いくら統道学園執行部といえども、四六時中戦っているわけでもない。時には高校生らしくハメを外して遊ぶ事もなくはない。現にこうしてやってきた修学旅行だって、(もちろん何も起こらないわけがなかったが)皆それなりに楽しみ、今など五十鈴以外の全てのメンバーが酔いつぶれている。
その中で一人立ち上がった光臣は、静かに自分の部屋へと戻った。十人程度ならば雑魚寝をしてもまだ余裕のできる広い部屋ではあるが、光臣一人の貸し切りである。その足で脱衣所まで向い、曇りガラスで覆われた扉を開け放てば、備え付けの広々たした露天風呂が姿を見せた。空には満天の星、そして三日月。視界の端に揺れる冬椿さえも美しくて、光臣はほうと息を吐いた。
しばらくそうしたまま立っていれば、白く立ちこめる湯気の向こうにほんの微かの人影が見えた。警戒して目を凝らせば、あちらも光臣に気付いたのだろう、ゆっくりと顔をこちらに向け、僅かに身を浮かべた。
「「―――・・・・・っ!!」
そして、光臣が見たのは、

「み、光臣・・・っ」
「真、夜・・?」


―――かつての恋人、そして今も尚想ってやまない、真夜。

何故ここに彼女がいるのか、光臣には分からなかった。けれどそれは真夜にしても同じ事だったようで、彼女もそのつぶらな瞳を大きく見開いて光臣を凝視している。そうして二人して裸に近い格好で見つめたってしばらくして、ふと我に返った真夜が光臣の、腰にタオルといういかにも寒そうな格好を見て、ほんの少し目をそらして呟いた。
「・・・とりあえず、入ったらどうじゃ。そこでは冷えるであろう」


ざっと体を洗い、真夜とは少し離れた場所から湯に浸かった光臣は、説明する為に待っていたのだろう、俯いて湯の表面ばかりを見つめる真夜にとりあえず声をかけた。
「・・・ここは、俺の部屋専用の湯船だったはずだが・・・」
「・・・儂の部屋に備え付けの露天風呂の一角に、小さな木戸があってな。空けてみたら狭いが支流が流れておったものだから、進んでみたらここにたどりついた。」
ほら、と指差された方向を見れば、確かに湯気で見えづらくはあるが、小さな木戸があった。真夜に近づいてよく木戸を見れば、本当に小さなそれは別にダムの役割をしているわけでもなく、本当にただ仕切っているだけなのだろう。ただその先に程よく長い支流が続いているという事を聞くと、どうやら互いに行き来する為に作られたわけではないらしかった。
「・・・こちらの見晴らしの方が良かったものだから、つい長居をしてしまってな。済まぬ、すぐ戻る」
そういってふいと視線を外し、湯船の中を進もうとした真夜の腕を、とっさに掴む。驚いた真夜の瞳に驚いた自分自身の顔を見て、光臣は気まずげにゆっくりと腕を放した。本当に、何も考えずの行動だった。けれどその手はゆっくりと白魚の様な指先をとり、そしてゆっくりと引き寄せた。
「・・・いればいい。もう遅いし、今からまた移動すれば冷えるだろう」
「じゃ、が・・・それ、は」
ほんのりと、真夜の指先に熱が籠る。少しだけ赤く染まったそれは、湯によるものではないのだろう。頬にも少し赤みが差したのを見て、光臣はどうしようもなくそれが愛おしくてたまらなかった。こんな事、今の二人に許された事ではないと分かっている。わかってはいた、けれど。
「・・・いてくれ」
そうか細く、懇願するしかなかった。



ほんと



「なんとも、綺麗なものじゃのう・・・」
「・・・そうだな」
少し体を傾ければ、真夜の小さな頭は光臣の肩に乗ってしまうくらいの、距離。二人は隣り合わせで頭上の椿を見上げながら、ぽつりぽつりと言葉を紡いでいた。
どちらかが言葉を発せば、それが一瞬響いた後に相手がそれを返し、また少し間があけば鼓の真ん中をポンと叩くように、どちらかの声がこだまする。そんな会話を繰り返しながらも、真夜はひたすら自分自身の右手に集中していた。先ほど光臣に掴まれた、その手。今は湯に沈んで見えないけれども、お互いの小指だけが、重なって底に置かれている。
「椿の花言葉は、なんであったか・・・」
続かない会話がもどかしく、思いつくがままに言葉を紡ぐ。くだらないそれでも光臣は返事を返してきて、どうか終わりませんようにと火照った頬を湯で誤摩化しながら真夜はねがった。
「・・・俺は詳しくは知らないが・・『気取らない美しさ』だとかな」
「『高貴な理性』もそうじゃったのう」
ぽんぽんと続く会話が嬉しい。次の言葉を心待ちにしていれば、返ってきた声は詰まっていた。
「後は・・・」
早く言って。
「・・・後は・・なんじゃ、光臣」
―――早く、声をきかせて。
「・・・『申し分のない愛らしさ』」
低く深い声が辺りに響いて心地がいい。さてなんと返そうかと真夜が光臣を見れば、彼は笑って真夜をみていた。

「まるでお前のようだ、真夜」
「っ・・・」

かああ、と顔が真っ赤になっていくのがわかる。真夜を見てくる光臣自身も少し照れているようで、それが余計に真夜を浮き上がらせた。
「ゆ・・湯にあたったのであろう・・・水を」
慌てて近くにあった盆を引き寄せれば、光臣が苦笑した。笑われた。悔しくて眉を寄せた。
「湯にあたった、か・・・はは、そうかもしれ、な・・・っ」
不自然な途切れ方をした光臣の言葉に、真夜が振り向く。見れば光臣は目を見開いたまま口を手で覆っていて、その隙間から赤が滲んだ瞬間、真夜の行動は早かった。
「っ・・・」
「・・・!み、光臣・・・っ!」
すぐさま隣の桶を引き寄せる。湯のふちぎりぎりまで引き寄せた桶を光臣に差し出せば、光臣は勢い良くその巨躯を傾けて桶に顔を埋めた。上下する肩は忙しなく、聞こえてくる息は荒い。
「・・っか・・・はっぁ、けほっ」
「光臣・・・光臣、しっかりしろ・・・」
一生懸命に真夜が光臣の背をさする。こほこほと連続的に吐き出される血はどす黒くて、真夜は涙が滲むのをとめられなかった。
「光臣・・・光臣、光臣・・・」
敵対するようになった2年前から、こうなった光臣の体の為に泣いた事は一度としてなかった。なのにいざこういう場面に遭遇してしまうと、涙が止まらない。さすっていたはずなのに、いつの間にかすがりつく様に光臣の肩に頭を押し付けて真夜は震えていた。こんな状態の光臣の傍を離れて敵対する事を決めたのは真夜自身なのに、たとえ一瞬でも後悔してしまう。こんな屈強な男が、刻一刻とその命を削られていっている。惨めで悲しくてやるせなくて、真夜は光臣の咳がいつの間にか止まっていたのにも気付かなかった。光臣が淋しそうな目で真夜を見ている事に、気付かなかった。
「・・・・真夜」
ゆっくりと肩をつかまれて顔を上げれば、苦渋に満ちた顔の光臣がいた。きょとんとして見上げていれば、苦笑と共にくしゃりと頭を撫でられた。
「もう平気だ・・・すまない」
湯を口に含んですすぎ、近くの排水溝に吐き出す。それを数回行ったあと、まるで何も起こらなかったかのように、光臣がまた真夜の隣に静かに座り込んだ。先ほどと違う事といえば、止まらぬ真夜の涙くらい。なんどもバシャバシャと湯を顔にかけて誤摩化そうとしているのに、それは一行に止まる事がなかった。その様子を見ていた光臣が、静かにゆっくりとため息をこぼす。
「・・・・頼むから、泣き止んでくれ。お前に泣かれると弱いんだ、俺は。昔から」
ハッとして光臣の方へ振り向けば、苦笑している光臣がいた。先ほどから見せられている、その表情。もう見る事等叶わないと想っていた、その顔。固まって惚けたまま見つめていても、涙だけはとまらないらしい。光臣がその大きな手で優しく目尻を何度も拭っているのに、どこからくるのかそれは溢れてばかりで枯渇しなかった。
「――――・・・・お前の涙を止めたくて強くなろうと決意したのに・・」
くしゃ、と光臣が髪をかきあげた。それは、真夜に顔を見られないようにしているようにも見えた。

「結局俺は、お前の笑顔を奪う役目か・・・・」


ひどく傷ついた顔で言われて、真夜はとっさに否定した。涙は止まっていた。
「ちが・・・違う、光臣、ちがう・・」
止まったはずなのに、また溢れてきた。
「儂が一人で弱っちいだけじゃ・・・おぬしは何も悪くない・・!」
まるで光臣が一人に見えて、真夜は体当たりでもするようにその胸に飛び込んだ。太い首に腕を廻し、ぎゅうとしがみついて否定した。願った。
「お主の所為等ではないのじゃ・・・・・そんな、そのような事を言うな」
もう涙など止まらなくてもいいと思った。しゃくり上げては嗚咽を漏らして、真夜は光臣の心臓に額をこすりつけた。
「真夜・・・」
冷気にさらされ、ブルリと震えた真夜の肩を、光臣が閉じ込めた。隙間を埋め尽くすように掻き抱いて、その頭に鼻先を埋めて、光臣もひたすら真夜を呼んだ。
「真夜・・・真夜、・・まや」
泣いてほしくなどない。それは光臣の絶対的な本音で、そして願いだった。真夜が笑ってくれるなら何だってする、そういった昔の自分が脳裏によみがえって、光臣は更に力を込めた。今の自分は、何一つできていない。『俺が真夜の涙を止める』、そう思って強くなる決意をしたというのに、今の自分は・・・真逆の事しか、していないではないか。
もちろんそれは、光臣自身が覚悟していた事であるし、それどころか真夜との未来全てを犠牲にしてでも成し遂げなければならないものがあると信じていたから、苦ではないはずだった。現に自分はこの2年、それを着々と成し遂げてきた。なのに、彼女の涙を久々に見ただけで、この有様だった。なんの覚悟だと、自分をののしってやりたかった。

ふと、真夜が光臣の心臓に耳を当てて目を閉じた。
・・・トクン、・・・トクン、・・・トクン、
「穏やかだな・・・」
真夜の涼やかな声が、脳に響く。鍛えられた光臣の体は普段人よりもむしろ遅いスピードで鼓動を刻む。それはどのアスリートでも武人でも同じ事だ。
「とても、穏やかで・・・優しい心音だ・・・・・・」
けれど一度戦闘になれば、光臣の鼓動はその四倍もの早さを刻む。毎分200などというでたらめな数字が、この男を苦しめている。
「こんなに優しい男が、死ぬのか」
結局涙は止まったけれど。けれど一筋くらいはと、真夜は一滴涙を流した。

「―――やるせないよのう・・・・」



しばらくそうしていると、真夜がゆっくりと顔をあげた。その目元は赤くて腫れぼったかったけれども、それでも真夜は笑ってみせた。
「・・・済まぬ。もう平気じゃ」
そう言って光臣から離れようとしたけれども、光臣はその肩を離さなかった。その力があまりにも強くて、真夜を見つめてくる光臣の瞳が、愛おしくて。まるで身が引き裂かれるかのように苦痛だったけれども、真夜はゆっくりと自分のより一回りも二回りも大きい光臣の手をはがした。
「・・・・光臣」
そのまま彼に背を向けて、けれど真夜は手を離さなかった。
「今は、意地もあるし、見栄もあるし、お互いに成し遂げられなければならぬ事もあるし、でも・・・・・・・・」
真夜の声は震えていた。かすかに覗く耳は赤くて、光臣は掴まれている手を逆に握り返した。びくりと震えて、けれどそれに後押しされたかの様に真夜は残りの言葉を紡いだ。
「・・・・・でも、・・もう少しして、全ての決着が付いて、戦うのにも疲れて、お主も儂も生きていたら・・・」
真夜がごくりと唾を飲み下して、緊張に荒くなる息を押さえて、胸元を握りしめて吐き出した。
「そうしたら昔の様に戻れるか?」
光臣が、その言葉に息をのんだ。ゆっくりと手を引っ張れば、抵抗する事なく真夜は振り向いた。前髪に隠れてその表情は見えなかったけれど。

「・・・・お主の腕の中に、」
次の瞬間ゆっくりと顔を上げた真夜はまた泣いていて、でも美しくて美しかった。2年前、真夜に誓いをたてた時―――慎に後ろから刀を突きつけられたときの、真夜の泣き顔そのものだった。やるせなくて淋しそうで切なくて、そしてなにより愛おしさばかりが滲んでいた、あの美しい顔だった。
「・・戻っても、よいか・・・?」
「真夜・・・!」
どうしようもなくて引き寄せた。頬を包んで唇を重ねて、何度も何度も名前を呼んだ。愛を押さえられるはずがなかった。
「まや・・真夜」
「みつ、みつおみ、」
なんども何度も口づけをかわして、角度を変えて、お互いの顔に涙が付いて、けれど二人はそれによって出来た距離すらも埋めるかのように再度深く唇を繋げた。離さぬ様にと真夜が光臣の首に腕を廻して、離れぬようにと光臣が真夜の首を押さえて腰を抱いた。
「は・・・ん、みつ、おみ、・・・っ」
「まや・・・っ・・まや」
夜が明ければまた、二人は敵対関係に戻るのだろう。血を流して涙も流して、でもそれでも今宵の記憶と熱は忘れはしない。
いつの日かまた何の隔たりも無く愛し合える事を夢見てお互いを感じた、今宵の事を忘れはしない。



この果てしない戦いが終わったら

2011年8月23日 (2010年9月17日初出)