むき出しの腕を撫でる風がそろそろ冷たい。もう教室で汗をかく事もない。教室で着席する時起立する時、俺はどうしても膝を意識してしまう。指はいっそう気をつけている。俺はこれから指を一生大事に生きていく。





西広は医者になる。沖は日本史を専攻する。田島はプロになる。巣山は民俗学、水谷は専門学校に行って総合的にデザインを勉強するらしい。花井と泉は教育学部に進んで、俺はやっぱり母さんの事が忘れられなくて、社会福祉学部に進む。三橋は二年目から専攻を決められるという大学に行く。

そして阿部は音大に進む。小さな頃から習っていたピアノとチェロは今でも好きで、ピアノは大抵副科で取れるからといってダブルメジャーでチェロと音楽教育学を専攻する。俺と元七組はは三年間地味に阿部の家で演奏を幾度か聴かせてもらっていたからそうでもないけど、他の奴らはびっくりしていた。皆理由も無しに阿部は音痴でリズム感が無いと思っていたから。気持ちは分かるけどね。
でも本当に綺麗な演奏をするんだよ、阿部は。くせがあるのに透き通ってて、音がキラキラしてる。夏と冬がいっしょくたになってる様な音なんだ。田島にオネガイオネガイ言われて弾いた曲で皆俺の言った事がわかったみたいだった。そしてまた田島が上手い事を言う。
「なんかピアノで野球してるみてーだな!」
お前はほんと、昔からイイトコかっさらってくよね。





「なんで?」
泉でさえもちょっと渋々ながらも、皆でおめでとうと祝福した声にかぶせる様に、三橋が阿部を責める。阿部がびっくりしている。でも三橋は気にしない。気にならないのだ。なんで?と心底わからないといった表情で阿部を問いつめる。なんで?
「なん、で。や、野球・・・・おん、大では・・・」
「・・・しないよ」
「なんで!?」
どんどん阿部の顔色が悪くなってく。言葉に詰まって、それを見た瞬間俺は阿部の肩を掴んで、花井は今にも三橋に殴りかかりそうだった。三橋が野球をせずに音楽なんて、自分の知らない阿部の進む先を否定しようとしたからだ。けれどそれを寸での所で止めたのは巣山で、三橋はビビって青ざめている。田島と泉が三橋を花井からかばいつつも、なんでそういう事を言うんだとたしなめるけど。
「だ、ってっ・・おんっだいっなんて、おかっしい、よっ!」
「それ以上言ったら許さねぇぞ三橋!」
「ひっ」
でもごめんは言わない。ビビらされたらゴメンナサイは三橋の十八番というか、代名詞みたいなものだったのに。
三橋だけ知らない、俺達九人で隠し通した阿部の秘密。阿部が言うなよ、っていうから、隠してきたけど。言ってやれば良かった。そしたら三橋は今、こんな無神経な事いわなかったのに。





「・・・・・・疲れた」
うん、阿部はもう何もしなくていいと思う。そう言ってあげたかった。
でも本当に言うべきなのか、俺はそういう判断って結構的確だって思ってたけど(だって阿部が盲目的に全幅の信頼を寄せている保護者花井と栄口のお墨付きだし!)、何故かその時俺はわからなくて、だから代わりにきゅうと阿部の背中に抱きついた。重ぇよてめえ離れろ。そんな事いいながら阿部の背中はまるまって、ますますピッタリくっつく。阿部の小さい震えを隠すようにして俺はますますくっつく。ポケットからMP3プレーヤーをだして、問答無用で片方を阿部の耳につっこむ。先月、秋が来てようやく、クラシックっぽいのだったら阿部はどんなジャンルでも聞くんだって気付いた。それから俺のiPODには、たくさんキレイめのメロディーの曲が入ってる。
「阿部ー何きくー?」
「その前にお前、降りろ」
本気で重い。
おっと、ごめんね。





水谷は上手い。ぺとーんと阿部に張り付いていて、ようやくするんと降りたと思ったら、阿部が廊下を向いても決して何も見えないような角度に自然と座る。そして顔を寄せて、ねぇねぇと雑誌を二人で読み始める。廊下で隠れるようにして突っ立って、阿部に声をかけようとしているあいつをシャットアウトしている。
悪ぃけど、俺は助けてやらねーよ。
「・・・ぁっはな、い、くん」
三人分のジュースを持って三橋の横を、気付かなかったかの様にするっと通り過ぎる。
「おー買ってきたぞー」
俺の声に阿部も水谷も顔を上げるけど、上がり切る前に俺が覆いかぶさるようにして阿部のカフェオレを机に置く。そうしたら阿部の意識はもうカフェオレにしか向かない。阿部はストローをあのビニールのやつからはがすのが下手だ。何度もそれでぶすっと自分の指を指してて、だから阿部は受け取ると必ず水谷か俺にそれを手渡す。もう何回も何十回もしているのに、やっぱり阿部はちょっと照れてしまって、余計照れて機嫌を損ねるとアレだから俺達は押し付けがましくないように自然にそれを受け取る。水谷は余分なゴミが出ない様に、ブリックパックにビニールを引っ付かせたままストローを器用に取り出して、ぷすっと差し込む。そして渡してやる。さんきゅ、そう小さくいって阿部は両手でそれを飲む。あーかわいい。子供の頃からのクセだといっていた。
「阿部、阿部、くっきー食べる?」
紅茶味ー。水谷が缶から一つ取り出す。口元に持ってかれたやつを、阿部は自然に食べた。阿部はこれをやるのは、俺と水谷と、栄口だけ。それだけでいい。





ほんの少し前まで三橋と力を合わせて強くなろう、そう誓っていたというのに。

秋大はベスト4という結果に終わり、西浦は冬の基礎練の時期に突入した。その頃から阿部と三橋の関係がおかしくなりはじめた。
ある意味、沖と花井が原因だった。





冬の基礎練が始まると、公式試合が無くなる。加えてシーズンオフなので、練習試合もめっきりだ。つまり必然的に対試合用のメニューよりも、体を作ったり個人の能力を底上げするのにもってこいというわけで。
花井は今でこそ控え捕手に専念しているが、控え投手としての練習は細々とながら続けている。体格が良い上に投球指導を受けた事があるだけあって、彼のストレートは球速がある。彼の生真面目な性格も手伝って、実に丁寧なピッチングもする。沖は花井程の球速や三橋程のコントロールは無いものの、丁寧で綺麗なピッチングをする。花井よりも安定しており、弱点を例えるなら武蔵野の香具山の様、丁寧すぎてセットアップが長い事くらいだ。
元々のポジションと打撃練の片手間にやっていた夏秋と違い、今はもっと時間を割ける。沖なんかはそれこそ夏の美丞大狭山戦以来肝が座ったのか、上達のスピードが早くなり。
三橋が、出会った頃の様な挙動不審に後退しつつあった。
「お前はいい投手だよ!」
何度もそういっているのに、全て本心なのに、三橋はそれを受け入れない。阿部の言葉なのに。
田島が聞くと、不安なのだという。自分がエースだという自覚はある、けれども阿部は沖の球をとる度、彼が沖のピッチングを褒める度。「オッケ!」「ナイピッチ!」そう沖に投げかけられる言葉を聞く度、不安になるのだという。自分よりもはるかに阿部と会話ができている沖が、沖の所為でも阿部の所為でも無いけれど、憎らしくなる、羨ましくなる、不安になる。
そしてしかも、阿部は榛名さんを知っているんだ。榛名さんと俺よりも、二年も組んでいたんだ。豪速球の最高の投手。
ずっとずっと、そんな榛名を最低だという阿部に変わって欲しかったという。自分が尊敬し、認める最高の投手。なのにいざ和解したとたん、少しずつ不安が降り積もっていったのだ。
「あ、阿部くん、は。に、ニシウラを、や、やめ、」
「やめねーっつってんだろ!!!」
いつのまにか三橋のそういう「阿部君はやめる?」傾倒の質問は一択になった。「ニシウラをやめる?」
そしてそれに勢いよく答えると、望まれた答えを返したはずなのに三橋は泣く。泉が阿部を責める。いつの間にか田島は一線を引いた所で見ているようになった。それに泉が余計いらついて、そして阿部を責める。
「テメー何やってんだよ、テメーがこいつを不安にさせるからこういう質問されンだろ!」
俺の所為か?

そしていつの間にか質問は変わり、そして副音声が足されるようになった。
「阿部君はキャッチャーやめる?(俺の)」
辞めないって言ってるのに。





阿部は九組に行かなくなった。用があると申し訳なさそうに花井に頼む、それを花井は当然の事の様に気にすんなといって九組に阿部の用事を済ませにいく。
その間阿部は居心地が悪そうだ。花井が珍しく、残り福で手に入れた窓際最後列の席に座って、小さくんなって外を見る。椅子は半分しか座っていなくて、そうするとすかさず篠岡が残りの半分に座り、阿部を現実に呼び戻す。話した事が無かったとはいえ、さすがに篠岡は同じ中学にいただけあって阿部が過ごしていた空気をしっていて、同様に栄口も上手い事阿部の意識を向けさせる事がうまかった。そんな二人と花井には阿部はひどく素直だ。元々素直の性質が、ふわふわほわほわな雰囲気に感化されてまるで小さな子供のようになる。
阿部君、データまとめ終わったから、一緒に分析しない?そういって篠岡はそっと阿部の前にノートと手作りのクッキーを置いて、栄口はカフェオレのブリックパックをストローを指した状態で置いてやる。そうすると阿部はいくらからほっとした顔でデータに没頭しはじめて、そしてたまにちらちらと俺を見る。最近栄口に聞いたけど、阿部にとって俺は密かに日常と平和の象徴らしい。俺がいつもの様にのほほんにへらとしているだけで安心して、目が合わさっておれがへにゃりと笑う度ちょっぴり嬉しくなるという。
だったら俺はいつだって阿部の為にヘタレでいよう、なんだか変だけどそう思った。だから俺は誰も座っていない花井の前の席の椅子に座って、三人のデータ分析の邪魔にならない程度にテーブルに寝そべる。耳にはイヤホン。いつ阿部が片耳を奪って聴き始めてもいいように、弦楽器とかが多めのキレイめなクラシックっぽいメロディー。阿部は歌詞なんか聞いてないから、ひたすら恋愛曲だけど、それでもいい。そしてたまにちらっと阿部が顔を上げると、俺はにへらと視線を合わせる。にこーっと笑ってやればたれ目が緩む。それでいいんだ。俺はそんな阿部が大好き。
花井が帰ってきて、篠岡はそっとノートをしまう。元々花井が阿部の用事を済ませてくるまでの場繋ぎなので、データはほんのちょっとしたまとめ終えてない。また今度ね、そういうと阿部はん、と短く返事をして、クッキー美味かった。そういって篠岡を送りだす。それに嬉しそうに笑って明日は何味がいい?と聞いて、阿部は必ずといって良い程紅茶と答える。阿部は紅茶みたいな、ちょっと香りが濃いんだけど味がふんわりした、そういうのを好む。わかった、そういうと篠岡はテーブルを回ると俺と椅子をシェアする。花井は阿部が座っている自分の椅子を、阿部が座ったまま窓ぎりぎりまで押して(すごい)、阿部の椅子を引っ張ってくる。そうしないと阿部が申し訳ながるとわかってる。そしてまた4人で談笑する。
それでいいんだよ。その後阿部と俺は音楽を聞きながら寝る。篠岡が阿部が寝た事を確認すると、三橋の様子を聞く。
九組がひたすらに三橋をかばおうとするなら、七組はひたすらに阿部の味方でいようと思った。
阿部が正しいとか悪いとか、そんなのは関係ないんだ。阿部はずっとずっと努力してる、一生懸命に三橋に近づこうとして、時には待って、時には落ち着いて、時にはじりじりと三橋の言葉を待ってる。三橋を解りたい三橋を受け入れたい、三橋をもっと生かしてやりたい。それなのに三橋は逃げるんだ。
だから俺は、たまにすごく三橋が憎らしくなる。そうやって手を差し伸べられる事に慣れ切って、社会にでてから苦しめばいいんだ。
そんなことを、思う。





じゃんけんはそれこそもう何百回も行っているけれど、俺は一度も勝ち残れた事が無い。真っ先に負ける方が多い。だからいつの間にか昼時の購買係は俺になっていて、でも戻ってくる時にありがとうという阿部と水谷の笑顔がくすぐったい感じに嬉しいから、まぁいっかと思うようになっていた。
「花井、ちょっと、いい?」
あとちょっとで七組という所で沖に呼び止められた。なんだか切羽詰まった顔をしていた。
「あの、さ。ちょっと相談したい事があるんだけど、その、花井と栄口に」
その言葉に俺は何となーく事情が解って、ちょっと待ってろと声をかける。携帯を取り出し、水谷に電話をかけた。
『はいはーい』
「水谷、ちょっと阿部つれてどっかいっててくれ」
『へ?なんで?』
「沖が来た。阿部がいるとまずいっぽい」
『あー・・・オッケー今どのへん?』
「クラスの近く」
『じゃー屋上いってんね』
「おー」
『今阿部起こすし。しのーかー!』
『なーにー?』
遠く篠岡の声が聞こえる。
『ちょっとさ、花井からジュース受け取ってきてくんない』
『うんいーよ』 
廊下よりの席の篠岡が、窓から身を乗り出してきょろきょろする。俺と目が合って、篠岡にジュースを二つ渡した。
「わりーな」
「いいええ」
暫くすると水谷が阿部の手をつかんで出てくる。手にはしのーかから手渡されたジュースを二つもっていて、阿部は目をこすりながら引っ張られるままだ。
「ねむい」
「屋上で寝たらいーよ。キモチーよ屋上」
「べつにおこさなくたっていーじゃん・・・」
「たまには青空見上げてねよーぜー」
水谷は上手いな。
姿がみえなくなって、沖を促して教室にはいる。俺の席には既に栄口としのーかがスタンバっていた。





阿部が泣いた。嬉しいのと安心したのと悲しいのと悔しいのとでぐちゃぐちゃだ。練習が終わって、阿部は自転車をゆっくり押しながらちっちゃく泣く。俺はぎりぎりまで自転車を近づけながら阿部と呼吸を合わせてやる。

一年のみで夏大ベスト16、そして秋大でベスト4という成績で一年目を終えた西浦には、一年が大量に入ってきた。十五人。モモカンと阿部は大喜びで、阿部は早速最初の休みにしのーかと一緒に新しくデータ整理をする為のフォルダを選びにいったくらいだ。もちろんウチは練習は長いわ厳しいわだから、人数は少し変動するかもだけど、でもたとえ五人減ったとしても紅白戦ができるくらいには部員が増えた。
もちろんその中に投手はいて、すごく対極的な二人だ。
新しく入った捕手である飯沼は阿部と田島をかけて二で割った様な安定したやつなんだけど、ちょっとバカでインサイドワークが弱い。その辺は鍛えればいいだけだからと言って阿部は楽しそうだ。
問題は投手であって。
そのうちの1人、樋野は体格も良くて球速もあるけれど、コントロールがイマイチ。これだけ聞くと榛名さんみたいだが、球種はストレート、カーブにスライダー、そしてシュートを練習中だと言っていた。もう1人の川原はどっちかってーと小柄な方なんだけどピッチングが丁寧で、コントロールがよく球速も120はあるし、一番安定しているやつだ。
阿部が面食らったのは、この二人の素直さだ。
本当に阿部の言う事を聞く。顔合わせの時の阿部のキャッチング技術とリードに惚れたのか、二人は子犬みたいに阿部に懐いた。でもそれだけじゃなくて、阿部はやっぱりちょっと投手としての自覚が足りない二人に、三橋にするみたいにこんこんと指導して、それに二人は素直に元気よくはいと答えるのだ。そしてそれを実行する。

通じた事が嬉しくて、受け入れてもらえた事が嬉しくて、そして自分のやり方が全部悪いわけでは無かった事に安心して、自分が埋められない三橋との差に哀しんで、そして榛名さんと三橋の事でぐるぐるして悔しくて泣く。
阿部はずっと辛かった。ずっと自分を責めてた。きっと榛名さんの事だって、自分のやり方が悪かったんだって、努力しても受け入れられないのは榛名さんじゃなくて自分がダメだからで、三橋にしたってそうなんだと、自分が空回ってるんだと辛そうだった。なのに今までの阿部の努力をあっさり肯定した二人が現れたもんだから、阿部は困惑してる。

「良かったねぇ阿部」
そう言ってやると、阿部はばっと顔を上げた。涙でぐちゃぐちゃでブッサイクな顔だ。
「阿部先輩は最高の捕手ですって言われて、良かったねぇ」
そんなこと、三橋にも言われた事ないよね。
阿部がこらえきれずに声を上げて泣いた。





「俺さ、最近その・・・プレッシャーに耐えきれなくなってきて」
三橋がずっと見てくるんだよ。
そういって沖君は、自分が情けなさそうに顔を赤らめた。
「桐青戦でさ、阿部が『投げられないなら沖にでも花井にでもマウンド譲れ』っつったじゃん。あの時三橋、俺の方ちらちらみて、なんていうか・・・とらないよね?とらないよね?ね、ね?って感じの」
「ああはいはい」
「それが最近、ずっと続いてるんだよね。でもあのときはドキドキしてたのに、今はギラギラっていうか、ジトジトっていうか」
「・・・三橋・・・」
「俺別に、エースになりたいとは思わないよ。性分じゃないし、別に投手をやりたくて控えやってるんじゃない。ただ俺が控え投手やってチームの力になれるンなら、って・・・」
そこで一息ついた沖君に、そっとクッキーの缶を差し出す。阿部君の分だけどいいよね。そういうの、阿部君は怒らない。ありがと、とはにかむ沖君に笑い返して、続きを促した。
「でも最近、結構投げるの楽しいんだよ。投手にしか味わえない何かがマウンドにはあるっていうけど、あーなるほどなって思うようになってきた。俺が暴投しても足滑らしても、阿部は声かけてくれんだよね。なんていうか、すごい誠実なんだ。阿部は、俺と投げてる時は三橋の事なんて頭からすっぽ抜けてて、ひたすら俺と付き合ってくれてる感じがする」
そこまで言ってうわ何いってんだろ、と恥ずかしそうに俯いた沖君に、私達はみんなうんうんと頷いていた。わかるよ。わかる。
「でもそーいうの・・・なんていうか、三橋はわかんのかな、目があうとぐっと詰まって、何か言いたそうなんだけど、なんていうか、その」
すぅ、と大きく息を吸って、
「わかってるよね?みたいな目で見てくるんだよね。それが、その・・・最近、居心地悪くて。俺、控え降りたほうがいいのかな〜なんて・・・」
「いーわけねーだろー」
花井君が呆れた様に沖君を小突く。ぴゃっと身をすくませた沖君はうん、わかってるけど、と言葉に詰まる。
「そーいうのってさ、三橋って、沖に嫉妬してんだか阿部に嫉妬してんだかわかんないよね」
「え?」
栄口君がうーんと腕を組んだ。
「三橋って、沖に対して『俺の阿部君とらないで』って思ってんのかな。それとも阿部に『俺以外の投手と組まないで』って思ってんの?」
「・・・・・どうなんだろうな・・・・それ」
「両方・・・・?」
「・・・・・阿部にこういう事いうとさ、なんか三橋に言いにいきそうじゃない?でも最近の二人ていうか、三橋みてると、多分阿部に言われてももう安心しないんじゃないかな、って思う、んだよ、ね・・・」
そう言って、沖君はごちそうさまと席を立った。花井君が沖!と声をかける。
「そーいうの、お前は気にしなくていーから!気になっちまうかもしれねーけど、投げてるときは投球に集中してりゃいーから!」
ぐ、と沖君が拳を握る。花井君も返した。
ああ、前途多難だなぁ。後二年も、私達の夏は続くのに。





三橋が本格的にぐらつきはじめて、モモカンは最後まで迷ってたけど、田島を三橋と組ませた。今年の抽選会まではこれでいくらしい。阿部は少し安心していた。何をどうすれば良いかなんて解らない。そして沖は花井と組んで、阿部は一年投手二人を抱えた。
入った15人のうち三人が練習についれこれずに辞めて、1人が家の事情で泣く泣く辞め、十一人になった。それでもそいつ、津高は辞めたくて辞めたわけじゃないから、浜田さん見たいにヒマを見てはノックやランナーの練習に付き合ってくれる。実はマネージャー希望も二人いたけど、体験の時に篠岡の仕事っぷりを見てドン引きしたらしく、やめていった。篠岡もあの二人は、ジャグは重いだの米研ぎは疲れるだのおにぎりは熱いだの言って殆ど仕事しなかったらしいから、こっちから願い下げだとちょっとキレてた。部員が二十一人になってしのーかの負担が増えて申し訳ない、そんな顔をする俺達に、やりがいあるから大丈夫だよ!って励ます。ホント女神様だよ俺達のマネジは。マネジの鑑だよ。津高も手伝ってるし。阿部は津高がお気に入りだ。よく頭撫でてる。津高も嬉しそうだし。わんこコンビ?
そして相変わらず子犬二人は母犬よろしく阿部犬にちょろちょろついて回っている。俺達一期の間でもしのーかやモモカンくらいしかついていけない超マニアックな野球オタ話も、二人はへーほーと興味深そうに聞いている。勉強になるんだけどね、阿部の話は・・・でも専門用語がマニアックすぎて俺達はたまにちんぷんかんぷんだ。でも子犬二人は素直だから解んないことはスグ聞くし、阿部はすぐ答えるから余計に目を輝かせるし、タカヤ先輩すっげぇ!なんつって。良い先輩、良い監督、良い環境に恵まれて二人はすくすくと上達している。
首脳会議で、モモカンはこの調子なら去年の美丞の様に継投もありかもしれないと言っていた。沖も一年経って公式戦の三回戦くらいまでなら投げられるレベルになった。モモカンがぶるぶるしてる。今年はもっと良いとこまで行くだろうな。甲子園優勝が目標なんだから、今年一回甲子園にいってみたい。そんで来年ついに優勝。
未来を思い描く事だけはすごく簡単だよね。





泣く三橋を前に、俺は何を言ってやればいいんだろう。

どうすればいいんだろう。三橋は西浦のエースだという気持ちは今だって変わらないのに、そりゃ継投だって控え投手だってバンバン作ったとしても、三橋の登板が十回中六回とかに減ったとしても、あいつが『エース』である事には変わりはない。少なくとも俺の中では。俺はそれに嘘をついた事はない。三橋に嘘は言わない。だって嘘でもホントでもあいつは本気にするんだもん。だったらホントの事だけ、心から言ってやりたいのに、なのになんで信じてくれないんだ。
俺の言い方がキツいのか?怖い?でもだから俺は怒鳴らないし、そりゃちょっと言葉が荒くなるときはあるけど、でもしょっちゅうガーガー言ってた時よりは落ち着いてる筈なのに。三橋の言葉、やっぱり少しイライラするけど、でも全部聞いて、質問だってして解ろうとするんだ。それでもダメなら田島にヘルプ頼むけど。
夏大が終わったあの日、すごくすっと通じたアレはなんだったんだ?力を合わせて強くなろう、そう誓い合ったのに、秋大の結果を見ればそれが実っている事は明らかだけど、でも心がどっか遠い。沖との投球練習が終わると三橋はダッシュで俺の所にきて、そんで俺の手をぎゅっと掴む。俺も握り返すけど、あいつの力の方がもっと強い。痛くて離せといっても、ちょっと力を緩めるだけで離してはくれない。いつも俺の周りをウロウロして、最近は積極的に話しかけてくる様になった。俺もそれに返事をするけど、やっぱりあいつは泣く。どうしたらいいかわからない。そんでそんな俺を泉が責める。泣かすような事は言ったつもりないのに。やっぱり俺ばっかりが空回りしてるのか。

捕手は、投手を信頼して、投手を活かして、投手の為に何かしてやりたいと強く願わなければならない。俺は三橋に対してそれを違えた事は無い。
でももう、正面切って付き合うのが、
「・・・・・・疲れた」
そう小さく零したら、水谷に背中から抱き締められた。
「阿部ー何きくー?」
暖かくて優しくて泣きそうで、つい言ってしまった。
「その前にお前、降りろ。本気で重い」
でも水谷は俺の手は握ったままだ。ホントに、たまにお前と花井と栄口って、仏?イエス?菩薩?お釈迦様?なんなの?って泣きたくなるくらい、俺に優しい。





三年の夏が終わって引退して、一般受験の生徒は公欠の時期に入った。阿部はそれから登校日以外一度も学校に来ない。朝早く起きて夜寝るまで、メシとフロ以外の時間はずっとピアノかチェロを練習してる。ピアノは副科で、チェロに求められる物よりは優しいらしいから、大体ピアノ四時間チェロ八時間くらいの割合でずっと弾いている。で、三日にいっぺんくらい聴音とかの楽典系をおさらいしている。一週間に一度くらい、元七組と栄口は集まって、阿部の家の近くの公園でキャッチボールをする。三年間ずっと体を動かしてたんだ、やっぱりムズムズするらしい。たまに篠岡が加わる。篠岡はスポーツ医学を専攻する。凄くらしい。阿部は感心してた。阿部と篠岡は凄く仲良しだ。しょっちゅう二人でプロの試合を観に行っていた。二人の付き合い方はホント青春爽やかさっぱり男の親友系で、変な噂がたたなかったのはホントに凄いと思う。水谷も篠岡と仲良かったが、阿部としのーかが男の付き合いなら水谷はどっちかってーと女の付き合いといった具合だった。俺達は全員東京に行く。日本史を専攻する沖は京都に行く。なんかぴったりだな。さすが、西広先生は東大だ。西広も俺達と同じメニューを三年間みっちりやって、勉強なんてできてた訳がないのに、A判定ってのはどういう事だ。三橋は本家のある群馬に帰る。巣山は奈良県。泉は唯一の地元組だ。田島は今ノリにノッてる球団にドラフト1位で指名されて、東京に来る。といっても行ったり来たりだろうけど。
俺と栄口は学部は違うけど同じ大学だ。水谷の学校と阿部の大学は割と近い。シェアしようよ〜なんて言ってたけど、どうなるかな。
夏大が終わって完全燃焼みたいになってた阿部は、今音楽に没頭する事で本来の活力を取り戻しているみたいに、思う。三橋とは田島や泉と会った時に会ってるみたいだ。まぁといっても俺達は一ヶ月に一回くらいファミレスで会ってるけど。阿部が可愛がってた投手二人と捕手はは立派に成長して、シュウタと陸は主将と副主将、良樹は副首相だ。最初は良樹が主将候補だったけど、捕手らしいのからしくないのか良樹はけっこう気にしいで、そのうち花井みたいにハゲるぞ、やめとけ、という阿部の嬉しくない発言によって、肝が座ってるシュウタが主将になった。
大学でも本格的に野球を続けるのは俺、沖、巣山、泉と三橋だけ。西広と栄口は同好会くらいのレベルで楽しくやると言っていた。
皆こうして、それぞれの道を歩み始める。で、たまにこうやってキャッチボールをして、昔を懐かしむ。それが今ひどく幸せだ。阿部はもう自分の好きなように、それだけを考えて生きて行ったらいいと思う。俺達は、そう思う。





「・・・・っ・・・?」
「どうした、阿部?」
年が明け、もうすぐバレンタインの季節だ。そうしたら最後の春大会がやってくる。俺はミーティング帰りに栄口と二人の家の中間地点くらいにあるファミレスで勉強をしていた。一段落してから夕飯を食べ、話をしてから帰ろうというときに。つきん、と変な痛みが膝を襲った。一瞬だったからよくわからなかった。栄口が気付いてくれたけど、その時は何でもないと言うしかなかった。
だって怖かった。





「阿部は、大学どうすんの?」
水谷とブラブラしていた。
こいつといるとなんか気が抜ける。公園いって芝生で寝転がろうよなんて、水谷以外に言われても多分やらない。水谷に誘われると本当にそれが気持ちのいい事のように思えて、俺は割とホイホイついていく。と、栄口は言っていた。俺的にはそんなに水谷にホイホイついてってなんかない。
優勝して、夏と秋の丁度境目。暑くもなく寒くもなく。俺は秋が一番好きだ。夏は別。
こうやってごろごろして、寝そうになるんだけど水谷はいつも絶妙なタイミングで話しかけてくるから寝れない。でも俺が本気で寝ようとしている時は寝かせてくれるから、栄口は気をつけなよ、水谷はかなりのクセモノだよなんて言ってたけど、こんなへにょほにょ野郎のどこがクセモノなんだ。
「あー・・・音大」
一年の時七組だった連中と栄口は、俺が小さい時からピアノとチェロをやっていた事を知っている。初めて話した時はびっくりしてたけど、笑いもしなかったしからかいもしなかった。確かに俺は野球が大好きだけど、でも音楽だって好きだ。本当に没頭しているときは、空間がたった一つのものに満たされて、体の水分をふるわせて体と空気とを共鳴させて、まるで自分が小宇宙になったような感覚に陥る。その感覚が好きだ。
「へぇ、音大。いいね。専攻は?」
「多分、チェロ。日本の音大は絶対ピアノ副科だし。お母さんも何か喜ぶし」
「へー!チェロ!・・・・あれ?でも俺、あんまり阿部のチェロきいた事ない。なんで??」
「そりゃお前、チェロは出すのがめんどくせーだろーがよ」
ケースから出して弓張ってチューニングして椅子出してストッパー用意して、とにかくヴァイオリンファミリーは準備は面倒だ。ピアノ見たいに蓋開けてさん、はいなんて事が出来ない。
「えー。聞きたい。今度きかして」
「はいよ」
「そんで、何処の音大?」
「東京。◯◯大って知ってる」
「有名じゃんそこ!阿部野球ばっかしてて大丈夫なん!入れんの!?」
「そこの教授が俺のチェロの先生なの」
だから入れるわけじゃないが、師事しているから入れるレベルまで引き上げてくれるし、ポイントやコツも大学に合わせて教えてくれる。その大学は元々ハハオヤの母校で、お母さんは声楽をやってた。小さい頃何度か連れてってもらって、国立大には無い、私学ならではの建物のこだわりや雰囲気が好きだった。あとホールの反響秒数も俺好みだったし。
「っていうか阿部、そこ俺の行く大学の近くだよ!◯◯専門学校って知ってる?」
「あー、知ってはいる」
「俺そこで、インテリアデザインの勉強するんだよ!二年制なんだけどね、二年目からは住宅設計専攻かインテリアデザイン・コーディネート専攻か選べんの。まだどっちか迷ってんだけど、多分建築家の方向に進むつもり。卒業前には二級建築士の資格も取れるんだよ!」
「へぇ、いんじゃん」

「そしたら俺、将来阿部に家を建ててあげる」
水谷の作った家なんかに住んだら、外に出なさそうな気がして怖い。





「私、スポーツ医学を専攻するんだよ、阿部君。」
卒業式の日、朝、家の前まで来て、篠岡は俺の手を握った。栄口と一緒に行こうと約束してて、インターホンがなったから早いな、と思っていたら篠岡だった。
「知ってるよ」
「うん、あのね。本当に、スポーツ医学をするの。10年計画で、内科医と整形外科と生体力学と外傷学とリハビリテーション、あとスポーツ心理学とかを、野球に特化して勉強するつもりなの」
そういった篠岡の目は真剣だった。
「誤解しないでね、阿部君。音大に進む阿部君を非難してるとかそんなんじゃないんだよ。阿部君、」
そんな事篠岡がするわけないのはわかってる。だって俺達は自他共に認める野球オタクだろ。

「阿部君、いつかまたホームに立たせてあげる」
だから待ってて。

初めて篠岡と抱き合った。初めて篠岡の前で泣いた。優勝した時だって戦友の様に肩を抱き合って笑っただけだったんだ。
そんな俺達を見て、やってきた栄口も泣いた。





阿部の家に行く時、俺達は絶対にインターホンをならさない。演奏している阿部の邪魔になるからだ。阿部んちはリビングにアップライトピアノが置いてあって、関西の方にあるお母さんの実家にグランドピアノが置いてあるらしい。すげーめんどくさいって阿部は言う。音の違いは俺らにはわかんねーけど、まぁたしかにでっかいピアノの方が良い音がする気がするしな。コンサートでアップライトなんて使ってるとこ見た事ないもんな。俺達は玄関から入ってリビングをこっそり開けて、大抵リビングのソファかキッチンで何かしてるおばさんに挨拶する。阿部は大抵ピアノの置いてある角に向かって、右からベランダを通して入ってくる光を浴びながらチェロを弾いてる。最近はずっと出しっ放しだ。弾き終わったら布で拭くけど、後はスタンドに立てかけている。今日入ったら丁度ピアノを弾き終えてチェロに移る時だった。
「おーす」
「おす」
「阿部今からチェロー?」
「おお。つまんねーぞ」
「いーよ別にー」
最近解った事だが、俺達は阿部のチェロを聞きながら勉強しているとかなりはかどる。俺は途切れる事無く続いていく、CDとかの録音とは違う生の音がいい具合にBGMとなっていて、水谷はだれそうになって頭を上げるたびに真剣な顔でずっと弦に指を滑らせている阿部を見る度に気持が引き締まるらしい。こんな感じで俺達は野球漬けで大して実が入っていない頭にイロイロたたきこんで、他の人より遅めの受験対策に講じている。
阿部はチェロを手にとり、まず簡単に埃を布で払う。次に弓をしなりすぎない程度にはって、馬の尻尾を押さえて弾力を確かめると、ピアノの上に置いてある箱の中から松脂を出して弓に滑らせる。全体に数回往復させて、根元と先っぽを数回、真ん中辺りを数回、そしてまた全体的に数回。それをしたら一二回ふって、余分な粉を落とす。軽くA線に当てて弾き、粉が舞わなかったら丁度いい。チューナーを取り出す。クリップ式のチューナーは、最後の夏大が終わって阿部が音大に行こうと決めた日に、おばさんが嬉々として買ってきたものらしい。ずっと手にもって、音を微調整するたびに手の中でずらしてアジャスターをつままなくていいから阿部は重宝している。
チューニングが終わると阿部は息を数回はいて、全ての音階をビヴラート無しで弾きならす。G開放弦の調から上がり、E線のサードからテンスにまであがり、下降する。それを全ての調が終わるまでひたすら行う。終える頃には二十分以上たっている。それが終わると今度はフレッシュのチェロ音階教本をやって行く。開き癖のついている所から、指がスムーズに動くまでひたすら。それが終わるとドッツァウアーのチェロ練習曲を取り出す。もうすぐ第一巻を弾き終えるらしい。今は32番。阿部はピアノだとロマン初期後期の間らへんから現代曲が好みで、得意なのもその辺なんだけど、チェロはかなり古典的というか、バッハにヴィヴァルディにハイドンという、いわゆるチャラチャラ?ギラギラ?していないやつを好む。だからバロック形式で書かれている32番は楽勝というか、気が楽といっていた。なんて言われても俺と水谷には全然わからない。
これが終わる時点で三時間は経過している。それだけ阿部は反復を繰り返している。おばさんは阿部の邪魔にならない様に左前に平らなテーブルに、粉とかがこぼれない一口で食べられるようなお菓子とココアやら紅茶やらあったかいもんを置くと、阿部の頭を一撫でして戻って行く。なんつーか阿部は子供っぽいとかじゃないんだけど、そういう母親とのスキンシップを嫌がらない。
「・・・ふぅっ」
ウォンと最後の一音をならして、阿部はドッツァウアーとウェルナーから目を離した。「あー腹へった」とかいって俺達の傍によってくる。両手にココアと皿をもって。楽器弾いてると無性に腹が減るらしい。待ってましたと言わんばかりに水谷は阿部に数学の問題を片っ端から聞いていった。二十問以上あるそれは、わからないから後で聞こうと暖めていたものらしい。あーなんていっている阿部は、ポールトルトゥリエを片手に手伝ってやっている。水谷の第一志望は専門学校だから試験は無いんだけど、滑り止めとして大学を受けるらしい。普通逆じゃないのかと聞いてみたら、二年制だからとかじゃなく、その学校に入りたいから第一志望なんだとか言っていた。水谷はたまに、こうむかつく感じの深イイ事を言う。
「なあ」
「ん?」
「頑張ろうな」
あの夏を思い起こさせる笑顔で、水谷はにかっと、阿部はにやっと笑った。
「「当たり前じゃん」」
そして水谷はまた参考書と格闘する。阿部は試験曲と向き合う。俺は赤本を取り出す。今日は泊まりだ。夕飯前に栄口が来る。





ピアノはどっちにしたって取れるからといって阿部はチェロを専攻したけれど、実はピアノの方が好きだし得意だ。

榛名さんがとんでもないことをしでかした。阿部にグランドピアノを買ったのだ。これには阿部含め事実を知った全員が開いた口を塞げなかった。二週間前に阿部は榛名さんとお忍びで会っていて、軽いショッピングやら食事やらをしていたらしい。途中で大きな楽器専門店にさしかかったところで、楽譜を探したかった阿部は榛名さんとつれたって中に入った。ちょうどそこでグランドピアノの展示をやっていて、試弾もできたので一曲ひいたらしい。満足げな顔をしていたら榛名さんがぽつりと
「それ、いいヤツなんか」
「はぁ、かなり」
うれしそうにポンポンと鍵盤をならす阿部が榛名さんには(秋丸さんによると)とんでもなくキラキラして見えたらしく、「それ、家にあったらうれしい?」「そりゃうれしいでしょ誰でも」なんて答えをきいた瞬間、店員を呼びつけて値段を聞いていた。
「は?元希さん買うんすか?てかピアノ弾けるんすか?」
「バァカ、こりゃお前にだ!」
「はぁ?」
「あ、こんくらいなん?うんじゃー買います。え、サイン?あーはい、いいスよ、あマジすかありがとーございます!えっサイン飾ってくれちゃうんですか!いやーすんませんなんか、いえいえそんなははは。あ、こちら店長?あっどうも榛名元希っす、いつも応援ありがとーございます!あーそうなんスよ、ちょっとこれをね。いいヤツなんでしょこれ、え白もあるんですか!うわすげーなおいタカヤお前どうする白にすっか!?てかもーいいやこのままで!そんでえっと、配送になりますよね?はこべねーですもんねこんなの。あ、住所は・・・・タカヤ!」
そこでようやく振り向いた榛名さんは阿部が固まっているのにようやく気づいたらしい。
「・・・・っ・・・・んな馬鹿でけーもん入るわきゃねーだろうがぁ!!!」
といいつつはっきり断れなかったのは、誘惑に負けた阿部が悪い。

という訳で阿部はその日のうちに引っ越しを迫られた。とにかくどの部屋でもいいからグランドピアノがおけるくらい部屋が最低でも一つはあって、防音性が高いもの、もしくは壁に工事をして防音にすることを許してもらえるところ。これには建築関係の勉強をしていて、そういうことに昔からなぜか犬のように鼻が聞く水谷がかり出され、水谷はぶーぶー不平を言うわりにうれしそうだった。阿部といった不動産屋で阿倍に条件の良さそうなのをいくつかピックアップして見取り図やらをもらうと、今度は自分の勉強用といって片っ端から見取り図をもらっていた。見取り図を見て立体的に部屋を描く練習をしているらしい。これをすると、実際の部屋をみて見取り図が書けるようになるといっていた。水谷のおかげか、たった一日でぴったりの部屋をみつけた阿部は、水谷に電話させて次の日に入居できるようにし、ベッドと数日分の服と身だしなみ関係でチェロと楽譜だけを持つと、次の日新しい部屋にいってしまった。ちなみに部屋は最終的に不動産というより水谷のツテでみつけた。建築関係を目指す学生に主に貸し出されているマンションで、五階建てのワンルームツーフロアタイプで、かなり広い。ここの水谷オススメポイントは、部屋数が圧倒的に少ないという所だった。アトリエ風の部屋で、部屋はなんと二つしかない。寝室に使えそうな六畳一間の部屋とバストイレがあるだけで、後はキッチンのついただだっ広い部屋なのだ。阿部が安いからといってそろえていた前の部屋の家具はすべてデザインの統一性がなくて、はっきりいってダサかった部屋に不満を持っていた水谷は、阿倍の新しい家に新しく自らがコーディネートをしておくらしい。インテリアの勉強もしている水谷にとって、阿倍の部屋は許しがたいものらしい。
「待ってて阿部、俺阿部のためにいかにも〜って感じの音大生らしい部屋をつくってあげるから!!!」
金の出所は阿部んちのおばさんがずっと保管してた、阿部がちっちゃい頃に優勝したコンクールの賞金だ。小さかったから賞金の存在をしらなかった阿部は、おばさんにぽんとだされたそのお金に唖然としていた。これだけあれば西浦時代にマシーンやらなんやら買えたのにとすねまくりだ。
水谷の行っている専門学校はかなりフランクで、水谷は教授にインテリアショップを回ってくると宣言すると喜んで休講の許可を出されたらしい。一日でニドリとイケヤとフワンフワンを回った水谷は予算内で阿倍の部屋を完全に作り替えることに満足げだった水谷は、次の日阿部に怒濤の電話で叩き起こされた。
「てめーこれをどうやって三階の部屋まで運べってんだ!!」
水谷は阿部の部屋に入れることまでは考えてなかった。いや、考えてはいたが、水谷が考えていたのは何を部屋のどこにおくかであって、つまり、配送される家具を部屋に入れることまでは考えてなかったのである。宅配業者は建物の前のアスファルトにそれをおくと、さっさと帰ってしまったらしかった。
慌てて阿倍のマンションに行けば、あたらしいベッドが入った箱の上にどっかりと座り、自販機のココアをずるずるすすっている阿部がいたらしい。手にしていたのは携帯電話で、阿部は水谷をちらりと見やると、再び話し始めた。
「そー、だからマサヒロ・・・・そうそう、シュウタと良樹もつれてきて。あと忙しくなきゃ陸も。・・・そー。アホ谷のせいでな。おお、俺無理だし・・・・ん、頼むな。昼飯おごるから・・・ええ、いいよ別に。ん、そう。・・・おっけ、ん、じゃあな」
予算内にすべてをおさめるため、ほとんどの家具はロープライスハイクオリティのイケヤからだ。フラットパックのためほとんどが四角形で、運ぶのには問題ないけれども、阿部にはこの重さは運べない。それがわかっているからこそ、水谷はしおらしく謝った。
「ごめーん阿部・・・おれ浮かれてた・・・」
「まーいーよ。ちび四人きてくれるらしいし」
「ちびって後輩?津高と樋野と川原と飯沼?」
「そう。相変わらず野球やってっから力あるしなー」
どうやらわんこ四匹は五年たった今でも母犬にべったりらしい。

四人のわんこが先輩先輩いいながら上から下へいったりきたりしながら家具を運んでいる間にピアノがきた。阿倍の玄関には入らないから最初から分解されていて、設置とメンテナンスを含めて数時間かかりますがよろしいですかという業者の問いに軽く答えて、阿部は水谷に戻ってくるまでに家具の組み立てと配置を終えるように言ってからシュウタと陸を昼飯に連れ出した。良樹と正洋は水谷の手伝いに残って、半分作業が終了したところで入れかわりで昼飯にいったという。
部屋に入ったときに真っ先に目にはいったつやつやのグランドピアノに、阿部はいたく感激したらしい。ぼそりと「今ならモトキさんに抱かれてもいい」なんて言っちゃったあたり、そうとうハイテンションだったと思われる。それを聞きつけた後輩四人はだめです先輩だめそんなのだめだめだめだめえええなんて喚き、冗談だからと繰り返す阿倍の説得で帰っていった。

そして毎度、ガスの開栓やら電気屋やらなんやらの諸々とした工事は阿部は全部俺に丸投げする。覚える気も次からは自分でやってみようという気も全くない。
阿倍の部屋で電気屋さんとガス会社に電話した俺は家から作って持ってきたタッパーの飯を二人で食べ、今阿部は新しいベッドでごろごろしている。水谷の「阿部は多分いくつも部屋がある家は好きじゃないと思う」という予想はあたっていたらしい。水谷は六畳一間の部屋に勉強机と本棚を入れると、ベッドもダイニングもソファもクローゼットもすべてでっかい部屋にいれた。ウォールシェルフで所々を間仕切りしているとはいえ、ほとんど完璧に一部屋だ。阿部はいっつも水谷に文句をいうけれど、水谷がもたらす結果にはいつだって満足している。水谷はいつもプロセスがぐちゃぐちゃで順風満帆というやり方ができないが、いつだって結果は本人の思い通りだ。
「あーべ」
「んーなにー」
広い部屋なだけあって、アコースティックがものすごくいい。部屋の中心におかれたピアノは存在が重々しくって輝いていて、阿部はベッドからそれが美しいアングルでみられるその配置がいたくお気に入りらしい。チェロもすぐそばに立てかけてあって、阿部は目元が緩みっぱなしだ。
「よかったね」
「おお」
重いものを持つのに耐えられない膝のせいで後輩を四人も呼んで、自分がほとんど何も持てなかったことに阿部はきっとひどく傷ついたはずだけど、そんな悲しい気持ちを吹き飛ばすくらいにいい部屋が出来上がったんなら、水谷はものすごくいいことをしたんだね。
「ね、ガスあと二時間くらいしたら開栓にきてくれるってよ。おれ夕飯たべてっていい?阿部こんないいキッチン持ってんのずるいって」
「んなのは水谷に言えー」
この空間作りはね阿部、水谷がここでみんな集まれるようにしたかったからなんだよ。
みんなとは違って選択肢もなく野球をやめなきゃいけなくなった阿部が心細くないように、水谷はいつだってつながっていたいんだよ。





一年の時の合宿で何か心境が変わったらしい阿部は、料理を割とするようになった。阿部があまり怒鳴る事をしなくなったのはその頃からだ。

阿部は部活がなくてする事がない日はよくお母さんと料理をしている。シガポの話と自分の料理体験の相乗効果で阿部の中で「食が明日の自分を作るんだ」なんていう真理な考えが生まれて、元々凝り性で完璧主義な性格が料理にも現れたらしかった。聡明な女性は料理が美味いという言葉もあるくらいだし、勉強とはまた違った部分でひどく聡明な阿部に料理という奥深い作業は割と性にあったらしい。女性じゃないけど多分適用する。阿部のお母さんも料理が得意で阿部は舌が肥えているから、半端な物は作らない。
「阿部、何つくってんの?」
「肉じゃが」
だいぶ足の具合がよくなってきた阿部はキッチンにたちながら膝を曲げ伸ばししたり、股関節をストレッチしたりしながら手際よく野菜を切っていく。今日は一週間に一度の休養日で、ミーティングだけで終わる日だ。両親が親戚の用事で一晩帰ってこないため、阿部が食事の用意をしていた。俺はその話を聞いてぜひご相伴にあずかろっかな〜なんて考えていた。
「アレ?」
肉じゃがを煮込み始めた鍋の中の色がずいぶんと薄くて、栄口はつい首を傾げた。それに気付いた阿部がああ、と返した。
「うん、味かえてんの」
「阿部んちっていつも醤油ベースだよね?」
「おお、俺が塩っけのあるもん食いたいから、作ってみっかと思って」
「調味料なに、これ」
「ダシと塩だけ」
「へぇ。美味そう」
試しにちっちゃい人参と糸こんにゃくと肉を食べさせてもらったら(じゃがはまだ固かった)、ものすんごく美味くてびっくりした。
「え、俺こっちのが好きかも!」
「あー、お前さっぱり系好きだよな」
「おお好き。えーうまー!ちょっレシピ教えて!家で作ってみるから!
おれが一人できゃいきゃい騒いでいると、聞きつけたシュンが二階からおりてきた。俺も俺もとねだるシュンの口に、阿部が俺が食べたものと同じ物を放り込んでやる。
「えーーうまーーーー!!にーちゃんまだ?俺おなかすいたぁ」
「もーちょっと待ってろ」
中火にして落としぶたをすると、阿部はみそ汁作りを再会させた。阿部のみそ汁はいつだって豪快で、たまにこれがみそ汁の具か?と思うような食材が入っていたりするけれど、どれも美味しい。
出来上がった料理はすべて上出来。その日から阿部んちの肉じゃがは塩肉じゃがになった。
(三橋の食生活にまで手を出そうとするのはさすがにやめさせた)。





二年目の夏の初戦で、俺たちは実力差があるはずの初出場校に接戦で挑まれた。結果は11対10。八回で得た二点を守って九回を逃げ切ったけど、俺たちは全然うれしくなかった。監督は俺たち全員が思わず涙ぐむくらい激しく厳しく叱って、俺たちは辛勝の事実よりも監督をがっかりさせた事にひどく落ち込んだ。シードでよかったと思った。一週間、一週間はある。翌日の朝練には全員が一時間も早く来て、しかもみんな目が真っ赤だった。三橋は一年目の桐青戦九回の時のような目をしていて、充血した目と隈でみんなびっくりしたのを覚えている。

その日の夜、練習が終わってみんなグラウンドを去ろうとしていたとき、ふとマウンドのそばに阿部と三橋がいるのにみんな気付いた。まっくらだったからみんな詳しくはわからなかったけど、二人の肩は断続的に跳ねていたから、泣いていたんじゃないかと思う。しゃくり上げるくらい二人で泣いて、額をつき合わせていた。
次の日から三橋の不調が消えた。プライベートでの二人の交流はほぼ途絶えてしまっていたけれど、泉は相変わらず歯がゆそうだったけれど、二人がそれで幸せそうに一緒に野球できるならそれでいいかと思った。

そしてそれは正しかった。





シュンが結婚した。阿部が25の時だ。大学二年の時からずっとつき合っていた彼女が妊娠して、そのまま結婚した。シュンは23で、家業を継ぐ事になっていたけれど、それでも嫁さんも働いていたから生まれた娘はしょっちゅうおばさんや阿部に預けられていた。

阿部は相変わらず水谷の完全コーディネート部屋に住み続けている。かれこれ八年、水谷はうれしそうだ。一年に一回あるかないかくらいの割合で壁紙を塗り替えたりしている。
三年ほど前からは阿倍の部屋にかわいらしいちっちゃい食器や椅子が増えた。阿部は毎週月水金の夜と、たまに金曜の夜を跨いで土曜日まで「ひな」を預かっている。阿部家の遺伝子が見事に受け継がれた、おっきなたれ目の超かわいい女の子だ。
「ひなー」
たまたきていた水谷と田島が早速飲みだすと、阿部はいやそうに顔をしかめて二人の頭をはたいた。二人はワインだとあまり酔わないので、速攻でビールを取り上げる。そしてそれをひなが到底とどかない冷蔵庫の上部奥にしまうと、阿部はひなの椅子をかたんと引きながらこの部屋のどこかにいるひなを呼んだ。ひなは狭いところが好きで、よくいろんな所に挟まっては大好きなモモちゃんを抱きしめながら夢をみている。それでも阿部が一声かければ起きて走りよってくるんだから、なんというかやっぱり阿倍の人間フェロモンって子供相手にも聞くんだなぁと実感する。今日はひなはどうやら阿部のベッドと壁の超狭い空間にずぽっと挟まっていたようで、髪の毛も服もよれよれだ。
「ひな」
「おにーちゃんごはーん?」
「うん、ごはん。ひながする事はなんですか」
「おてて洗いまーす!」
きゃいきゃいと笑いながらひなが走っていく。変なところでブラコンなシュンは阿部がおじさんと呼ばれるのに耐えられなかったらしく、ひなが生まれたときからおじさんじゃなくておにーちゃんですよ、って教え込んでいた。あらえましたー!と突撃してくるひなを阿部は足で受け止めて、おっさんみたいによっこいせ、と抱き上げて椅子に座らせると、お下げに結んでいた髪を解いてポニーテールにした。
「いただきます!」
「いただきます!」
田島が元気よくそう言うと、田島になついているひなはそのまねをする。食べ方までまねようとするひなを阿部がとめて、ちっちゃいスプーンを持たせた。
「あー!おにーちゃん、ひなもそれたべるぅ」
「ぇえ?おんなじじゃん」
「おにーちゃんのいっぱーいずるいーひなもたべる」
「これちょっと辛いぞ?」
それでも食べる食べるとねだるひなにため息をついた阿部が、ちっちゃく切って食べさせる。ぴりっとした辛味にぴゃっと首をすくめたひなは、まだ食べるか?と聞いてくる阿部に首をふって、おとなしく自分の皿から食べ始めた。
「なーんかこの光景見覚えあるぞ。なんだ?」
その光景を見た水谷が記憶の片隅にひっかかった日常ににやにやして聞いてくる。水谷のいいたい事がわかった俺は、苦笑しながら隣の男を指差した。
「田島だよ田島」
「えっおれ!?」
まさかそこで俺の名前が出るとは思わなかった、と田島がびっくりする。
「田島が阿部にまとわりついてさ、結局諦めた阿部にお母さんみたいに世話焼かれてた時ににてる」
田島が成長痛で苦しそうにしていた時期の話だ。あのときの田島は元気を取り繕っていたけれど、いつもつらそうで阿部に甘えていた。
「ああ、あれかぁ」
田島はその事を思い出すと懐かしそうに目を細める。田島が穏やかな優しさにどっぷり浸かった幸せな時期だ。いたくて一瞬野球をやめたいとさえ思ってしまった自分を、大丈夫大丈夫となだめてくれたのが阿部だった。

ふと気がつくと、ひながぷぅううと餅みたいにふくれていた。阿部がびょーんとそれを引っ張る。ないしょずるい、ひなもいれて、そう懇願してくるひなについ頬が緩んで、でもってついでに拗ねてるときの阿部の顔にそっくりで、俺は「成長痛の意味が分かるようになったらね」とからかった。



ある晩、阿部は結婚しないのという問いにあんまり必要ない、と阿部は答えた。酒に酔っていたのかほほは赤くて、目はすこし潤んでいた。なんで、と聞いたら、ちょっとすねたように、だった子供作れねぇもん、と返した。えーかわいいじゃん子供、ひなの事だってかわいがってるくせにさぁ、って返すと、だって無理なんだもん、とぽつりと返された。そのときになってようやく、阿部の作れないというのが好みの問題じゃなくて現実的な話だと言う事に気付いた。家に帰ってからたまたま帰省していた勇輝に思いっきり殴れと頼み込んで、超ドン引きしながらも勇輝は変な兄ちゃんどっかいけとなぐってくれた。自分が今結婚してくれそうな大好きな彼女がいて超ハッピーだからって浮かれすぎた。ああ天国の母さん、俺の事ひっぱたいて。





県体優勝目前だった。二年目初戦のギリギリの勝負で火がつき、トントン拍子のように進んでいった西浦だったが、三回目のあたりから田島の不調が目立ち始めた。成長痛がひどかったのだ。今までも順調に伸びていたけれど、月曜日にはかった後また次の月曜日に計ると三センチものびていたなんて言う事がざらにあり。田島はその事実には飛び上がって喜んでいたけれど、練習でもいつものようなのびのびとしたバッティングが見られない事に、チーム全員が心配していた。
なんとかしのいで今年はついに決勝までたどり着いたけれど、肝心の田島が不発だらけで、田島の所為でないと解っていてもチーム全体の士気に関わった。チームバッティングといえども、相手も強豪だ。結局競り負けて西浦の二年目の夏は終わった。田島は謝らなかったし、それは当然だ。むしろこれで田島が完全に成長したときの産物がむしろ楽しみで、西浦は悔しいながらも期待に満ちて夏を終えた。

けれどいくら田島でも弱音をはくんだって言う事を、気付いてやれたのは阿部だけだったんだ。


痛い、と小さく呟きながら泣く田島の頭を抱きかかえながら、大丈夫大丈夫となだめていたのが阿部だった。西浦の中では阿部だけが唯一、膝の痛みをわかってやれたから。時折膝をゆっくり包んでさすってやったりして、根気よく田島につき合っていたのが阿部だった。それを三橋は、よくこっそりと羨ましげに見ていた。
「もーやだ、やきゅーやめたい・・・」
「大丈夫大丈夫、へーきだよ、すぐ直る」
「コレはアレだ、多分花井よりでかくなったら止めてやるとかそういう神様のオツゲだ」
「花井とか無理だよー・・・・」
「無理じゃねって、お前いま175あんじゃん、肉薄してっぞ」
「ナニソレうめーの?」
「肉薄って表現な、メシじゃねーから」
「なんだよ阿部の役立たずー」
「さようなら」
「ごめん悪かった待ってー・・・いくなぁー・・・オレをおいて死ぬなぁー」
「ったく」
そしてまた膝をさすり頭を抱き、大丈夫大丈夫と阿部は田島をなだめた。それを三橋は、羨ましそうにずっと見ていた。





「ばかやろう!!」
残された三橋は、何が起こったのかもわからずにただ呆然と突っ立っていた。そばで見ていた部は事のなりゆきに目を白黒させていて、そして叫んで走っていった田島の姿に、俺たち全員は唖然としていた。





花井の名前イヤ病が直った。もとい、花井が自分の女名を克服した、のは二年の時だ。新入部員に下の名前が「れい」と「さくら」というのが入ってきたからだ。それでも最初のうちは花井も同期にぶちぶち愚痴をこぼして呆れられていた。秋吉「さくら」は「梓」と違って「桜」でなく「咲良」だからまだましだとか、「れい」である本田も漢字がちょっとかっこいい嶺だからなんだとか。でも本田は真っ黒な艶髪に女っぽい顔立ちで、あまり身長も高くないもんで早々に同期かられいちゃんと呼ばれ始めたのを見て花井もようやく目がさめ、自ら仲裁に入っていった。秋吉ははじめから本田のフォローをしていたが自身がさくらなもんであまり効果はなく、さくらちゃんと呼ばれ始めて途方に暮れていた時に花井が一年に自分の名前を暴露した。これにびっくりしたのは二年だ。花井が自らフルネームを名乗る事なんてまず無いと思っていたから、特に名前でからかっていた泉と水谷は感心していた。頼れる自慢のキャプテンの名前がアズサだということに「れいちゃんさくらちゃん」騒動は一年の中で治まりを見せた。本田が実に男らしい性格をしていたのも一因だ。二年には密かに「泉二号」と呼ばれていた。
それからは花井も自分の名前に過剰に反応する事はなくなって、もちろん連呼されたりちゃん付けされたりするとムッとはしたが、前のようにぎゃあぎゃあ怒る事はなくなっていた。
ただしこれが済んだと思ったらまた色々と名前でごちゃごちゃしだした。
「おい泉!」
「あ?」「はい!」
阿部が二年の泉を呼ぶと、泉はフツウに振り返って返事をしたがそこでたまたま近くにいた一年の和泉も返事をした。和泉は漢字は違うが読み方も発音も泉と全く同じだったので区別がつかなくなり、下の名前で呼ばれるようになったし、名字は違うが下の名前が大地という一年が二人いて、「大地」とだれかが呼ぶと二人ともハイ!と返事をするのでこれもまた収拾がつかなくなった。
一年生たちはまるで子犬のようだったりちっちゃな恐竜のようだったりしてたびたび二年の手を焼かせたが、仲が良かったのでほとんどが大事にならずに終わった。
「ねぇねぇねぇねぇ」
「水谷うっせぇ」
「あのさぁ、一年らって皆名前で呼び合ってるよねえ」
「あー?あー」
一年たって、もう水谷もいちいち「ヒドイ!」といわなくなった。そのかわりさらっとかわすが、背中に抱きつくというパターンができた。
「そろそろ・・・俺たちも名前で・・・・なんつってごめんあーごめん殴んないで!」
「キショイ言い方すんな!」
「ごめんってばあ!」
「センパイたちって仲いいすよねー」

フツウにこういう日が続いたら一番いいよね。





「なぁおい田島、どうしたんだよ、機嫌なおせって」
「嫌だ」
「何があったんだよ、お前が三橋と喧嘩するなんてさ、話してみろって」
「嫌だ」
「三橋キョドってんぞ、お前どうにかしてやれって」
「嫌だ!」
「あーもう!阿部!お前もなんかいえって」
「いえってなにを」
「なんでもいーから!」


「・・・・・・・・」
「・・・・・・・」
「・・・・・・もう皆いったけど」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・三橋がなんかお前にヒドイ事いったん?」
「・・・・・・・・・」
「話す気になんねー?」
「・・・・・・・・・・・・・・・た?」
「あ?」
「三橋がずっと俺らの事見てたって、知ってた?」
「は?・・・俺ら?・・・・・・・ああ、膝の?」
「うん」
「あいつ見てたのか?それがいやなのか?」
「違う」
「・・・・・・・・・見てたってことを言わなかったの・・が?・・・・・・違うか」
「・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・った」
「え?」
「・・・・・・って言った」
「・・・・?」

「オレも膝ケガすればよかったっていった!!」


ばかやろうってそういう事か。





23・・・to be continued
続きます
イメージに使ったお題:愛がなかったわけじゃない/ 僕を忘れようだなんて/ 君が咲く庭/ これ以上どこから愛をしぼり出せと言うのか / 耳を塞げ/ 優しく生きたかったね/ 信じてないのに祈るのね/ ”永遠”を口に出来た頃/ あなたが望むなら あなたが願うなら あなたが祈るなら/ いつも勇気を欲しがっていた/ 不誠実な恋だったから/ 悲しいふりをしてただけ/ 後悔するには遅すぎた/ ねぇ、蔑ろにしたのはあなたでしょ/ 君はあの時あんなに打ちのめされていたのにね/ いつか神に祈る日が来ても、幻滅しないで傍にいてくれる? / 狙いを定めて、外さないでね/ 一日でも早く幸せになって、その日々が一秒でも長く続きますように/ 僕らは同じ空の下、太陽の許、命の環を紡ぎ、一片の嘘もなく/ その正しさの価値を教えて/ 君なんかに優しくしたばっかりに/ 君に栄光を

2011年6月26日