「伯父さん」
淡い淡い光の中、優しくかけられた声に一巳はゆっくりと目を開けた。酷く美しく成長した姪が一巳を穏やかに見つめていて、まるで寝付けない子供にするかのように髪をそっと撫で付けていた。
「おはよう。今日の調子はどう?起きれそうやったら一緒に朝ご飯食べよう。無理そうやったらこっちに運ぶから、やっぱり一緒に食べようか」
「・・・いや、大丈夫だ。今日は随分と体が軽い」
「そお?着替えは?」
「一人で大丈夫だ。今日のメニューは?」
「昨日の晩から煮込んでおいたスープがメインやよ。あとセントラルタウンで買った『さっくりバケット』に、今朝庭で取れた野菜のサラダと、タマネギとベーコンを今朝鶏が産んだ卵で包んだオムレツ。伯父さん用にハーブティーでも淹れるから、顔洗ったら出てきてね」
「ああ。・・・蜜柑」
「なぁに?」
「ありがとう」
一瞬きょとん、と目を見張った顔は柚香に生き写しだ。そして綻ぶように笑う姿は泉水そっくりだ。

規定通りの二十歳でアリス学園を卒業した蜜柑は、祖父が亡くなるまでの九年半を、京都の奥深くで自然と過ごした。祖父が亡くなり、残った寺を遺産として受け継いだ蜜柑は朽ち果てていた部分を改築し、洋風にした後にそれをルカに譲った。そしてそのままアリス学園に戻った。祖父のアリスストーンを自身のアリスを使って自分の体に染み渡らせ、以来九十年間、アリス学園でカウンセラーとしての日々を過ごしている。北の森の中、ベアが使っていた小屋を自分の職場とした蜜柑は、始業一時間前から日が沈むまでをそこで過ごす。奥行きの狭い、壁一面の本棚には、こんぺいとうの容器に詰まったたくさんのアリスストーンが、日々陽に照らされて光り輝く。興奮している生徒には、穏やかになるフェロモンを持っていたアリス能力者のストーンのかけらだけを取り出し、小さな袋に入れて持ち歩くようにさせたりだとか。何十年の間に蜜柑は一つの大きなアリスストーンから、ほんのひとかけらだけを再び取り出す事が出来るようになっていた。
ここにあるアリスストーンは全て寄付だ。かつての友人を始めとして、この学園を卒業する生徒の殆どが、卒業前に蜜柑の元へやってきて自分のアリスストーンを提供していく。一概に危険だとされる能力の子ですら、蜜柑に能力を託していく。それはもはやアリス学園の新たな伝統となっていた。
蜜柑は棗と結婚こそしなかったが、彼の子を二人産んだ。棗は二人目の子が産まれた一年後に、短く、激しかった人生を終えた。
既に蜜柑の子は成人し、結婚をしてまた子を産み、その子もまた大人になり伴侶を見つけていった。蜜柑は未だに二十九の姿のままだけれども、すでにひ孫がいる。かろうじて今も生きているのは悪霊使いの陽一だが、彼は何処かの古い寺で悪霊に見守られながら少しずつ息を薄くしていっているという。悪霊使いらしい最後を迎えようとしている。
志貴は五十年間の中等部校長としての職務を全うし、丁度アリス学園の新体制が整い、新たな校長に引き継いだ後、多量の睡眠薬を服薬して自殺した。最後まで柚香の為に生き、死んだ彼だった。
蜜柑はその時の流れを、伯父と一緒に逆らいながら生きてきた。アリス学園で育った蜜柑は時間の流れを大して重要と捉えていない。必要ならば時でさえねじ曲げる、それだけの覚悟が彼女にはあった。

そんな彼女が伯父と過ごした九十年の後、ある日、一巳の不老長寿のアリスがついに底をついた。一巳がそれを自覚したのは、ある朝自分の顔に今まで見ること等一度も無かったしわを目尻に見つけた時だ。それ以来一巳は、毎日を蜜柑と過ごしている。夏期休暇の中、秋学期が始まるまでの残り数週間、一巳は毎日自分の校長としての職務を引き継ぎながら、ゆっくりと時間の流れに身を任せている。
蜜柑の体に残る一巳のアリスは、あと五十年は存在を主張し続けるだろう。その間蜜柑はたった一人で生きていかなければならない。
「そんな事ないよ、アリス学園は広くて人がたくさんいて、家族ばかりが集まっている大切な場所やもん。だからそんな悲しそうな顔をしないで」
ほんの数年前、二人で一緒に世紀を超えた。2100年になって、二人だけが2000年から生き続けている。
一巳の死を機に、アリス学園はまた少し体制を変える。初中高の校舎の中間地点にある土地に新たに家を立て、そこを学園長の住まいとするのだ。蜜柑はこれから先をそこで暮らす。初中高全てを束ねる学園長として、そしてカウンセラーとして、一生を生きていく。

「あ、伯父さん出てきた。丁度ハーブティーはいったよ」
席に着いて二人で食事をする。この家は玄関ロビーを開けるとすぐそこに広いリビングとダイニングがある。靴を脱ぐ必要はなく、まるでホテルのロビーのようにそこでくつろげるのだ。そうした理由は。
「おは、よう・・・ございます・・・」
ベルをならして入ってきたのは、初等部B組のとある少女だ。最近入ったばかりで元気が無い。食事中の蜜柑と一巳を見て酷く恐縮し、出て行こうとする彼女を蜜柑が引きとめる。
「おはよう!梓ちゃんご飯たべた?」
「え、と・・・まだです」
一人で食堂に入れなかったという。
「じゃあ食べてって!そしたら授業始まるまでお話しよか。後であの今井大博士のスクーターで送ってったるし☆」
蜜柑は一巳が亡くなったあと、二人で過ごしたこの住まいをそのまま学園長の住まいとする場所に移築するのだ。常に人の気配のするリビングを玄関に置く事を、蜜柑は家を建てるときの絶対条件としていた。

そして今日も一巳は蜜柑に起こされる筈だった。
「おはよう、伯父さん」
「・・・・みかん」
「・・・ーーーー・・・」
ついに来たのだ。この日が遂にやってきたのだ。蜜柑はゆっくりと息をのみ、静かに涙を流し、顔を覆い、五分泣いてから伯父の頬にキスを落として部屋を出た。数分のうちに、学園全体が一巳の寿命を知る事になるだろう。数時間後には、皆が棺に花を捧げにやってくる。
戻ってきた蜜柑は目が真っ赤だったけれど、相変わらず美しい笑みを浮かべていた。
「どうする、伯父さん?ここで寝る?それとも学校に連れて行こうか」
「・・・・学校へ、いこう。行き掛けに、ベンチが、あるだろう、・・・・そこまで」
「うん、わかった。車いすとってくるね」
そうして二人でいつもの散歩道を、今日は蜜柑だけが歩いて一緒に回る。ベンチについて一巳は最後の力を振り絞って車いすを降り、ベンチに座る。隣に座った蜜柑が肩に頭を預けてくる。その小さな頭に、ことりと頭を預けた。
「蜜柑」
「うん」
「蜜柑、私はしあわせだ・・・」
「・・・・うん」
村に特異な美しい容貌で生まれ、幼くして学園にとらわれ、約百五十年。その間にたくさんの事があった。弟が生まれ、その弟が生徒と恋に落ち、死に、姪が生まれ、姪が学園を変え、その彼女と一緒に生きてきた。酷く穏やかで幸せな時間だった。アリス学園で産まれたたくさんの子達の名前をつけた。幸せな、満足のいく人生だった。
「しあわせものだ・・・」
「・・・・・。・・・ーーーー・っ・・・・・、おや、す・・・み、・・・伯父さん・・・・」



愛している、蜜柑

2011年8月18日