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「だ、誰......?」

 父は死に、母すらも病院住まいになってしまってから、約一年。短くも長かったその間、誰一人として凛以外の気配をもたなかった遠坂邸の居間のソファに、踏ん反り返っている男がいた。



1 Hello, hello.



 開口一番、遅い! と凛を詰ったその男は不遜にも飲み物を所望し、凛は混乱のままに律儀に紅茶を淹れ、彼の対面にちょこんと座ってしまった。後悔はいつだって後からやってくるけれど、その時の凛には、後から思い出したって、この男に歯向かう手段は一つとしてなかったのだ。
 いつもならば帰宅一番、自分の部屋にランドセルを置いてくるのだが、玄関の鍵を開けた瞬間に漂ってきたわずかな魔力の気配に、凛はたちまち身体を強張らせたのだ。去年の暮れから、ポケットにいつも忍ばせておくようにしている宝石の幾つかを握り込んで、気配が最も色濃く漂いをみせる居間のドアを慎重に開けた先に、その男は座っていた。
 黄金の髪色に、真っ赤なルビーのごとき美しい瞳。男の鋭い視線にさらされた途端、勇猛果敢にも一人で侵入者を排除してみせようと意気込んでいた凛は萎縮した。ビリビリと威圧感が肌を焼く。蛇に睨まれたカエル、という表現がまさに似合う中、かろうじて聞こえる程度の音量でも、誰、と尋ねられた自分を褒めてやりたかった。
 そんなことはどうでもいいと言わんばかりに彼は飲み物を催促したので、凛は結局はじめの問いの答えを得ていないのだが、男のティーカップを傾ける所作には隙がなくて、凛はまるで知らない家で恐縮しているかのように、気まずい雰囲気の中紅茶をすすった。

「さて、小娘よ」
「ーーーっ、だ、だれが小娘よっ...!」

 時間にして数分か、実に優雅に紅茶を飲み干した男は、ソーサーにカップを置くなり踏ん反り返った。かけられた言葉の不遜さに、凛は縮こまっていたことも忘れて声を荒げる。ギロリと睨まれて慌てて口を閉じたが、それでも負けてたまるかという思いで睨み返す。

「あ、あなた、だれ。魔術師なの?」
「綺礼から何も聞いておらぬのか」

 その名前に、ぴくりと凛が反応する。
 綺礼とは、もはや肉親と呼べる人間がーーー正確には、肉親として頼れる大人だが、いない凛の後見人を務める男の名だ。言峰綺礼。凛は父が存命の頃から彼のことを毛嫌いしていたが、それでもこの一年、何かと直接交流を重ねていれば彼の人となりは知れた。善良な人間でない事は確かだが、彼が無駄なことや、凛の不利になるような事をするタイプではないことはようく分かっている。だからこそ、凛は警戒は重ねつつも、敵愾心はおさめた。何があってもいいように(凛は、今から自分が何かに驚けば、遺伝性の『うっかり』でカップなりを落として割ってしまう可能性をきちんと理解していた)、慎重にソファに座りなおす。

「......綺礼の、知り合いなのね」
「うむ」
「どうしてここにいるの?」
「今日からここを我が住居とするからに決まっておろう、戯け」
「ーーー......えっ?」

 住居? この男が?
 どうしてそうなったのか、いつの間にそんなことが決まったのか、幼い凛の頭のなかで様々な問いがぐるぐると回る。そんな彼女を上から下までじろじろと、ためつすがめつして見ながら、男は凛の慌てっぷりを楽しむかのように口の端を釣り上げた。彼からは鳩を追いかけまわして楽しんでいる子供らしい加虐心のようなものが見て取れて、凛は弄ばれているのが分かっていながらも、戸惑いのままに問いを重ねた。

「な、なんで? うち、使用人なんていらないんだけど」
「......この我を、使用人だと?」

 男は一瞬、ぴくりと眉を跳ね上げて、声を低くした。
 凛はたちまち飛び上がって、どう見たって明らかに、使用人なんて職が務まりそうにない男の雰囲気から、自分の発言が失言であったことに気づいた。サッと顔から血の気がひく。彼から魔術の素養は見て取れないが、怒らせれば、彼は凛を一瞬で殺せるだろう。その程度の危機察知能力は凛にもあった。
 だが男はそれ以上怒ることもなく、それどころか少々愉快そうに、凛との会話に興じることを決めたようだった。

「フン、逆だ馬鹿者。貴様が我に仕えるに決まっている!」
「ーーーは、はァ?」
「喜べ、そして光栄に思うが良いぞ、小娘」

 ついていけずに目を白黒させる凛の、まんまるの瞳にうつった自分ににんまりと笑うと、男は胸を張った。

「この王たる王である我と同じ屋敷に住まうことが許されたのだ。せいぜい我を愉しませよ、トキオミの娘」

 父の名に、凛はようやく男の目を見た。愉快そうに、楽しそうに、面白そうに。凛を見つめる男の目は、新しいおもちゃを見つけた子供のように爛々としていた。



2 



















2 Hold tight Dream well

 ああ、どうしてーーー。
 そんな思いで、凛は布団を頭から被り直した。

 午前12時半。
 どうしてこんな時間に目が覚めてしまったのかーーーいや、目を覚ましてしまったのか、小一時間自分を問い詰めたいくらいには、今の凛は不安でいっぱいだ。
 今夜は、確かに雨の兆候があった。それでも、凛が眠りにつくまでは何も起こらなかったのに、どうして……どうして、凛が寝てる間に鳴りはじめてしまったのだろう。この屋敷全体を揺らすような、雷は。バックグラウンドに聴こえてくる雨音はスコールと呼んでも過言ではない轟音で、凛は一際大きい雷鳴が轟いた瞬間、寸前寝ていた事もわすれて飛び起きた。
 心臓がばくばくと音をたてて煩い。雷は同時に部屋の温度も奪っていっているような気すらして、凛は震える体を抱きしめた。

 凛は雷が嫌いだ。怖くて怖くてたまらない。凛は八つになったばかりで、いくらこの一年で一人の人間として成熟したように思えても、所詮こどもなのだ。
 腹の底に響くような雷鳴は体全体を揺すぶってくるようで、凛はベッドの天蓋から下がるドレープを全ておろして、耳を塞いだ。自然の法則は予測がつかない。どうしようもないものに対する恐怖は、今の凛にはまだ御しきれるものではなかった。
 またも響いた雷鳴に、思わず凛の喉から引き攣れた音で父を呼ぶ声が出てーーー凛の目からはとうとう、我慢していた涙があふれた。凛にはもはや、恐怖に自分が泣いていないかどうかそっと確かめに来る両親も、恐怖を共有すべく同じ布団に潜り込める妹もいない。凛はもう、どこへいってもひとりだ。
 布団を頭から被って、凛はしゃくりあげた。堪えていたものが次々と溢れ出して、家族の恋しさが胸に溢れる。お父様、どうして。
 呪いのように繰り返し父の名を呼んでいれば、恐怖はいつか過ぎ去るだろうと思った。事実時臣はいつだって自分を助けてくれた。もういない、もういないけれど。

 一際おおきな雷鳴が鳴り響いた時、ハッと凛の脳裏に声がこだました。自分の父を臣下と呼び表した。男の声だ。
 ーーーひとりじゃ、ない。
 今の凛には、一人だけ、いるのだ。

 凛はベッドを降りると、そっとドアを開けて廊下を伺った。ギルガメッシュに宛てがった部屋はここからでも見える。ドア下の隙間から光が漏れていないことから、凛は彼も今夜はすでに眠りについていることが知れた。王様は、夜遊びもひどいが、寝る時はほんとうに早い。それは一緒に暮らし始めて一ヶ月でわかった。がっかりして、気持ち下がった肩はそのままに、凛はそろそろとギルガメッシュの部屋まで歩いた。ネグリジェを握りしめていた手を離して、恐る恐るこぶしの形を作る。ノックしようと軽く振りかぶったところで逡巡してーーー凛はしゅんと手をおろした。
 彼を起こしてしまって、どうするのだろう。きっと不機嫌な王様に怒られるだけだ。寝起きの彼の姿は見たことがないけれど、それでもこんな夜更けに起こされて機嫌よくドアを開けてくれる人などいないと思う。凛には勝手にドアをあけて中に忍び込む度胸もない。それに、たとえ彼が起きていたとしても、いったい彼は凛に何をしてくれるだろう。逆に、凛は彼になにを求めるのだろう? ほんのすこしお話をする? それともいっしょに暖かいものを飲む? ーーー添い寝を頼む?
 できるはずがない、と凛は思った。そんなこと、とてもできない。凛は毎日いっしょにいてくれるような人ができて、少なからず嬉しかったのだけれど、それがイコール彼に甘えていい理由にはならない。そもそも、彼は凛の保護者となったわけではないのだ。年上のシェアメイト(ただし、料理は催促される)といったほうが正しい。
 凛は落胆して肩を下げると、とぼとぼと来た道を戻った。

 ガチャリ、と音がする。
「ーーーリン」

 バッと振り返ると、開け放たれたドアの枠に寄りかかったギルガメッシュが、腕を組んで凛を見ていた。

「あっ……」
「ひとの寝処の前で、ウロウロと。無礼であるぞ、たわけ」

 寝起きのためか、下がった前髪をかきあげて、ぶっきらぼうに言い放つ。凛は顔を真っ青にすると、起こしてしまった罪悪感にふるえて、項垂れた。そんな彼女に、ギルガメッシュはもう一度リン、と呼びかける。のろのろと涙目の顔を上げて自分を見つめるこどもに呆れ返ったため息をついて、ギルガメッシュは口を開いた。

「あまり我を煩わせるな。さっさと来い、このうっかり娘。
 足音を消した処で、魔力がだだ漏れだというのだ、ばかめ」

 言うだけ言って、さっさと踵を返して部屋に戻ったギルガメッシュを、ポカンと見つめたあと、凛は弾かれたように小走りで部屋へ戻った。
 中に体を滑り込ませて、ドアを閉める。部屋の真ん中のキングサイズのベッドにギルガメッシュはすっかり潜り込んで、凛をじっと見ていた。

「早くしろ」
「あっ、う、ん」

 またもベッドへ駆け寄ると、凛は彼女の身長にはまだなんとなく高いベッドに登るべく、足を大きく上げた(ネグリジェの裾をまくらなければいけなくて、はしたない、と思ったけれど)。だがその足がベッドにかかる前に、凛の体はベッドの中心から腕を伸ばしてきたギルガメッシュにひょいと抱え上げられて、彼の隣に降ろされた。

「きゃあっ」

 ギルガメッシュは布団を持ち上げて凛の小さな体を押し込んで、自分も横たわる。あっという間にベッドで寝る体勢にさせられてしまった凛は、目をぱちくりとさせて、隣の暖かいぬくもりを見遣った。

「......ギル」
「なんだ」
「あ、あの、そのーーーッ!」

 突如響いた雷鳴に、身を竦ませる。言おうとしていたお礼の言葉などどこかへ飛んでいって、凛は無意識に目の前の胸にすがりついた。ぴくり、とギルガメッシュが反応する。

「おい」
「あ、あの、ごめんなさい」

 大きくため息をひとつつくと、ギルガメッシュはまたもや長い腕を目一杯のばして、天蓋から垂れ下がるドレープをすべておろした。再び響いた雷鳴が、どこかくぐもったように聴こえる。ついでとばかりに布団を凛の首まで引き上げると、ギルガメッシュは笑った。

「さっさと寝ろ。明日見事に寝坊して、クラスの笑い者になりたいのなら話は別だがなァ、リン?」
「うっ...うるさいわね、いま寝るところよ!」

 これ以上何か言われては堪らないと、凛は身体を丸めて目を閉じた。父とも母ともつかぬ匂いとぬくもりに包まれて、凛は知らずほう、と息をつく。彼の手だろうか、顔にかかる髪をかきわけられる感覚が、まるでかつての母のようで、凛はきゅうと胸が締め付けられた。

 そしてほんの一瞬、音もなく。
 まるで幼いころ、父がしてくれたように。凛は、目を閉じたまま、自分の額におりてきた熱に、涙が出そうになった。



3 



















3 Wonder, Wonder

 いまの凛にとって、食事は義務であり、料理は単なる節約の手段だ。
 朝は適当に買ったパンを紅茶とともに流し込む。昼は学校の給食を食べ、夜は適当に野菜と肉を炒めて済ませる。一人つく食卓は孤独でさみしい。一人で眠るベッドよりも、よほど惨めだ。後見人の言峰は凛と暮らすどころか彼女を世話するという考えにも至らないようで、凛はこうしてなんでも一人でやっている。

 子供ひとりで暮らすということが、どれほど大変なのか。一人になって、凛は身に染みて理解した。そしてどうしようもなく自分は異端だと。魔術師の家に生まれた以上、魔術の道を諦める以外に、凛が孤児院などの外部に自分の世話を頼むことはできない。それなのに、この社会はどうしたって子は大人に守られるように出来ていて、保護者がいなければ凛は自分で自分の責任を取ることができない。もっといえば、取らせてもらえない。
 はじめは時間を作って料理をするという事がなかなかに難しくて、凛はスーパーの惣菜に頼ろうとしたが、数日してすぐにやめた。小学生の女児が毎夕ひとりでスーパーに赴いて、食料を調達する姿は異様で人の関心をひく。まるで食べさせてもらえていない子供の様相だ。苦労してでも食事は自分で賄わなければいけない、そう判断して、凛は言峰との相談の末に、食料は家に届けてもらう方法をとった。たまに足りないものを買いにいく時は、おつかいだと言えばいい。

 病院のベッドで、夫の帰りを待つ母のことを、凛は哀れに思い、そして恋しかった。もっといろんなお料理をならっておけばよかった、と心底思う。母とて、夫のみならず自分までもが、幼い娘をひとり家にのこすような羽目になるとは思わなかっただろう。凛が苦労なくひとりで作れたのはフレンチトーストだけだった。それだって、母にねだって教えてもらったおやつの部類だ。ひとりで悪戦苦闘して、今やひととおりの、美味しくはない料理で自分の健康を賄っている。だからいまの凛にとって、食事は自分を保つ義務たる行為で、料理は矜恃と節約の手段なのだ。

 ーーーだったのだけれど。

 いつになく、包丁を握る手に気合が入る。慎重に、一つ一つの野菜に刃を入れていった。入念に味をみて、盛り付けに気を遣い。凛は久しぶりに、一人分以上の料理を、丁寧に仕上げた。テーブルに並べて、席につく。フォークとナイフを手にとって、凛ははやる心臓をこらえながら、断首を待つ罪人のように、固唾をのんで待った。

「ーーーふん」

 びくりと跳ねた肩を必死で隠して、凛は目の前に座る王を凝視した。もはや自分の皿に手をつけている場合ではない。一つひとつ、彼の口に運ばれていくものをみるたびに、ナイフが手から滑り落ちそうだった。

「不味い」

 容赦のない一言に、凛の胸は深くえぐれた。いとも簡単に目尻に涙が浮かんでしまって、凛はそれを隠すように深くうなだれた。かなしい、くやしい、ひどい。そんな言葉が胸に渦巻く。泣き声だけは絶対に聞かれたくなくて、凛は震える喉をぐっと締めると、じゃあ残していいわよ、と悪態をつこうと喉口をひらいた。

「スープも野菜も塩が多い。塩っ辛くて、お前は我を塩分過多で殺したいのか? 次はもっと控えろ。あと、酒で味に深みを出そうとする気概はいいがな、ワインは入れればいいというものではないぞ。あと十年は料理酒で我慢するのだな」

 ペラペラと饒舌なまでに言いたいことを言うだけ言って、ギルガメッシュはさっさと完食した。すっかり空になった皿を脇によけ、傍にあったポットから自分で紅茶をそそいで飲む。ぽかんとしている凛を見遣って、彼は形の良い眉をつりあげた。

「デザートの甘味はないのか」
「…...あ。……あるわけ、ないじゃない、そんなの……」

 凛はようやっとそれだけ言うと、震える腕でカトラリーを握り直した。ちいさくいただきます、とつぶやいて、野菜を口にはこぶ。

「…...ほんとだ…辛い」

 しばらく咀嚼して、凛は笑った。スープも、焼いた野菜も、お肉も、どれもこれも塩っ辛い。飲み込むたびに水がいる。とてもじゃないが、食べきれるだろうかわからないほどに。味見したはずなのに、どうしてだろう。全部食べきった彼が信じられなくて、でも、そう、嬉しい。
 嬉しかった。

「つ、つぎは、もっとがんばるわ」

 凛はひくっと震える喉をおさえて、なんとか言葉を絞り出した。つぎからつぎへと涙が溢れてきて、ぬぐっても止まりそうにない。

「つぎはきっと、ぜったいもっとおいしいもん」
「ふん、せいぜい励め」
「うんっ、ひっ、う...」

 凛は結局残してしまって、それは全部ギルガメッシュが平らげた。辛い辛いといいながら、彼は凛といっしょに、とびきり甘い食後のミルクティーを、彼女が泣き止むまで楽しんだ。



4









 








 
4 Love and Respect

 凛の一日に無駄な時間などない。魔術の師たる父はもう亡く、兄弟子である綺礼は滅多に姿をみせないとあれば、凛に残された道は独学しかない。生前父が残したものすべてと、綺礼のアドバイスをもとに、凛は試行錯誤するしかないのだ。
 工房の中、一見雑に押し込められた数ある本は、おそらく父なりの美学と哲学でもって整理されていたのだろう。父の工房を荒らしているような感覚で心地が良くなかったが、凛はそれらを一度全部床に積み上げた。ここは父ではなく、遠坂家当主の工房であり、その肩書きは今や凛に付随する。
 一つ一つ手にとっては、魔力針を向けていく。軽い魔力反応を見せるものから、身がすくむような怖気を引き起こす本まで種類は多彩だ。空になった本棚には、工房の入り口に近い場所から易しいものを詰めていき、奥に進むにつれ難易度をあげる配置をとった。1年前、父の助けになろうと一人夜半に開いた本に取り込まれそうになった時のように、逆に助け出してくれる父はいないのだから、凛は自衛を学ぶしかない。

「……こんなものかしら」

 一通りの本を詰めなおして、凛は一息ついた。あとは乱雑に箱に差し込まれている巻物、箱から溢れる宝石類、それらの処理だ。
 一度休憩を入れて、紅茶でも飲もう。そう思ってランプのあかりに手を伸ばそうとした凛の耳に、カツンカツンと石畳を叩く踵の音が入った。

「ギル?」

 呼びかけると程なくして、ギルガメッシュがラフな部屋着で工房に降り立った。

「……ふん。変わったな」

 ぐるりと中を見渡すなりこぼすと、ギルガメッシュは一点を見つめる。どうしたのだろうと行動を注視する凛をよそに、ツカツカと奥の方の棚に歩み寄ると、彼は幾つかの本を無造作に引き抜いて凛に寄越した。いっそ惚れ惚れするほどの鮮やかな手つきで、凛には止める隙もなかった。

「これは手前に入れておけ」
「え……でもこれ、きっとまだ私には難しいわ」
「であろうな」

 寄越された本のタイトルを見て驚く。これは先ほど凛が自分にはまだ手に負えないと奥にやった本の一つだ。しかしギルガメッシュは気にすることはないとばかりに、腰を折っては背の低い本棚から次々と本を引き抜いていく。

「しかし、お前との相性はよかろう。……本も人の交わりと同じよ、付き合うに易しいより楽しい者といる方が会話も弾もう? それに、リン。お前は父親とは違う性質なのであろう……なれば言うほど難しくもあるまい」

 ぽんぽんと投げかけられる言葉は、驚くほどあっさりと凛の中に浸透した。確かに一理ある。思い返せば、父が生きていた頃だって、凛は簡単だろうと与えられた本が苦手だったり、逆に凛にはまだ早いと取り上げられたものにこっそり取り組んでいたら、ものの一日で飲み込んで時臣の舌を巻かせたという事がたまにあった。

「……魔術のことはわからないのに、こういうのはわかるの?」
「こんなものに魔術の素養など関係あるわけなかろう。感性の問題だ」
「感性?」

 凛の感心をよそに、ギルガメッシュはうろうろと工房の中を行き来しては物を配置を変えていった。彼が手を加える毎に、どんどん工房が凛の好みに変わっていくのが、感覚でわかる。ギルガメッシュは凛の本質を彼女以上に理解しているようだった。最後にぐるりと見回して、一つ頷くと、指一つでちょい、と凛を呼び寄せた。次は何をしてくれるのだろうと、すぐ傍まできた凛を抱え上げ、片腕に座らせる。ここ半年ですっかり慣れて、凛は心得たように彼の首に腕を回した。

「手を出せ」
「うん」

 おとなしく両手を差し出した凛に頷いて、ギルガメッシュはその真上に自分の手をかざした。現れた二つの金の渦に、凛は息を飲む。程なくして、同程度の大きさの石がふたつ、ころりと凛の手に転がった。

「ガーネット……」

 現れた宝石に、凛の瞳は薄暗い工房の中できらきらと輝いた。宝石魔術を扱う遠坂家の長女として、物心つくまえから宝石に触れてきた凛は、一目でその価値がわかったのだろう。比較的安価で手に入りやすいとはいえ、ダイヤモンドやアレキサンドライトと並んで、無処理のままで美しい稀有な宝石だ。
 ぶわりと紅潮した頬がその興奮を物語っていて、その子供らしいまろい頬にさした色に機嫌よく微笑むと、ギルガメッシュはその頬に鼻先を埋めてくすぐってやった。彼の行動と手の中の宝石の両方に、凛はくふくふ笑う。終いには凛を抱えているのとは反対の腕で凛の腹をくすぐるから、凛はここ半年すっかり鳴りを潜めていた、子供らしいきゃらきゃらとした笑い声をあげた。

「さて、答えよリン。どちらの玉のほうが上等だ?」

 ひとしきり笑って、彼は凛に尋ねた。凛はたちまち宝石を鑑定する職人の顔で上から下から宝石を覗き込み、見比べ、見極めると、こっち、確信を持った声で一つの石を掲げて見せた。緑ではなく、赤の。

「これ、すっごく良いものね。似た色で安いのはいっぱいあるけど、きっと国中探したってこれ以上のものはないわ……宝石商が知ったら店の品全てと交換してって土下座しにくるわよ、きっと」
「ふん、当然だ。我が蔵には至宝しか許されておらぬのだからな」
「緑のディマントイドより価値の高いロードライトがあるなんて……」

 感心しきった凛の顔に、ギルガメッシュはさらに気を良くした。ギルガメッシュの宝物庫にあるのはすべての宝の原点であるからして、宝石も二つと無い価値のものばかりが揃っている。現代では庶民にも手の出しやすい宝石が数多くあるだけあって、市場に安価で流通しているものは価値を低く見られがちだが、その比較的安価な種類にも至上のものは存在するのだ。
 ギルガメッシュは腕の中の凛を抱え直すと、その手から宝石をつまみ取った。

「お前は幼いが、宝石の善し悪しがわかるであろう。ムジカに詳しくなくともうるさいか否かの判断はつく。料理人でなくとも味で上手い下手かも。これも同じよ。感性とは経験であり磨かれるものだ。知識はいらぬ」
「そうなんだ……」
「そういうことだ。魔術に興味はなくとも、お前といれば、この家に暮らせば、自ずと我の魔術の感性は磨かれる。とりわけ我は、それが得意な質であるしな」

 凛を腕に抱いたまま、最後の仕上げとばかりにギルガメッシュは机の燭台の位置を変えた。彼の目線をうけて、凛は指を鳴らして火を灯す。父が死んでから、真似をしたくて、真っ先に覚えた魔術の一つだ。ゆらゆらと工房の石壁に火の光が反射する。その幻惑的な空間を凛はすっかり気に入って、くったりとギルガメッシュの頬に頬をくっつけた。
 ギルガメッシュはまたも笑うと、先ほど取り上げた宝石をちいさな手に握らせてやる。

「この玉はお前に取らせよう、リン」
「えっ…で、でも、」
「肌身離さず持っておけ。間違っても、この我があたえた至宝を、お前の魔術なんぞに使うなよ」
「言われなくたって使えないわよ、こんないいもの!」

 一般人がみたら目が飛び出すような額の宝石を湯水のように惜しげもなく使うのが遠坂家の宝石魔術だが、それに慣れている凛ですら、このガーネットの価値は計り知れなかった。このまま代々、遠坂家の至宝としてガラスケースに展示したほうが良いとさえ思えるくらいだ。肌身離さずといったって、これを無造作にポケットに突っ込んでおく度胸は凛にない。
 リンはギルガメッシュと手の中の宝石を行ったり来たり忙しなく見ると、やがて神妙な顔をしてぎゅっと手を握った。

「ありがとう、ギル。大切に、大切にするわ」

 ガーネットは単なる宝石ではなく、様々な石との相性が良いパワーストーンだ。実りの象徴ともされ、努力や恋を実らせ成功に導く力がある。凛に知恵を授けるためにガーネットを選んだのは、単なる偶然なのかもしれない。けれどもし、これがギルガメッシュなりに示してくれた凛への愛情表現なのだとしたら、それはとても嬉しいことだ。凛はギルガメッシュの首に抱きつくと、お茶にしましょう、ととびきり甘えた声でねだった。



5









 








 
5 Live and die, Eat and play

 遠坂凛、十歳の誕生日。
 凛は、自分が魔術師としてこの世に生を受けてからちょうど十年のこの日を、節目とすることに決めた。

 心臓はばくばくと煩いのに、頭の中は妙に冷静で、凛はこの時はじめて、自分を冷酷で冷徹な、心の冷たい人間だと思った。そして同時に、自分はどこまでいっても父の娘で、魔術師の枠から抜け出せるような人間でないとも思った。でなければーーーでなければこんな決定は、人の、十歳の子供の下す者ではない。文字通りの人でなし。真心のない欠陥品。それが遠坂凛だ。そうならねばならない。

 凛は歯をくいしばると、静かに目の前に座る言峰と医師を見上げた。

「ーーー同意します。よろしくお願い致します、先生」

 これが最後だと、ゆっくり頭を下げた。

 ※※※

「遅かったな、リンよ」

 ところどころ灯りの灯った我が家に帰る。
 すっかり所帯じみて、居間のソファには夕刊をのんびりと眺めているギルガメッシュがいた。

「……おかえりくらい言いなさいよ、金ピカ」

 ぶっきらぼうに返すと、喧嘩の時以外呼ばれなくなって久しい呼称に、ギルガメッシュは意外そうな顔で新聞から顔を上げた。

「ほう、随分とご機嫌ナナメではないか。てっきり誕生日だからと浮かれて、去年のようにはしゃいで転んで怪我をして帰ってくるものと思っていたのだがな」
「うるさい」

 腹ただしげにコートもポシェットも、靴すら床に脱ぎ捨てて、凛はいよいよ物珍しそうに新聞を脇に避けるギルガメッシュのとなりにドカリと座った。

「……ギル」
「なんだ」
「抱っこ」
「はぁ?」
「抱っこして。去年みたいに」

 顔はあげられない。代わりに駄々をこねるように、ギルガメッシュにむかって腕を突き出した。ギルガメッシュはそんな凛の仕草には目もくれず、彼女の顎をつかんで上を向かせた。

「王に物申すならば、目を合わせよ、無礼者が」
「っ……」

 凛はくしゃりと顔を顰めると、震える声で彼にすがった。

「……かったの」
「なんだと?」
「泣けなかったの。……ちっとも涙がでてこなかったの。わたし、ひどいわ。遠坂凛は心の冷たい、冷徹人間よ」
「何をやらかして、何に泣けない?」

 凛の自嘲ぎみな皮肉にも取り合わず、ギルガメッシュは淡々と問いを投げるばかりだった。彼は大抵のワガママは王の寛容と称して許してくれるが、こういう時は凛がどれだけ癇癪を起こしても駄目だった。凛の目を捉えて離さないから、凛はとうとう諦めて、ポツリポツリと言葉をこぼした。

「きょう……今日、十歳になったから。……だからお母様を、殺したの………」

 凛の頼りなさげな告解に、ギルガメッシュは特に驚くこともなく、ただ眉を跳ね上げた。

「ほう、殺した、とな。あの女を、どう殺した?」

 凛はグッと言葉を詰まらせると、ゆっくり息を吐き出して、少しずつ言葉を続けた。

「点滴、とって、人工こきゅう器のスイッチ、きった」

 凛の母親、葵は、去年からとうとう茫然自失、生命維持を自力で行うことが難しくなって、植物状態と同じになっていた。彼女は閉じた瞼の奥で、幸せな日常の夢を見続けている。凛は今日、言峰を伴って、医師に母を人間たらしめている装置をすべて切ってもらったのだ。これ以上はもう、無理だと。

「だって私……この先、お母様がいちゃ……遠坂の魔術師に………なれない………」

 そう思ってしまったから。

 凛は絶望に深くうなだれると、もう一度か細い声で、だっこ、とねだった。ギルガメッシュは深くため息をつくと、びくりと跳ねた凛の脇の下に手を差し込む。膝にまたぐようにして乗せてやると、凛はすぐさま腕を目一杯ギルガメッシュの体に回して胸に顔を埋めた。じわりと胸元が湿っていく感覚が不快で、ギルガメッシュはぐいと凛の顔をあげさせた。

「あー、待て、顔をあげろ、タオルか何かもってこい」

 凛は跳ね起きると浴室へかけて、タオルを引っ掴むと、また走ってギルガメッシュの膝に乗り上げた。彼の胸にタオルを押し付けて、そこに顔を埋める。ギルガメッシュはよし、と頷き、凛の頭を撫でてやった。あんまりだとは凛も思うが、もうギルガメッシュのこの手の潔癖性には慣れっこだった。

「っ、ぅ、ひぅ〜〜〜〜っ、う、」
「は〜〜〜、まったく貴様は、ほんっっとうに手のかかる娘よな」

 そうは言いつつも、ギルガメッシュはしばらく子供の好きなようにさせてやった。ただぼんやりと時間を潰すのも嫌いではない。凛はしばらくグズグズ泣くと、次第に疲れてすんすん鼻を鳴らすだけになった。ギルガメッシュは慣れた手つきで凛の濡れた?をタオルで拭い、アルビノの蛇のようと時折凛に言われる瞳で見下ろす。

「してリンよ、お前は言ったな? 母を殺せば一人前だと」

 確認するように聞いてやると、凛はしばらく呻いたが、次第にこくりと頷いた。
 母を死なせた事に泣いているのではない事は、ギルガメッシュにもすぐわかった。凛は失望しているのだ。そうやっていとも簡単に母の死を選択できてしまった自分に失望して、怒って泣いている。寂しく、悲しい。それでも母親を生かし続けるのは重荷だと判断し、排除するための行動に出てしまえた自分が最低で、苦しい。それでも選択を撤回しようとも思えない自分が、腹立たしい。

 ギルガメッシュは少しだけ、自分のマスターであった男の事を考えていた。
 あやつはこの娘を褒めるだろうか。この娘の冷徹さを喜ぶだろうか。

 凛の母親が、すでにだいぶ衰弱していることは言峰を通じて知っていた。遅かれ早かれ、凛は自分で望まずとも母親の延命についての決断を医師に迫られていた事だろう。けれど凛は早めた。
 ギルガメッシュはもう一度考える。この娘の父親は彼女の成長を喜ぶだろうか。

 無意味な考察だ。遠坂時臣が生きていれば、妻の葵もまた生きていただろうし、であれば凛は父親にゆっくりと時間をかけて魔術を仕込まれていることだろう。今の凛が可能とすることの半分をも、父親が生きている世界での遠坂凛はできないにちがいない。どちらの世界も一長一短。どちらにせよ、加護者のいない凛が純然たる子供でいられる時間はもうない。加え、五大元素使いという稀有な特性を生まれ持ってしまったが故に、凛が魔術師として本当の意味での大成を望むとしたら、時間はいくらあっても足りないだろう。凛はすでに遠坂家の当主であり、遠坂の魔術の唯一の担い手である。
 肉親を慈しみ世話を焼く心の柔さが凛の中の魔術師を阻むのなら、これはきっと運命で、そして必然なのだ。

 リン、と有無を言わさぬ力強さで、ギルガメッシュは凛を呼ぶ。のろのろと顔を上げた凛に向かって王の顔を作れば、凛はたちまち神妙な顔になって背筋を伸ばした。随分と懐かれてしまったと思う。彼が自分の父親の仇とも知らず、ギルガメッシュの視線一つで、凛は姿勢を変えてしまうのだ。尽くす側の人間である証拠だった。

「……子は、親から生まれても親ではない。同時に親も、自分と等しい存在を生むことはできぬ」

 当たり前すぎる言葉に、わかるな、と言えば、うん、と返ってくる。

「王にとって子とは、自らの血を繋ぎ国の繁栄を継続させる貴重な財ではあるが、同時にいずれ自分を脅かす征服者となるものだ。故にひとたび成熟すれば親にとってそれは子ではない。同胞であり反逆者であり、略奪者であり、征服者だ」

 もういちど、理解したかと目で問えば、凛はしばらくポカンとしたあと、咀嚼するように何度かギルガメッシュの言葉を小さく反芻した。
 凛は口をモゴモゴさせながら考えつつ、もう泣き止んだからとタオルをどけて、ギルガメッシュの胸に頬を擦り付ける。抱きしめてくれた父や母の匂いはもう思い出せないのに、すっかり馴染んでしまった彼の匂い。彼は変わらず凛をまっすぐ見下ろしていた。しばらく考えて、凛はそろそろと彼の顔を窺った。

「......つまり......つまり、慰めてくれてる...の?」

 ギルガメッシュは凛の後頭部をスパンと叩いた。小さく悲鳴をあげる凛の顔をあげさせて、ギルガメッシュは笑う。

「馬鹿め。……お前の選択は正しいということだ。お前が大成するために親が不必要だと思ったのなら、それは正しい。優先順位の問題だ」
「でも……でもふつうの人の優先順位に、親のいのちは入ってないわよ。だって……あたりまえの、ことだもの……」

 凛はまたも悲痛な顔を作って、ソファに寝そべってギルガメッシュの膝に顔を埋めた。彼は何を言う、と軽快に笑い飛ばして、彼女のリボンを解いていく。リン、と甘い声で呼んでくれる彼に応えないわけにはいかなくて、凛は笑われて赤くなった顔のままで彼を見上げた。

「お前はこの天上の王たる我に侍ることを許された身なのだぞ。それを、地に這う凡俗どもと同じでいたいと言うのか?」
「……ギルは……」

 凛は髪をかき回す王を見上げると、ほんの少しためらって、

「……どうして私といっしょにいてくれるの?」

 小さく、視線を外して尋ねた。
 ギルガメッシュはやんわりとその問いを躱して、凛をそっと抱き上げた。

「……子はすべからく国の宝だ。凛、よく食べよく遊べよ。つまらん大人にならぬようにな」

 足取りから凛の寝室へ向かっていることがわかる。泣き疲れた凛を運んでやろうとしてるのだろう。欲しい答えは得られなかったが、それでも、ギルガメッシュが彼なりに凛のことを大事に思っていてくれていることはわかったので、今はもうそれでいい。凛はすっかり安心して、背を撫ぜてくるギルガメッシュにもたれかかって、目を閉じた。

 お父様もよく、こうして私を運んでくださったかしら。



6 



















 ハーブの香りたゆたう湯船の中で、凛はファーストキスを王に捧げた。


 呼ばれて、振り向き、合わさって、離れる。たったこれだけのことに、世の女の子たちは切ないほどに胸を高鳴らせるという。
 凛にもそういう気持ちはあると思う。唇がふれあい、しっとりと溶け合う。たったそれだけの事が、たまらなく気持ちいい。暖かな毛布に包まれて、少し熱いくらいのホットチョコレートを舌で楽しむ、そういう心地よさがある。

「……ギル」

 勝手に、一人でに、満足すれば、彼はさっさと離れていく。まるで糸くずを払ってやった、そういう気安さで彼は触れる。
 凛は何とは無しに彼を見つめるのに。触れられた唇を、無意識にそっとなぞるのに。



6 Kiss to Kiss



 12歳5ヶ月、21日目。
 ギルガメッシュが、凛の唇に触れるようになった最初の日付けを、凛はきちんと覚えている。
 凛が初潮を迎えたちょうどあの日だ。

 そしてその日から、ギルガメッシュは凛の扱い方を変えた。女の開花を寿くように、彼は、そう、例えるなら紳士的に。あるいは、優しくなった。
 凛がおろしたての服で出かけようといえば、彼もそれに倣って衣装を改めた。凛が段差を降りようとすれば、当然のように手を差し出した。街でヒールの高い靴に苦心すれば、彼はそっと肘を曲げた。数え始めればきりがなく、幼い頃憧れた、父が母にするような数々の気遣いを、ギルガメッシュはして見せた。彼にとって、それは気遣いでもなんでもなく、当然のことなのかもしれないし、はたまた只の気まぐれなのかもしれない。それでも、凛を山猿と罵っていたことなど嘘かのように、彼は凛を淑女として扱い始めたのだ。

 不遜な物言いは変わらない。あいからわず凛の料理にはすぐケチをつける。凛の後頭部をすぐ叩く。傍若無人さは未だ健在だ。
 正確には、彼は凛の振る舞いを手助けするようになったという方が正しい。
 凛が少し背伸びした靴を履き始めてから。レースに可愛らしさより、優美なものを求め始めてから。朝、少しだけリップを塗るようになってから。
 彼女が少しずつ、砂浜を踏みしめていく慎重さで、登り始めている大人へのステップを、ギルガメッシュは手助けしている。彼が女を美しく見せる方法をごまんと知っているだろうことはその頃の凛には想像がついたし、実際彼は時折凛の振る舞いを腰にそっと手を当てるなどして矯正した。
 その様子を、綺礼に笑われたことがある。

「まるで調教されているようだ、凛。いいように作り変えられているな」

 嘲るように言われたそれを、凛は無視した。凛に八極拳と中華料理を仕込むぐらいのことにしかこの男は精を出さない。凛がなりたい一人前のレディに近づく手助けを、これっぽっちもしてくれないのだ。彼にそんな素養があるかどうかは別としても。
 今の凛には、毎年二つのプレゼントが届く。
 一つは綺礼から、相も変わらず同じものを。
 一つはギルガメッシュから、様々なものを。

 ある年は香油を、ある年はネックレスを、ある年はドレスを。
 綺礼の言うまま、いいように作られている自覚はある。彼好みかはわからない。
 毎年毎年、驚くほど凛にぴったりなものを、ギルガメッシュは贈る。


 悪い気はしないのだ。
 一体どういう風の吹き回しで、とはじめ思ったことは否めないが、彼が凛の一人前への道標として付き合ってくれているのは確かだ。大人への第一歩を認めてくれている、そんな気がする。
 そのことを思うだけで、一人で対処するはずだった初潮の諸々に、ギルガメッシュを巻き込む羽目になった時の羞恥が和らぐ。

 なら、これは愛だろうか?

 男が少女に口づけをするのは、どう考えたって愛に違いないと人は言うのかもしれない。
 かくいう凛こそ、人並みのロマンティシズムは持ち合わせているし、ギルガメッシュのような一見王子様然とした見た目の男に口づけられることが、どれだけドキドキするだろう事は、想像するに難しくなかった。
 事実、ギルガメッシュが初めて凛にキスをした時、彼女の胸はうるさいくらいに高鳴った。

(...でも、違うんだろうな......)
 何回目かのキスを経て、凛は口づけられる肉体的な心地よさに目を伏せながらも、そう考えていた。
 ギルガメッシュのそれには欲がない。凛への愛情が透けてこない。
贈り物にも、口づけにも、ペットに餌をやっている、そんな気楽さが見て取れるような気がした。



 ーーーいいや、逆だ。



 贈り物は彼なりの補填だ。凛が彼に与えているのだ。ギルガメッシュはキスをするたび、凛の一部を食べている。


※※※

 あの日、ハーブたゆたう湯船の中で、凛はファーストキスを王に捧げた。

 体が文字通り花開いた凛にとって、頼れる男は彼しかいなかった。真っ赤なシーツの上で打ち震える凛を、抱き上げて、彼女を湯船に入れてくれた。鎮めの薬草を湯にも気にも溶かした柔らかな空間で、凛の開花を歓迎したのだ。
 女の魔術師にとって、月の開花はそのまま魔術の本流の開花だ。
 凛の胎内を中心として、まだ芽吹いたばかりのみずみずしい魔力が湧き出しているのがわかった。それは鮮やかながらも奔流として凛を襲い、びりびりと肌を焼く感覚を凛は震えながら受け止めた。肩まで浸かり、薬草を口元に当てて細く長く呼吸をする。凛の中を駆け巡っていた魔力の流れは次第に大きく、一つにまとまっていく。どこかに出してしまいたかった。この魔力の新芽は、いつかきっと凛を助けてくれるだろう。そう思って、凛はバスタブに腰掛けたまま、絶えず凛を見下ろしていた男を見上げた。ルビーを頂戴。そう言いかけて、

 凛の感覚は鋭敏になった。


 身を屈めたギルガメッシュの唇が、凛のそれに合わさった。合わさって、離れて、なぞられて、合わさる。硬直する凛に笑って、彼女の頬を撫でると、ギルガメッシュは合わせた唇を離してそして、吸った。


 先ほどまで確かにあった、はち切れんばかりの魔力が消えた。

 そしてギルガメッシュから、何かが切り離される音を聞いた。

 彼は凛の新芽を吸ったのだ。

(ああ、ギルガメッシュ、やっぱり)

 抱えていたものをごっそり取られて、凛は放心しながら彼を見上げた。
 ギルガメッシュの瞳が、赤く、淡く、蠱惑的に。凛の一部を喰らって、満足そうに。細められて、光って、そこには確かな歓喜があった。凛の唇をもう一度吸って、魔力の残滓を吸い取られた。そしてまた一つ、ギルガメッシュから小さな何かが切り離された。

(やっぱり、あなた、サーヴァントなんだ)

 凛はようやく目を閉じた。
 ぷつり、ぷつりと、ギルガメッシュから小さなものが切り離される。彼を地上に繋ぎとめていた、若く力強くそして痛々しい魂の奔流。それらが切れていくたびに、彼の輝きが増していく、時折目を開けて確認するたびに、そういう錯覚が凛にうつった。自分の一部が、彼の一部となって溶けてゆく。

 一つになりたい。


(わたしがあなたの、マスターになりたい)




7 



















7 Surprise, Surprise

 早朝、言峰の教会から帰ると、ギルガメッシュはすでに起きていた。それ自体は特別珍しいことではない。重要なのは、こうして朝から機嫌の良さそうなギルガメッシュの相手をするのは凛であり、場合によっては我儘であるそれらを叶えてやるのは、凛に限らず誰にだって、骨の折れる作業だという事だった。

 おはよう、と凛が言うと、よい朝だな、と彼は言う。王様にとって、それは「おはよう」だとか「きっと今日もいい一日であることでしょう」と同意の返礼らしかった。彼の定位置となってしまった居間の一角は、暖かな朝日が入るので凛も気に入っている。

「済んだのか?」
「ええ、滞りなく」

 凛は目で手招きするギルガメッシュの目の前までいくと、言われるでもなく左腕を出した。ギルガメッシュはそれを柔らかく手繰り寄せ、凛の袖を捲りあげた。所々、痛々しく血の滲んだ、赤黒い刺青がそこにあった。まさしく彫りもの、といった風のそれは、まだまだ体には馴染まないだろう。ギルガメッシュが指の腹でそうっと、触れるか触れないかの距離で新しい傷をなぞると、凛の眉がピクリとはねる。

「汚い傷だ」
「……もうちょっとすれば身体に馴染むわ。そうすれば魔力を通してのみ発現するようになる。それまでには痛みもひくわよ」
「そうか」

 汚い、と言われては気分も悪いが、この男の物言いに凛はすっかり慣れっこだ。汚いという言葉がそのままの意味を持っているわけではない事くらい、もうわかっている。ギルガメッシュは凛の袖をおざなりに元に戻すと、バサリと朝刊を広げた。つくづく変なところで俗世に染まって、所帯染みた男だ。

「して凛、我は腹が減ったぞ。朝餉の用意だ」
「私の話は聞こえなかった? 腕が痛いって言ってるのよ」

 凛はそれでもブツブツと文句を言いながらキッチンに向かった。ギルガメッシュが付いてきて、ダイニングテーブルに着席したのが音でわかる。エプロンを身につけ、冷蔵庫の中を覗き込む。ギルガメッシュが花瓶をはじいて遊ぶ音でばかりが響いて、凛は憤慨したように背後に文句を放った。

「たまにはあんたが何か作りなさいよ、料理できるの知ってるんだから! この間だって、冷蔵庫の中身減ってたの、ちゃあんと把握してるんだからね」
「必要以上の労力は割かぬ主義でな」
「もうっ」

 凛はふたたび冷蔵庫の中を見る。一度くらい、食べてみたいものだ。王様特製のヤサイマシマシ、チャーシュー二倍煮卵三つのとんこつ味噌ラーメン。捨てられていた乾麺の袋とごっそりなくなった野菜と卵、使われた味噌の痕跡に、夜中に帰ってきた凛はお腹を鳴らしたものだった。
 冷蔵庫には大したものは入っていない。葉のしなびた野菜が少しと、卵とほんの少しのハム。お米があれば適当に炒飯といきたいところだが、あいにく冷凍もなければ炊く米もない。

「……パンケーキでいいかなぁ」

 卵に牛乳、ベーキングパウダーと小麦粉。パンケーキミックスなんてものは無い。これならば混ぜて焼くだけだし、疲れて気力のない今朝はちょうどいいだろう。甘いのとは別に塩気を効かせて、ハムとレタスとスイートチリソースでもかけて出してやれば、見た目に反してよく食べる王様の胃は満たされるはずだ。そう判断して、凛は手際よくワークトップに材料を乗せていった。


 …...重い。

 生地を混ぜようと右腕に力を入れると、知らず左腕にも力が入ってしまって酷く痛む。
 凛は諦めて銀のボウルをワークトップに置くと、背後でいつのまにか淹れたコーヒーと一緒に新聞を読むギルガメッシュを振り返った。


「……ギル〜〜」
「なァんだその甘ったれた声は。我は手伝わんぞ」
「ええ〜〜……いいじゃない、ねえお願い」
「嫌だ」

 にべもない。が、諦める凛でもない。伊達に長く、一緒に暮らしていないのだ。
「ザックリでいいのよ。あんまりきっちり混ぜないほうがフワフワに仕上がる、ってテレビでいってたじゃない。ちょっとだけ手伝ってよ」
「…………」

 ぴくり、とギルガメッシュの気分が手伝う方向に上向いたのがわかった。ギルガメッシュはどうも俗世的というか、手の届かぬ天上の王である事に揺るぎない矜持を持ちながら、道端のワゴン車で売っているクレープやたこ焼きなんかがお気に入りだったりするのだ。平日の昼にやっているようなワイドショーも大好きで、井戸端会議に出没するような会話のネタは網羅していると言っていい。凛がいま作っているパンケーキのレシピだって、テレビで見たのを食べたいというからメモにとったのだ。ちなみにいつの頃からか居間に鎮座していた大型の極薄液晶テレビに、凛は触れることを許されていない。隣に座って鑑賞することは許されている。

「このままじゃザックリどころか、材料が混ぜ合わさらないわ。スフレみたいな分厚くて柔らかいのと、ガレットみたいな薄いやつ、おかず用に焼いてあげるから」

 むっすり、という表情を隠しもせずに、ギルガメッシュは立ち上がる。のしのしと歩いてきて、彼は二つのボウルに分けられたタネを見遣った。

「こちらがふわふわか」
「うん。ざっくりでお願い」

 小脇にがっしりとボウルを抱き込んで、ギルガメッシュの強靭な右腕がザックザックと泡立て器を振るう。一つ頷いて、もう一つのボウルへ。

「いい加減、ハンドミキサーを買え」
「消耗品になってもいいなら、買うわ」
「……」

 ギルガメッシュはちらりと、凛の手を離れたミキサーが豪快に空を舞って、ギルガメッシュの頭上で、クリームやら何やらを撒き散らす光景を想像して、そっと首を振った。この娘に機械を与えてはならない。ジェネレーションギャップどころではない年月も前の時代に生きていた自分が、バイクの修理までできるのに、どうしてこいつはこうなのか。

「ウィスクをよこせ」
「ちょっと待って、今こっちの生地をっンン、いだい〜〜」

 泡立て器についた生地ををガンガンボウルに叩きつけている。その度に痛い痛い喚くので、ギルガメッシュはそれを凛から奪った。腹が減っているのは彼の方だ。手伝わぬ楽よりも腹を満たすのが優先される。

「もう焼くのか?」
「うん、こっちの方は時間かかるから、もう焼いちゃう。ギル、二枚食べる? 分厚いの」
「食べる。これは入念に混ぜる方か」
「うん、そっちはおかず用だから。普通のより薄めになる」
「ふん」

 指ですくった生地を舐めてみれば、なるほど甘みが少しもない。

「いだ、いっ……こんのォ…...舐めるんじゃないわよ、こんなのっ痛くもっかゆくもっ」
「……」

 もったりとした生地をレードルですくって、フライパンに落とし込むだけでこうだ。

「彫ったのは左腕だけであろう?」
「右腕に力いれるとっ、左腕にも入るのよ、なんでか知らないけどっ! でもこんなの屁でもないわ、見てなさいよ、耐え切ってやるんだからぁ」
「馬鹿め」

 凛に任せている方が時間がかかる。薄さが違うだけで、焼く手順はおそらく変わらないだろうからと、ギルガメッシュは凛の手を見て、もう一つのフライパンを熱してバターを落とし、濡れ布巾で熱をとって、そっととろとろの生地を流し込んだ。ふつふつと気泡が弾けていき、ふちがうっすら色づいていく。器用にそれをひっくり返して、自分に三枚、凛に二枚。皿に分けて、凛に差し出した。

「できたぞ。席につけ」
「………….」

 凛は信じられないようなものを見た顔でギルガメッシュを凝視して、おとなしく皿を受け取った。彼が調理をすこし手伝うくらい、初めてのことではないのはずなのに。席に着く彼の前に皿を置いて、冷蔵庫からハムとレタスとソースを取り出す。カトラリーも用意して食卓にだせば、ギルガメッシュはさっさとレタスとハムを乗せ、ソースをかけて食べ始めた。

「いただきます」
「いただきます……」

 食べる前の礼儀作法は、凛が年月をかけてギルガメッシュに仕込んだものの一つだ。凛は自分の皿に乗った、きつね色の綺麗なまんまるのホットケーキを見た。のろのろと自分もハムとレタスをのせて、塩コショウをかけて切り分ける。頭の隅で、ふわふわは、あと10分。そんなとりとめもない言葉がよぎる。

「……うわ、おいしい」

 はからずも王様の手料理……のようなものを食べてしまった、そんな中学三年の、ある日のこと。




8 



















8 King and Kitty cat


 ふう、と息を吐く。
 首にかけたリボンはそのままに、襟を直し、袖を、裾を、スカートを、ストッキングのたるみを直して、靴の汚れも入念にチェック。
 数日前までは二つに結っていた髪は、大部分を下ろしてみた。大人っぽく見えると思ったのだけど、どうだろうか。右に左にと体を捻って、最後に首元のリボンを結ぶ。少し不格好だが、大丈夫だろう。寝起きのまま壁にもたれかかっていた男に、ポーズを取って見せた。
「……どうかしら」


 今日は高校の入学式だ。あと少しすれば、まともな格好をした綺礼が迎えに来る。ギルガメッシュは垂れ下がった前髪をぞんざいに掻きあげると、凛の胸元を見て笑った。

「下手くそめ、どれ。貸してみよ」

 凛が丁寧に結んだリボンをさっと解いて、両端をきゅっと引っ張られる。自然と凛の姿勢が正され、首が上を向いた。ああ、いつもこうだ。そんな悔しい気持ちで、凛はそっと唇を噛む。舌に感じたリップの苦さに、慌てて止めた。
 丁寧に、けれど素早く。そんな動作でギルガメッシュは、あっという間に凛のリボンを結い上げた。凛を鏡の前に立たせ、後ろからリボンの形を整えられる。とても、綺麗なリボンだった。

「これでよかろう」

 凛が頬を染めたのによくしたのか、ギルガメッシュは満足そうに唇を釣り上げて、そのまま凛の頬に口付けた。さっと朱が走る。肩に置かれた手が少しずつ凛の体を傾けていって、とうとう向かい合わせになってしまったまま、凛は顔の様々なパーツにされるキスを受け入れた。ギルガメッシュの胸に手を置いて、そこがちっとも高鳴っていないことに、少しばかり残念になりながら。

 最後にそっと唇にされて、凛からまた少しの魔力をが吸い取られていった。淡く、爛々と、瞳が輝く。凛はそれをじっと見つめてから、そっと肩を下ろし、今日のために新調したコートを手に取った。今年は春が遅い。四月に入ったのに、まだ少し寒かった。


 いつの頃からか、ギルガメッシュは凛にキスをするようになった。子供の頃は額や頬にされてきたのが、唇にまで降ってくるようになったのは、凛が初潮を迎えてからだ。三年経った今でも、鮮明に記憶が残っている。
 それを、ありえない事として自分が認識したかどうかは、覚えていない。ギルガメッシュのやることはどれも自然で、凛に下手に記憶を残すようなことをしなかったのだ。初めて唇にキスをされた時も、ギルガメッシュにそういうものだといわれてしまえばそんな気もした。

 いつか自分は、この王様の戯れの延長線上に、抱かれたりするのだろうか。処女を散らして、身体ごと王様のものになってしまうのかもしれない。それでもいいかな、と思っていた。初めては好きな人と、なんて憧れがないでもなかったが、立場上それが叶わないことを凛は知っている。第一、凛にはギルガメッシュのことが好きじゃないかどうかもわからない。

 凛にとって、ギルガメッシュは何なのだろう、と最近よく考える。逆も然りだ。正直、凛に触れてくるギルガメッシュの手つきは犬猫へのそれだ。愛情だとか肉欲だとかは透けてこない。それが残念だと思うのは好きだからなのか。

 でも彼は、凛が密かに欲しいもの、欲しかったものをくれる。父に似た、兄に似た、師にも似た、恋人にも似た、凛が欲しい温もりを包括した存在を、彼は一人で演じてくれている。

 凛は彼がなんなのか知っている。前回の聖杯戦争における、言峰綺礼のサーヴァント。彼の「おさがり」だなんて癪だが、それでも凛は、彼のマスターになりたい。彼があの日から、キスをおするたび、凛の魔力を吸うたびに、あの教会地下の貯蔵庫から自分を切り離しているのを、知っている。どんどん彼が、綺麗なものになっていくからだ。邪悪な色が、彼の瞳から消えていくから。凛はそれが嬉しい。

 キンコン、と古臭いチャイムの音が響く。綺礼が来たのだ。凛はさっとコートのボタンを留めて、鞄を手に取った。授業はないが、なくて困ることはない。よし、と息をついて、振り返る。いってきます、と言おうとしてーーー

「ふむ」
 予想以上に近かったギルガメッシュの姿に、身が固まった。

「きゃあっ」

 声かけもなく、お尻から膝裏にかけて腕を差し込まれ、もう片方の手で足首をぐっと掴まれる。突然の浮遊感に慌てて目の前の首に縋りつけば、いつの間にか凛は、数年ぶりにギルガメッシュの体温を感じながら彼を見下ろしていた。

「ちょっ、ちょ、ちょっと、なによっ!」

 普通の抱っこでも、お姫様抱っこと言われるやつでもなく、幼いころのように片腕に座らされていた。昔と違うのは、片腕でやすやすとされていたのが、凛の体を支えるように腕肩全体を使いながら、がっちりと膝を彼の体に固定されているところだろうか。にやにやと凛を見上げてくるギルガメッシュについつい顔が赤くなって、凛は浮いた手をふたたび首にまわしていいのかもわからずに慌てた。

「な、なに!?」
「いや、な」

 ギルガメッシュは数歩下がって、先ほどまで凛が身だしなみに使っていた姿見まで移動した。長身の彼に抱き上げられても、凛が見切れるということはなく、凛の頭からギルガメッシュののつま先まで、すっぽりと全体を見渡せる。
 鏡越しにギルガメッシュを見るが、彼はふいとその視線を逃れて、凛を直接見上げた。凛もつられて彼を見下ろす。久しぶりに見た、眠れない凛を安心させるような穏やかな顔だった。

「もう抱き上げることは叶わぬだろうと思っていたが……案外どうにでもなるものだ」

 ストン、とあっけなく下される。動けない凛にかわって、ギルガメッシュは乱れたスカートと髪の毛を直してやった。

「凛」
「な、なによ」
「お前はこの我が、手ずから育てた」

 いつになく真摯な声色に背筋が伸びる。無意識に両手が前で揃った。完璧な淑女の姿勢に、ギルガメッシュの声に真剣味が増したのが肌で分かる。

「なればその新入生総代とやら、我に恥をかかせぬよう、恙無く、完璧に。勤め上げるというのが、お前の義務というものだ」
「ーーーはい」

 まっすぐに返事をした凛の表情に、ふっとギルガメッシュのまなじりが緩む。ほっと息をつくと、凛はさっと踵を返して玄関の重厚なドアを開けた。

「噛むなよ、うっかり娘」
「うっさい、ばかっ」

 声は震えていなかっただろうか。ドアを開け放して、凛は外に出た。門の隙間から、スーツに身を包んだ綺礼が見える。滲んだ涙をそっと指でぬぐって、凛は冷たい空気をゆっくり吸った。背筋を伸ばす。たおやかに、淑女のそれでもって、凛は門を開けた。



9 



















 わかっていた。
 わかっていた。
 わかって、いた。

 暗い瞳に膝が震える。
 思い上がりだ。自分が彼の特別だなんて、思い上がりだったのだ。子はすべからく国の宝。凛はもう子供ではない。ああ、つまらない、父のような人間に、成って、しまった。

 …...なんて、思えない。

 これは裏切りだ。



 ーーーひどい、裏切りだ。



9 Pride and Prejudice



「我のマスターだった男は、トオサカトキオミという、実に間抜けで、実につまらん、愉悦のなんたるかも理解せぬ、阿呆だった」

 おとぎ話をはじめるような語り口で、ギルガメッシュはなんの脈略もなく、いつもの日常の一端の、会話のひとつとして、そう言った。
 そしてその意味を理解するのに、かなりの時間を、凛はかけた。なぜならそれは、もしそれが本当なら。

 化け物をみるような目というのを、凛ははじめて、ギルガメッシュに対してつかった。

 ーーー彼は、凛の父を捨てたのだ。凛がもっとも尊敬し、親愛と敬愛を一身にささげた、最高の魔術師であった父を裏切ったのだ。見限って、裏切って、そしてみすみす、殺させた。

「……アンタ、」

 ーーーこんな裏切りがあっていいはずがない。

 凛は思わず立ち上がったが、口を開いても、なんの声も出ない。ギルガメッシュの瞳が、暗く、昏く、沈んでゆく。こんな、裏切り、が、あっていいはずがない。でも、どちらが?

 父の仇と、10年間、ーーーまるで家族のように、暮らしてきた自分。
 10年間、慈しみ続けた凛をーーー奈落の底に叩き落とした、ギルガメッシュ。

 どちらが......どちらが、裏切り者なのだろう。
 氷に閉じ込めれたように一瞬で胸が苦しくなって、燃えるほどの悲しみが凛を襲って、そして最終的には、目がさめるような怒りが、凛を支配した。


 魔術師同士において、弟子の師匠殺しは珍しくないだとか、そういう定石はわすれて、凛はギルガメッシュを睨めつけた。

「あ、あんた、よくも……よくも、そんな」

 ふるえる左腕がゆっくりと上がり、指先の照準が彼の眉間にあわされてゆく。平素なら絶対にゆるされない行為だ。凛はこの十年間、戯れ以外で、ギルガメッシュに指をさしたことも、ましてや攻撃をしたこともない。目上の人間に対するそういった行為はギルガメッシュにも綺礼にも厳しく律されてきたし、何よりそんなことをする理由が、凛にはなかったから。人に対してガンドを放ったことが、凛にはない。


「ーーーどうした、凛。我を殺さぬのか?」

 いつまでたっても魔力の収束すらみられず、ただぶるぶると震えるばかりの凛を、ギルガメッシュは楽しそうには見た。小馬鹿にしたように笑って、まるで凛の葛藤が、なんの深刻さもないように。凛を背中から、崖に落とす。凛の背中を、引き戻す。一体どちらが目的なのかわからないのに、ギルガメッシュは凛のことなんてお構い無しに、どうだ? と眉をつりあげてみせた。

「我が憎かろう?」

「ーーー憎いわよ」

 いますぐにでも殺してやりたいわ。凛は唸って、両の拳を痛いほど握りしめた。

 憎い。ーーー憎い。殺してやりたい。どうして。どうして父さんを。あんなに誇り高かった、完璧だった、マスターとして。彼以上に望むべくマスターなどいないはずだ。それなのにどうして。どうして、あなたが。

殺してやりたい。体に乗り上げて、首をしめて、まだ肌になじみきらないこの魔術刻印が擦り切れるほど酷使して、ガンドで、この10年で積み上げてきたすべてで、彼を殺してやりたい。



 ーーー殺してやりたい。



 でも。

「......ひどいわ......」

 とうとう膝の震えが止まらなくて、凛は床に崩れ落ちた。

「こんなのって、ない......」

 顔を覆う。きっとつまらなさそうに自分を見ているであろう彼のことなど、一片たりとも見たくなかった。

「殺せないわよ......。そんなの、無理よ......!」

 とめどなく溢れる涙のままに、凛は吠えた。

「わかってて聞くなんて、卑怯だわ......!」



 できっこない。彼を殺すなんて、凛にはできない。

 凛から両親を奪ったのは、確かに彼の行動の結果なのだろう。凛は7歳で独り立ちを覚えた。ひたすらに広い屋敷の中、一人分の料理を、手の届かない場所の掃除を、冬木の管理者としての役目を。孤独感と人恋しさに人知れず涙しながら、それでも歯を食いしばって生きていかなければならなかった凛の、このやるせない寂しさを作り出したのが、彼なのだ。憎くない筈がない。最低だ。卑劣で、冷酷で、酷薄だ。ーーー……けれど、それでも。

 嵐降る夜、怖がる凛を抱きしめて眠ってくれたのは彼だ。食べてくれる人がいなくて料理が上達しなかった凛の料理に、舌鼓を打って。寒い日にはマフラーを手ずから巻いてくれた。不安な時はそばにいてくれた。胸に抱き込んでくれるとき、暖かくて、ほのかな香油が優しく香って、回される腕は守ってくれているようで。嬉しいときは、いつも彼が隣にいた。踏ん反り返って、凛のことを小馬鹿にして。それでも彼は、凛を一人にしなかった。寂しいのも心細いのもすべて彼のせいだったのに、その彼が、凛の、夜ひとり眠る恐怖を取り除いてくれていたのだ。彼はどれだけ凛を馬鹿にしても、からかっても、笑い者にしても、料理を酷評しても、ぶらりと出かけても、凛を夜に一人残すことだけは、しなかった。

 ーーー必ず、そばにいてくれたのだ。



「リン」

 すぐそばで彼の声が聴こえる。10年間聞き続けた、耳を震わす、意外にも穏やかで優しい声。



「絶対に、絶対にゆるさないわ」

 首に両手をを回した。

 両親と過ごした年月をとうに越して、長く長く、凛と一緒にいてくれた彼。両親のことは、もうあまり思い出すことができないほど色あせてしまっているのに、自分を楽しそうに抱き寄せる彼のことなら、10年前のことだって覚えている。初めて出会った日の服の色。彼の好きなお酒の名前。彼の機嫌の悪いとき、どうすれば直るのか。

「ずっと恨み続けてやるんだから。一生かけて償いなさいよ、この馬鹿ーーーッ」

 ぐっと首に力をかけても、ビクともしないし、動揺もない。凛はちっぽけな存在だ。きっとギルガメッシュの気分次第で明日にだって殺される。ボロボロ流れる涙を、誰によりも沢山見せてきた。凛が何に弱いのか、彼は誰よりも知っている。凛がどうすれば笑えるのか、世界中の誰よりも、知っている。

「はな、離れたら、ゆるさないんだから。一人分のご飯つくるの、大変なんだから...っ」

 ギルガメッシュは両手で凛の頬をつつむと、10年前、雷鳴に震える凛にそうしてくれたように、今度は長く、静かに、口づけを落とした。魔力がまたも吸い取られ、とうとう、邪悪の最後の一筋が、ギルガメッシュから切り離された。自分色に染まった彼。凛のだいすきな、宝石の瞳。彼の髪一筋にまで、凛の魔力が行き渡っている。ひとつになれたのが、すぐにわかった。凛はとうとう、子供のように、声をあげて泣いた。



10



















10 With you, With me


 眼下には対立する二組。
 巨体に髪をなびかせた益荒男、優美なドレスをまとった麗人。
 控えるようにして互いの後ろに立つのは、か弱さが際立つ少年少女だった。


 遥か数百メートル先の広場でふつふつと沸き立っている闘気を感じ取り、凛はゆっくりと隣の男にもたれかかった。

「ーーー見える?」
「愚問だ」
「ごめん」

 右に立つ、身長差の大きい主従を指差す。

「ーーーあれが、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。相手にとって不足なしよ」

 遥か数百メートル先の光景のなか、ひときわ輝く銀色の髪の持ち主を、凛は見つめた。強いのがわかる。魔力回路は常人離れした凛より多い。一体どんな魔術を仕掛けてくるのか、想像もつかない。それでも負ける気は、起こらない。

 同様の考えを持つ金色の王は、悠然とその言葉に頷いた。

「だが、聖杯戦争はまだ始まっていないのだろう?」
「ええ。7騎のサーヴァントが召喚されるまで、聖杯戦争の正式な戦いは認められていないわ。綺礼の話じゃ、まだサーヴァントを喚び出していないのは私だけということよ」

 それぞれの魔力反応は、すでに此度の聖杯戦争にて監督者を務める綺礼が察知し、妹弟子のよしみで教えてくれた。ご丁寧に、のこった一つのクラスまで。そんな事は聞かずとも、ギルガメッシュが何なのかなんて、凛には見ずともわかることだったのに。

 怜悧で張り詰めた、美しい冬の空気だ。すう、はあ、呼吸をして、口を開く。

「……ギル、手を握ってもいい?」

 返答を待たずに、凛は隣の白い手を握った。一見細くて、苦労を知らなそうな優美な手。握ってみれば節くれ立って、たくましく頼れる男の手だ。この手に導かれてここまで来たと、今は素直に思う。

 息を吸い、凛は謳った。

「ーーー素に、銀と鉄」



 ーーー涙が出た。

 10年だ。ここまで10年、両親や妹と過ごしたよりも長い年月を、たった二人で、この愛しい裏切り者と歩んできた。

「礎に石と契約の大公。祖には我が大師シュバインオーク……」

 未だに許すことはできそうにない。父のことを想うだけで涙が出る。きっと死ぬその瞬間まで、裏切られることなんて微塵も考えていなかったであろう、純朴に魔道に一途だった父のことを。その死を作ったのがこの男だ。誇り高き父を詰まらないと断じて、父を捨ててーーー何を思ったかその娘と暮らし始めた、最低な王様。

「降り立つ壁には風をーーー…...」

 それでも、凛はもう一人の人生が想像できない。この先一生孤独でいいと覚悟を決めたばかりの、凛のまだ柔らかかった幼い心に、乱暴に玉座を据えてしまった彼なしの人生なんて、どうやって送ればいいかわからないのだから。

「ーーー告げる」

 どうして一緒にいてくれるのか、未だにわからない。ギルガメッシュは凛を抱きしめて、キスをして、同じベッドにもぐりこむ。それでも凛をどう思っているのかは見えてこない。

 ギル、私のことどう思ってる?
 何度その問いを飲み込んだだろう。

 ギル、私のこと好き?
 となりで眠る彼の寝顔に、なんどそう問いかけたか。

 ギルガメッシュは王様だ。心と頭と身体を切り離す生き物。かろうじて心と頭は切り離せても、身体だけは心についていってしまう凛は違う。

 子供の頃から知っている。凛を寝かしつけ、おでこにキスをしてくれるギルガメッシュの優しい顔の裏で、彼は様々なことを考えていた。凛にはきっと想像もつかないような物事を、想像もつかないようなスピードで。

 裏切られないなどどうして信じられるだろう。彼は絶対であったはずの父を、凛の最愛の人を裏切ったのだ。凛のことだって、きっと、いつか。

「汝の身は我の下に、我が命運は汝の剣に。聖杯のよるべに従い、この意、この理に従うのなら、……英雄王、私のギルガメッシュ、」

(でもいいわ。裏切ってもいいわよ、ギルガメッシュ)

 凛はギルガメッシュの胸に飛び込んで、背に腕を回した。

 ギルガメッシュの腕がそっと上がる。いつかの日のように、頬を包んで持ち上げられた。彼の真っ赤な煌めく瞳が、柔らかく凛を見下ろしていた。

「誓おう。汝の生涯を我が血肉と成す。遠坂凛、我がマスターよ」

 満足そうに頷くギルガメッシュの顔が、どことなく嬉しそうに見えるのは、きっと凛の願望だ。 凛は目一杯伸び上がると、その意外にも逞しい首に手をかけて、はじめて、自分からキスをした。はじめて、自分から魔力を与える。離れて目を開けた時、ギルガメッシュは啄むようにキスを何度か返して、溢れる涙を舐めとって、凛の髪を撫で、初めて一緒に寝た嵐の夜みたいに。手の甲がわずかに熱を持つ。手に触れる感触が、彼の肉体ではなく鎧を伝える。王にふさわしい、冷たく輝く黄金の鎧だ。表情を隠す前髪が、風にあおられ逆立った。どんどん形作られていく王としての彼に、渦巻いたのは歓喜と誇りだ。自分は彼のものだという、プライドが湧き上がった。

 恋か、親愛か、敬愛か、わからない。でもこれは喜びだ。どんな形でも愛されている。一緒にいてほしいと、心から思う。

(いっしょにいてね。裏切っても殺してくれても構わないわよ。気づかぬうちに私の中に入ってきたみたいに、気づかぬ間に出て行って。ーーーでもその日までは、ずうっと一緒)

 体を離すと、すでにギルガメッシュは金の渦をいくつも展開させて、臨戦態勢に入っていた。良い心がけだ。凛が手を出せば、心得たようにいくつもの最高の宝石が渦から出てくる。イリヤスフィールは既に、こちらを睨みあげていた。

「行くわよアーチャー! 聖杯は私たちの物なんだから!」





カネは物理の相性EX陣営、はじまりはじまり。

2016年8月28日