田島が寮生活をやめて阿部との同居生活を始めた。というより、田島が転がり込んだに近い。けれど阿部はそれを全面的に受け止めて、穏やかに強かに田島を支えている。高校を卒業してすぐにプロになった田島は、仲間にまだすこし大人になり切れていないと言われる。それは考え方であったり物事の受け止め方であったり、処世術だったりした。小さな豆台風の様だったこの男は図体は大きくなり、能力も技術も比例してぐんぐんとのびたけれど、一足早く社会に出たその精神はまだ高校時代が抜け切れていない様にも思えた。阿部と暮らし始めてから田島はよく言う。プロになった事を後悔した事は一度もない、けれど大学を卒業してからなればよかった。高校卒業後、誰もがすぐにプロになると思われていた榛名は予想を裏切り大学野球に進んだ。だから榛名はプロとしては田島より三年も後輩だ。けれど榛名は期待通りの活躍をみせ、マスコミや女性関係で社会の荒波にもまれた後はいつの間にか可愛い奥さんをもらって最近はおめでたで、公私ともに充実して満たされた、バランスのいい生活を送っている。
田島が自分の体に不調を見いだしたのは丁度その頃だ。シーズンオフだったため、毎日の様に早朝から走り込みをし素振りをし、という生活を送っているうちに、万全である筈の自分の体が全体的にだるいと感じ始めた。今まで全球ミートし、外野まで運んでいた豪速球を何度も空振りし、しまいには頭痛までする様になる。それは一日休めば何とかなったが、次第にイライラとストレスが田島を蝕むようになっていった。そんな時に衝動的に彼が尋ねたのが、阿部の所だった。
チャイムを連打し、開けられたドアの向こうにいた阿部の顔は非常に不愉快そうだったけれども、田島の姿をみた瞬間それも消えた。困った様な、戸惑った様な表情を浮かべた阿部はそろそろと腕を上げ、田島の頬にそっと触れた。見た事の無い田島の顔だったからだ。野球のタコが殆ど消え去った、きちんと手入れのされた指がそっと田島のまぶたをなぞった瞬間、田島は阿部を抱き締めた。阿部はびくりを体を強張らせたけれども、ゆっくりと息を吐いて力を抜いた。そっと腕を背中に廻すと、ドアをしめて田島をリビングに招き入れた。
「ごめん阿部、寝させて。俺すげー眠い」
イケヤでセールしていた事もあって、まわりに薦められて買った阿部のベッドはダブルサイズで、高校時代に花井並みに伸びた田島の体もすっぽりと包み込む。わたわたと田島に枕を渡し毛布でくるんだ阿部は、ためらいがちになんか食う?それか飲む?と聞いて、田島がんーんと断ると、阿部はそっと頭を撫でて扉を閉めた。田島が目覚めたときは十時間たった翌日の朝7時だった。妙にすっきりした気分で部屋を出ると、まるで高校時代の合宿に出ていたような懐かしいメニューがダイニングテーブルに並んでいて、田島は目を瞬かせた。グラスにオレンジジュースを注いでいた阿部は田島のたてた足音に振り向き、おはようと薄く微笑んでいた。ぽかぽかと胸とお腹のあたりが暖かくなって、久しぶりに涙腺がゆるゆるに緩みまくった田島は、ひっくと嗚咽を盛大に漏らしながら阿部を抱き締めた。阿部、阿部とうわごとのように繰り返す。
「なぁ阿部、阿部ここにいさして、頼むから、なぁ」
その力の強さ少しだけ眉をひそめたけれども、阿部はすぐにふっと体の力を抜いて、優しく不釣り合いなセリフを言って抱き締め返した。
「家賃は折半だぞ」



だいすきだよ



田島が転がり込んできてすぐに、阿部は栄口に相談した。大抵の相談といったらまずは花井だけれども、花井に相談して解決しない問題は昔から全員栄口に話していた。特に栄口は高校時代、泉と一緒に唯一田島のプロ入りに反対していた人物だ。表立って反対はしていなかったけれども、まずは大学に進んだ方がいいのではと内心ずっと思っていた。
「そう、とうとう来たんだ、でも阿部が受け入れてあげられるなら良かったね」
そういって栄口は阿部の背中をそっと撫でて、残りのワインをゆっくり飲み干した。
「田島は末っ子でしょ、大人に甘やかされるのも我がままを通すのも得意だったと思うけど、それ以上に子供扱いされる事にも慣れてたと思うよ。元々の明るくて素直で単純で、あんまり物事を深く考えない性格もあったと思う。特に高校野球なんてのは確かに人生の大きな一部だけど、社会を知るものじゃないだろ。どっちかというと、青春を知るみたいな。俺はずっと、田島には高校よりも長い大学を四年間じっくり過ごして、身も心もバランスがとれた状態でプロになったほうが良いと思ってたから、今回の事は実はずっといつか来ると予測はしてた。だって見てみなよ、榛名さんなんてもう奥さんもいて子供もいて、仕事は大好きな野球でプライベートはあったかい家庭で、至れり尽くせりのハッピーライフじゃん。田島は、仕事で受けるプレッシャーやストレスを、ゆるやかに発散する方法を知らないだろ。性欲と一緒に吐き出す方法はあっても、そういうのって錯覚なだけで、しかも田島は顔も知られてるから慎重にいかきゃいけなくて余計ストレスたまるし」
だから田島が阿部を選んだのは、俺は凄く自然だと思うよ。そういって栄口は、ボトルから更にワインを注いだ。
「なんで」
「だってそりゃわかるよ」
栄口が穏やかに笑った。
「高校の時、お前らは両思いだったよ」
そんな事は初耳だと当事者の阿部が目を瞬かせると、栄口はおかしそうに笑った。
「その時は恋愛じゃなかったのかもしれないけど、でもお前らは誰よりも繋がってたって俺は思うよ。始めてであったときからお前ら二人は目指す先も考える事も一緒で、田島は下手したらチームで浮く自分を論理的につなぎ止めてくれるお前がいたし、お前はお前で自分の理論を実行に移してくれる田島がいてさ。ペア組んでキャッチボールしてる時のお前らは、ほんと楽しそうで。水谷はいつもいーないーなって言ってたよ」



「たーだーいまーぁ」
がちゃりと鍵のかかっていないドアを開け、田島は元気よく家に入った。リビングに続く防音性のドアからはかすかにチェロの音色がして、田島は頬を緩ませた。中に入って、わずかに微笑みながらチェロを弾いている阿部に向かう。後ろからそっと頬にキスをして、田島は荷物を降ろした。
「ただいま」
「・・・・・・・おかえり」
二分休符にさしかかって、ようやく阿部が静かに答える。先ほどよりも深くなった笑みに気分を良くして、田島は今度はリップ音をたてて頬にキスをした。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、煽る。昔は水道水でいいじゃんと思っていたが、プロになった今は水すらも買っている。
一曲弾き終えた阿部がチェロをケースにしまうと、田島はとたんに抱きついた。気持のいい練習を終えた後の田島は、いつだって機嫌がよく甘えたになる。田島が甘えたになるとついつい甘やかしてしまうのは高校からのくせで、阿部もつられて機嫌良く笑った。
「なぁ、今日夕飯なに」
「ん、メインはチキンのトマト煮な。今日昼なに食べたん」
「和食!やった俺阿部のトマト煮大好き」
ありがとうと思って口の端に五秒程長く口付けた田島は、照れくさくなった阿部に顔を押し返されて風呂!と追いやられると、鼻歌を歌いながら風呂場に直行した。芯から暖まり、ストレッチも終えて再び戻れば、湯気の立つ鍋がダイニングテーブルに置かれていた。明日から楽団の都合でヨーロッパへの演奏旅行に行く阿部とは、二週間程お別れだ。だからこそどんどんテーブルに出されていく食事は豪華で、田島はさびしかったけれども同時に酷く嬉しかった。炊飯器を開けた阿部が、田島の茶碗をもって笑いかける。
「なぁ、お前どんくらい食べる?」
「大盛り!」



高校の時、練習からくたくたになって帰ると、家族全員がおかえりって言ってくれて、何もいわずにおかーさんがあったかいご飯だしてくれる。それに似ている

2011年8月21日