。
 目を伏せ、月皓を浴びていると、ふと後ろから声が聞こえた。 目を開いて視線をほんの少し横にずらせば、彼の胸に頭がつくくらいの巨大な狼が、 すりすりと頭を押し付けてきている。二本の足で立ち上がれば彼の倍にもなるであろう体長に、 けれど臆すこともなく、彼は甲斐甲斐しく狼の鼻の頭をかいた。 気持ちよさそうに目を細め、小さく鳴き声を漏らしながらもっと、 とでもいうように体全体で擦り寄ってくる。
「・・ああ、わかってるって」
 まるで会話をしているかのように、漆黒の存在は愛しげにその狼に話しかけた。
「そうだな・・・ああ、C.C.も待ってる。―――なに、マオとナナリーが?・・わかったよ」
 返事をするのと同時に、狼がぐっと上半身を地に着けた。 浮き上がった肩に手を沿え、勢いをつけて横座りに乗り上げると、狼が体勢を立て直す。 ほんの少しだけ体勢を変えて落ち着くと、漆黒は口を開いた。
「―――いこうか、ガウェイン」
 狼―――ガウェインが、とたんに前足に体重を乗せ。―――夜の街を、跳んだ。


















昔々の話。
































―――スザクにとって死とは、恐怖を呼び起こすものではなかったはずだった。















彼は良家の息子として日本国で生まれ育ち、齢十を迎える頃には周りに自分の敵などおらず、 令息として怠惰を貪るように過ぎて行く日々は只々スザクの心を空っぽにした。 好きだった様な気がする愛すべき母はスザクが物心つくかつかない頃に他界しており、 顔も声も体温の柔らかさも今では全く覚えておらず、 仕事としてスザクを慈しみ愛す使用人達の見え透いた態度はスザクを余計に苛立たせ、 そしていつかその苛立ちは傲慢となって幼いスザクの身を固めた。 自身を愛し、矜持に満ち、大仰に振る舞い、周りを巻き込み、 そうしてスザクは一人ぼっちで空っぽになりながらも大層で、表面上は満足な幼少期を過ごした。 それでもスザクは自身が愛すものを愛し、自分が生まれ育った国に愛着を持ち、 将来は大嫌いではあっても尊敬はしていた父のようになるのだと幼い子供心に誓っていた。


そしてそれは、十一を迎える蝉のなく夏に砕け散った。


国が戦争を迎え、幼く無垢な正義感に満ち満ちた自身は心を奮い立たせながら刀を持った。 父の部屋に駆け込みながらそれを抜き、構え、一瞬のことで理解さえしなかった父の腹を刺し、 捌き、命を絶ってそれを投げ捨てた。転がるように逃げ出した足は震えていたくせに酷く早く スザクを自身の秘密基地へと招きいれ、スザクはそこで三日間水も食料も得ず身を抱きしめてすごした。 その三日間の記憶が、スザクには欠落している。 その後ふらふらと渡り歩き、戦争中で誰もが困っているからと助け合う人々の中に混じり食事をもらい、 それを食み、夜は焼け焦げのある原っぱで過ごし、途中父の腐臭の記憶で飛び起きた。 ふくよかだった頬は痩け、ひとりぼっちの寂しさを堪えていて尚輝いていた無垢な瞳は、 死んだ魚のように虚無しか映しはしなかった。 戦争が終結したのはスザクが家を出て五十三日と七時間二十二分を過ぎた、丁度そのときだった。
ブリタニアの軍人が、天皇の首を掲げて、嗤っていた。


―――やっと国から解放される、そんな考えがよぎったスザクの頭には、 少し前までは持っていた愛国心など踏み潰されていた。


ブリタニア人が移住し始め、スザクはそこでオセアニアの方から来た日本とブリタニアとロシアの混血だ という女性に出会った。誘われるがまま、薦められるがままにその女性の下で暮らし、育ち、 スザクはそこで自分なりの思春期を過ごした。最初にあったのは戸惑いだった。次に来たのは寂しさだった。 次に感じたのは喜びだった。最後にやってきたのは、春の日溜まりのような暖かい、ぬくもりだらけの、 幸せだった。
女性はスザクに料理を教え、掃除、洗濯など、一人でできるだけの家事一切を叩き込んだ。 女性が居なくとも行動が出来るようバイクを手解きし、夜の世界を経験させた。 スザクは女性が日中に起きてくるのを見たことがなかった。
最初の頃、女性はスザクに自身が日夜逆転した生活を送っているのだとそれだけを教えた。 スザクはそれを了承し、夜二人で出掛けたときに買い与えられた少々の勉強道具とリビングにあるテレビと パソコンを使い過ごした。女性は夏のうちは八時ごろに起き、 冬は五時にはスザクの前に寝起きの姿で現れた。 女性は自身が起きてからとスザクが寝るまでの間の数時間にスザクに少しずつ物事を教え、 そしてスザクはそれらを自分なりに積み上げて確実に成長していった。
どこかで聞く陳腐な話とは違い、女性は一度としてスザクに夜の相手を望んだことはなかった。 齢十五、十六になる頃にはスザクは変声期も乗り越え、細身ながらもがっしりとした体躯を手に入れ、 掠れた低い甘い声は回りの女性を虜にした。女性はスザクにそういう教育も必要だとしてスザクを 高額の現金と共に夜の世界へと送り出し、そして言われるままにスザクはそれらの知識と経験を積んだ。 けれど女性は自身にそれを求めなかった。
愛情を示されたことは一度としてなく、それでもスザクはこの女性の確かな優しさが好きだった。 自分を養い、育て、そして見守ってきてくれたその態度は本来ならば両親から得るはずの愛とやらよりも 確固としたものである気がしたし、スザクはそれで満足だった。
愛していた。信頼を向けていた。裏切られたのは十七の夏だった。




『???家族が』



家族が欲しいの、女性はそういった。その日はスザクが夕食を食べた後に、 二人で向き合ってテレビをみながら、紅茶を飲んでいた夜だった。 二人の間にはアンティークのローテーブルがあり、その上には書類や本、雑誌や新聞などが散乱していた。 女性は良く文字を読んだ。そして良く文字を書いた。博識な、人だった。
そんな中の、突然の事だった。驚いたけれども、スザクは顔をつくって真剣に、家族とはなんだろう、 と考えた。きっと自分の中にある家族の定義と、彼女の中にある家族の定義は違うだろうから。 そう思ったが故の思案だった。子どもが欲しいのかと、スザクは聞いた。女性はそうだと答えた。 スザクは戸惑い、困惑し、そして少量の勇気でもって僕の子どもということですか、とたずねた。 困惑は声の震えとして現れた。女性は一度としてスザクに熱ある愛も身体も求めたことはなかった。
違うわ、と女性は答えた。安堵した。そして次には喜びにまみれた。貴方が欲しいの、 そういった彼女の言葉をスザクは養子として、という意味合いに捕らえた。 そういえば正式な家族であったことは一度もなかった。養子縁組は結んでいなかった。


次の瞬間、喜びは恐怖と痛みと苦悩に生まれ変わった。


なりたいです、貴方の家族に。そう顔をほころばせていったスザクの言葉を聴いた瞬間、そう、 といって女性は笑った。はたと思った瞬間にはスザクは床に組み伏せられ、 絶対的な力の前に痛みさえ麻痺してただ床に押さえつけられた。 何が起こったのだと考え始めた瞬間には女性はスザクの首筋に顔をうずめ、 痛みが信頼への裏切りという絶望となってスザクを襲った。何か叫んだだろうか。わからない。 まるで首の二点の痛みが身体を支配しているようで、そのときのスザクにはそこ二点のみの痛覚 以外が全て麻痺していた。心臓が首にあるかと思ってしまうくらい、どんどん血がちゅうちゅうと 吸い出されていくそこは脈打った。

やっとおさまったと思った頃にはすぐにぐいと顎をつかまれ、舌で強引に唇を割られ歯を割られ、 舌先に熱を感じた頃には味覚に鉄が充満した。女性の口からどんどん流れ込んでいく血は熱く冷たく、 飲む込むことを躊躇ったスザクは次の瞬間首を絞められ、解放され、それを繰り返されて結局最後の一 滴まで飲み込んだ。灼熱は驚きとしてスザクを襲った。
喉はまるで千度のアイロンを突っ込まれたかのように熱く、スザクは部屋をのた打ち回って喉を押さえた。 水を、と思って伸ばした手先には女性が座り込み、そして光悦した表情でスザクを見下ろしていた。 これで家族よ、とうっそりと笑う女性の肩を掴み、倒し、首を絞めて骨を折った。 それだけの力はまだスザクには残っており、不意を付かれた女性は驚きの目でスザクを見つめた。 すぐに部屋を駆け出した。朝の四時だった。


変化が訪れたのはすぐだった。喉の灼熱は収まったものの、 まるでスポーツをした直後の様にからからと乾いていたスザクは無意識に喉を押さえ、 そして路地裏でうずくまった。空が白んできた頃、スザクは猛烈な眠気に襲われ始めた。 このまま寝てしまってもよかった。けれど女性の家はこの六年間ですっかりスザクにとっての我が家とし て刻み込まれていた。スザクは家に踏み込み、そっと中を踏み込んだ。 スザクの立っている場所は丁度影になっていた。女性はいまだにたおれていた。

完全に空が白んだ頃、太陽の光にさらされた彼女の身体がびくんと跳ね、 そして次の瞬間には空間を引き裂くような悲鳴が響いた。何事かと思って顔を出そうとし、 顔を襲った熱風のようなものに不快を感じてあわてて隠れた。悲鳴が収まったころ、 そろそろと見てみれば灰の山が人の形をしておさまっていた。女性の面影は一つもなく、 陽の光が雲に隠れて見えない間にスザクは睡魔にふらつく足を奮い立たせて雨戸を閉めた。 カーテンを閉めた。眠気に勝てず、 女性の屍ともいえる灰をどうにもせずにソファに突っ伏した。眠った。


その後、朧げな知識と自分の独断で細々と生きた。 自分が何であるのかを明確に、何を必要とし、何を不必要として生きるのかを知ったのは、 女性の書斎にあった三百年分の日記を読んだ、歳を取らなくなった三年後だった。




沈む深海を見たことはあるか

2011年1月22日 (2009年2月16日初出)