Because 2



ハボックが意識を浮上させたのは、酒で茹だっていた筈の頭がいい具合に冷え、穏やかなBGMとしての役目を果たしていた周りの客の話し声が途切れた、と意識がようやく反応した時だった。
その声に目を開ければ、そこは一点を除いて真っ暗闇の空間だった。フロアの照明は全て落とされ、残っているのはステージの照明だけだ。そこではまるで子守唄のような静かなメロディを少女が奏でており、ふと痛みを訴えた頭を押さえたハボックがうめくと、クスリとその唇を綻ばせた。
「起きた?軍人さん」
その瞳がようやく合わさった時、ハボックは思わず息をのんだ。金糸の様な髪と揃いの、金色の瞳。まるで純粋の金塊が埋め込まれたような色をしているのに、どこか透き通っていた。
「・・・俺は?」
「酔って寝ちゃったみたいだよ。ちなみにもう客は全員帰っていて、今はマスターが店じまいをしてる」
「はっ?」
慌てて懐の懐中時計を見れば、なるほど店が閉まる午前二時を十五分程過ぎていた。自分の体にかけられた毛布と、他は全部片付けられたテーブルの上のワインクーラーに目一杯詰め込まれた氷水と、たった今額からずるりと手に落ちたタオルを見れば、自分がどうやら介抱されていた事がわかった。
「・・・悪い。ありがとう」
「いいええ。でもお礼ならマスターにね。介抱してくれたのはあの人なんだからさ」
「ああ、目が覚めました?」
マスターが奥の部屋から出て来た。ネクタイは緩められベストのボタンははずれ、完全に寛いだ恰好だ。
「ああ悪いマスター、どうやら長居してしまったみたいで」
「いいえ、構いませんよ。ひどくお疲れだったんでしょう」
頭はまだ少し痛むが、立ち上がれない程ではない。いつまでもグズグズしそうな気持ちのいいソファから勢い良く立ち上がると、ハボックは酒の代金に迷惑料を少しばかり足してマスターに支払った。あと札を一枚、気分よく音楽を聴かせてくれた彼女にチップとして渡してもらうように頼んだ。
「おやおやこれは、構いませんのに迷惑料だなんて」
「いいからとっといてくれよ、俺のためだと思ってさ」
「それは・・・では、有難く」
「うん。じゃあ、俺いくわ。悪いなマスター」
「またお越し下さいませ。エディ、お客さんを表まで送ってくれないか」
「うん、いいよ」
「え」
振り向くと、着替えたのだろう。もうすぐ初冬を迎える秋の装いらしく、淡い色の薄いトレンチコートを着込んだ少女がいつの間にかハボックの後ろに立っていた。マジェンタにも取れる深紅のスカーフが彼女の白い肌と金色を際立たせて、ひどく色っぽい。このような場所で働いているからには義務教育は修了しているだろうが、それでも年相応ではないだろうその幼い外見と相まって倒錯的でもあった。
「いこっか。それじゃマスター、おやすみなさい」
「おやすみ、エディ。お客さん、またいらしてくださいね」
「あ、ああ」
少女はハボックの腕をとり、さりげなく腕を組んで店を出た。一つ一つ階段を上る旅にかつんかつんと二つの靴が足音をたてた。それと併行してコツン、と棒の音も。そこまで来て、ようやくハボックは少女がハボックと組んでいない方の手で白杖を持っていた事に気付いた。
「君・・・もしかして、目がみえないのか」
呟く様に尋ねたハボックに、少女はことなげも無く答えた。
「ほとんどね。ピアノの鍵盤一本くらいの狭い視界ならあるよ。あとは真っ暗。まぁ、光の明暗の区別がつくくらいかな」
そういわれて、そういえばこの少女は初めてステージにあがった時から、何かしらに触れていたことを思い出す。マイクの薔薇を髪に差し込んだ時だって。右手だけは常にピアノにそっと触れていた。そして彼女は一度も鍵盤を見てピアノを弾かなかった。
何か言おうかと思ったが、この少女は別段気にしていないように見える。どう声をかければ良いかも解らなかったので、ハボックはとりあえず階段を上ることに集中した。そしてそれは正しかったらしい。階段を上りきり、いつもの通りに出た時、少女はふわりと微笑んだ。
「あんたいい人だね、軍人さん。普通は皆根掘り葉掘り聞いたり、同情したり可哀想っていったりするよ」
「俺は・・・そうだな、特に可哀想とは思わなかったが・・・まぁ、俺がどうこう言えるもんでもないだろ?」
「正解だよ、軍人さん」
言われる言葉と笑顔がどうにもミスマッチで、ハボックは知らず知らずのうちに頬を撫でていた。
「なぁ、その軍人さんってやめろよ。俺はジャン・ハボックって言うんだ」
「ジャン・ハボックね、俺はエドワード・エルリック。こんな名前だけどきちんと女。」
「エディ、っていうのは愛称か」
「そう。あとエドって呼ばれたり」
「エドは家どっち?送ってやろうか」
家に帰るのも一苦労ではないかという考えからの提案だったが、それもまたエドワードは笑った。
「あはは、やっぱりジャンっていい人だよ。大丈夫、暗いも明るいも俺には関係ないから。一人で帰れる」
「でも・・・」
「じゃあ、この通りを抜けるまで送ってよ。そしたら静かになって歩きやすいから」
「ん、わかった」
そのまま連れたって歩く。エドワードが足向けた方向はハボックとは逆方向だったが、だからといって何の不満も浮かばなかった。
「なぁ、そういえば何で俺が軍人だってわかったんだ。お前見えないんだったら、俺が軍服着てるのもわからなかっただろ」
見えないという言葉を言ってしまったあとに後悔したが、エドワードは全く気にしていないようだったので安心した。
「ジャンが軍人だってわかったのは、マスターが客を全員帰らせてあんたが1人になってからだよ。息づかいとか少し体を動かした時の服のこすれた音とかが、軍人だった」
「・・・それだけ?」
「軍人さんって呼びかけた時に否定しなかったからね。あと一緒に階段のぼってた時の靴音と、歩き方かな。俺見えない分、耳はいいから」
「へえ・・・そりゃすげえな」
「ありがと。・・・と、ここでいいよ」
エドワードは言って腕をするりと離した。いつの間にかハボックの背後には歓楽街の喧噪がうるさいけれど、目の前に立ったエドワードの背後には住宅街へと続く道があるばかりで静かだ。
「じゃあね、ジャン。また来てね。俺あそこには金土日の夜八時から弾いてるから」
「ああ。・・・演奏、良かったぜ。お前のピアノ俺は好きだな」
「わかるよ。ジャンの座っていた場所から、ずっと視線感じてたから。あとそこだけ空気が張りつめてて、ああ集中して聞いてくれてるんだなって気付いたから」
そんな事まで解ってしまうのか、とハボックが小さく息を飲むと、エドワードはまた笑った。ゆっくりと両手をハボックに伸ばす。腕に触られ、辿りながら肩、首、そして頬まで手が伸びる。見つめ合えば、なるほどエドワードの目ははっきりと焦点があってなかった。そのまま引き寄せられ、頬に柔らかい感触が残る。ちゅ、と可愛らしい擬音まで残して、エドワードは離れた。
「おやすみ、ジャン。よい夢を」
「お前もな、エド」



今夜はお前の夢を観るよ。

2011年7月13日