真利は弟と仲がいい。そう見えなくったって、仲はいい。
 七つの歳の差というのは大きいのだ。勇利が自分で立ってあちこち可愛らしく歩き回っていた頃、真利は小学四年生らしくおませで自意識の高い女の子だった。ぷくぷくした手を引っ張りながら保育園まで毎朝毎夕、送り迎えしたのは真利で、その日の出来事を真っ先に聞いてやるのも真利だった。勇利が小学生になったと同時に、真利は中学生になり。とうとう一緒の学校にいけるのだとはしゃいでた勇利の勘違いを正し、なだめて涙を拭ったのも真利だ。バレエを始めた勇利の間食を管理してやったのも真利。一緒に風呂に入ってやったのも真利。寝かしつけてやったのも真利。居間のこたつでテレビを見てたら、すっぽり足の間にはいってくるおチビさんを、ぎゅっと抱きしめてやったのも真利だ。
 真利がさびれた田舎に飽き飽きしてちょっと悪いことに手を出し始めた時、勇利が次第に世界に羽ばたく才能の持ち主だと知った時、真利と勇利は年頃の異性の兄弟らしく、よそよそしかったり、ギスギスしたり、気まずくなったこともあったけれど、基本的には仲がいい。結構雑な関係性だが、真利は勇利をあれこれ使うが、真夜中にアイスを買いに行かせたことはない。親に黙って朝帰りをして、玄関の鍵が開けられなくて途方に暮れていた時に、弟の部屋に小石をなげて開けさせたことはある。べったりくっつきはしないが、真利にべったりだった勇利を引きはがしたのは真利だが、手を繋いだりはしないが、なんでも話せる仲ってほどでもないが、仲がいい。だから真利には、弟がついに配偶者として連れ帰ったヴィクトルをしばき倒し、こき使い、ふんぞり返ってあれこれ命令する権利がある。勇利のハズバンドなら真利の義弟だ。つまり真利より下の立場なのだから、それが正しい形なのだ。



ヴィクトル・ニキフォロフの婿修行



「ヴィクトー?」
 おっとりした両親だが、さびれたこの街で生き残っている時点で、経営者としての手腕はいいのだろう。娘の真利のことも正しく従業員として扱い、給料も休みも規定通りにくれている。休みはバンギャ仲間とライブに行くなり、遠出をしたりするが、だらだら寝そべっている日もある。
 弟はミナコの荷物持ちとして連れて行かれた。置いて行かれたヴィクトルは館内着のまま、居間でマッカチンとテレビを見ていた。冬だというのに、夏用の館内着を着ているなんてどういうことだろう。
「はぁ〜〜〜い」
 ボサボサの頭で答えたヴィクトルは、色男の影もない。すっかりこの田舎の芋臭さに染められてしまった。逆にこの温泉も、ほんの少し異国情緒がにじみ出るようになってしまった。その代表の一つが、真利のヴィクトルの呼び方だ。勇利が英語で Victor と呼ぶから、最後のRが聞こえるか聞こえないかで、「ヴィクトー」に聞こえるのだ。いつしかそれが真利にもうつってしまって、ヴィクトルー? がヴィクトー? になってしまった。勇利の英語学習に誰よりも付き合ってやったのは真利だが、実際に英語を喋る人間と生活して、無理にカタカナにはめない方が、英語は言いやすくできているのだと真利は学んだ。
「あんた、今日、暇よね」
「……ダ! うん、ヒマ!」
 ヴィクトルが少しずつ日本語を耳で覚え始めていると気が付いた時、勝生家は彼に英語で接することをやめた。会話がスムーズに行かないし、いまだってヴィクトルはいちいち頭の中で翻訳しているのだろうが、十分意思疎通ができている。聞いてても全く違和感なく発音できるようになった単語もいくつかある。おそらく、ロシアでも勇利と日本語を交えて生活している。
「んじゃ、手伝って。あんたにみっちり仕込まなきゃいけないことが山ほどあんのよ」
「ん? マッテマッテ。モッカイ」
「てつ、だって。いい?」
「……テツダッテ! アー、はいはいはいはい! ヨカヨー!」
 このだらけた相槌の仕方、確実に我が家に染まっている。誰だよ、あんたに「あーはいはいはいはい」なんて仕込んだの。さては勇利だな、ロシアでヴィクトルを同じようにあしらっているに違いない。
「チカラー、モチ?」
「違う違う」
 ヴィクトルと連れ立って、家用のキッチンに行く。あいにくと力仕事は今日はない。オフの日にそんなことをしてたまるか。

 勝手口に近いキッチンはあまり使われないからか、物は多いが綺麗だ。家族は普段、まかないついでに調理場でできたものを居間に運んで食べてしまうことが多い。ここがよく使われていたのは、勇利がまだ小学生だった頃だ。勇利と二人、両親の邪魔にならないようにここを生活の中心にしていた。空腹が我慢ならなかった時は、調理場から野菜と米を少しばかりくすねて、このキッチンでおにぎりとお味噌汁を作って食べた。
「今日は、シフォンケーキ、作るよ」
「シフォ……ナニ?」
「英語でなんて発音すんのかなんて知らないわよ」
「ケーキ?」
「ケーキ」
「チュス、……ヅッ、ツッッ……クール。ネ」
「お。言えたじゃん、つーくーる。はい」
「トゥークール。ア〜〜! モ!」
「ツクルー」
「チュッ……ヅクルー!」
「近いよ」
 材料やボウルを出しながら、背後の男に手渡して行く。手際よくテーブルに並べていきながらも、ヴィクトルは不満げだ。ツがどうしてもTとSの組み合わせになって、どうも日本語特有の硬いツ音にならない。グラニュー糖、薄力粉、少々のサラダ油にベーキングパウダー。その他諸々。最後に卵10個を手渡して、真利は長身の前で仁王立ちした。今日は色々言ってやらねばならないことがある。
「さて、ヴィクトー」
「ハイ、マリ」
「あんたは勇利と結婚したんだよね」
「……ケッコン! うん! そー! ユウリノ、ダナサン!」
 いつの間にか、このだらけた笑顔がちょっと可愛いと思うようになってしまったのがダメだった。テレビの中と目の前の男とがうまく重ならない。真利が着ろと言えば、ヴィクトルはおそらく真利が小学校で使っていたギンガムチェックのエプロンと三角巾だってするに違いない。
「事実婚でも、結婚は結婚。ということはあんたはもう、勝生家の婿よ。うちに婿入りすんだったら、それなりの礼儀をわきまえてもらう」
「ん、ん? マッテ、モッカイ。オネガイ、シマス」
 待って、もう一回、お願い、します。この四つの単語は、おそらくヴィクトルが一番使うものだろう。ゆっくり区切って話せば、もうヴィクトルは大体の日本語を理解できる。
「あんたは」
「うん」
「うちの、婿」
「ムコ?」
「Son-in-law。オッケー?」
「……ンフフフフ、オッケー」
「ルールを覚える。勝生家の」
「はい」
 いい返事だ。さすがにギンガムチェックのエプロンは勘弁してやることにした。とはいえ、滅多に使われないキッチンだ。探してもサイズの小さいのしかなく、真利は諦めた。エプロンは、なくてもいい。
「じゃあまずははい、卵割って。卵白と卵黄をわける」
 一個だけ手本を見せてやり、作業を引き継ぐ。思った以上に手際がよかった。ロシア人は自炊率高いとどこかで読んだ気がするが、もしかしてその通りなのかもしれない。あとで勇利に、ヴィクトルの料理の腕前を聞こうと決めた。
 ヴィクトルが卵の殻をうまく使って分けている間、真利は他の材料を測っていた。もうここ五年以上はないが、子供の頃からよく作っていたレシピだ。手順も分量も頭に入っている。真利がちょうど全てを終えたところで、ヴィクトルも終わらせたようだった。
「マリ、終わった」
「人を呼び捨てにすんじゃないわよ」
 ヴィクトルがぽかん、と真利を見る。少し被せ気味に喋ってしまったからかもしれない。だがヴィクトルは耳がいい。うまい具合にわかった単語と知らない単語をより分ける。
「ヒトオー?」
「呼び捨て」
「ヨビステ、ニ、スルナ?」
「そう」
「ヨビステ、なに?」
「名前をそのまま呼ぶこと」
「ナマエ……」
「失礼。Rude」
「エッ! ナニガ rude? ボク、マリニナニスル? アー、シタ?」
 途端に慌て出すヴィクトルに、真利は面白くなって少し笑った。外国人に何言ってんだろ、あたし。ファーストネームで呼ぶなんて、普通なのに。出会って二年近く経って、意外にもこの男が収まった新しいポジションに、真利は満足しているらしかった。
「例えば」
「タト……あー、um、エット、タトエバタトエバ……あ! For example、ね?」
「そう。例えば、ロシア政府のやつが、大統領をいきなり、おいプーチンつったら失礼でしょ。ミスタープレジデントでしょ」
「ハ? Putin?」
 なんでここでプーチン? ヴィクトルの戸惑いももっともだ。英語で噛み砕いて教えてやる。ヴィクトルの英語記事を読みたくて、英語を勉強しはじめた勇利に一番付き合ってやったのは真利だ。おかげで高校時代、英語の成績はすこぶるよかった。
「あー……If you work for the government」
「Yeah」
「You don't call Putin by his name. You call him Mr. President. Right?」
「……Oh……ナル……ホード。エト……マリ……サン?」
 ヴィクトルはもうすっかり日本の文化に馴染んでいる。人をさん付けで呼ぶこと。会釈でほんの少しカクン、と首を落とすこと。努力家なのだ。勇利と勇利の家族を知ろうと努力をしてくれる。生意気でも、洒落たクサい外国人でも、そういうところは嫌いじゃなかった。だから、呼ばせてやるのだ。
「姉ちゃんでいいよ」
「ネーチャン」
「勇利があたしをそう、呼ぶでしょ」
「マリネー、マリネーチャン」
「そう。弟に、呼び捨てされる筋合いないから」
「ん?」
「あんたがいつか出て行く外国人のままなら別にマリでもよかったけどさ。あんたはうちの家族になったんでしょ」
「ン、ンン……」
 しまった、もっとゆっくりね。こういうのって、苦手なのだ、本当は。でも仕方がない、もう家族になってしまったから。法律で二人が夫婦であると示す証拠はない。ヴィクトル・ニキフォロフはあいも変わらず赤の他人だ。でもそうではないと決めたのだから、こういった面倒な努力も、正直死ぬほど面倒だけれど、苦ではなかった。
「あんたは、もう、うちの、家族。家族なら、ちゃんと、目上の人を敬ってって、え〜……家族なら、ちゃんと、パパ、ママ、年上、Olderだよ、の人にリスペクト、見せる。礼儀ね。マナー。Be polite」
「……ハイ。んふふふ」
「良し」
「マリ、ネーチャ?」
「まりねーでいいよ」
「マリネー」
「そーゆーことだよ、ヴィクトー」
「んふふふ」
「あんたその笑い方、やめた方がいいよ」
 ほんっっとうに機嫌がいい時の勇利にそっくりだ。やはり似るものらしい、夫婦って。勇利だっていつの間にか、考え事の際に唇に指を当てるようになっていた。
「あんた、卵白担当ね。ハンドミキサーはなし」
 卵白にグラニュー糖だとかを適当にいれて、真利はヴィクトルに泡立て器を差し出した。ハンドミキサーはあるが、使わせてはやらない。いじめている訳ではない。菓子作りはさすがに経験がないらしいヴィクトルは、嬉々として卵白を泡だて始めた。早く、もっと早く。そのうち腕が痛くなるということは教えずに、真利は鬼姉になってみせた。

「マリネ〜〜〜! コレ、ドンナジカン!? オワラナイ!」
 ふるってもふるっても変わらない。ハンドミキサーを使わず泡立てる卵白は、本当に大変だ。嘆くヴィクトルに笑って、真利は薄力粉を卵黄に足した。もったりしだして腕が重い。
「どんな時間って変だな。What did you say?」
「How long do I have to keep doing this!?」
「ああ、いつまで、ね。How long はいつまで。で、やる、とか、やれば、いい、とか」
「コレ! イツマデ! ヤレバ!?」
「真っ白のクリームになるまでだよ」
「ナンデ mixer ツカウノダメ!?」
「労働は尊いものだからよ」
「ハ!?」
「姉の前に弟は人権なんてないものなのよ」
「なに?」
「あたし、姉ちゃん。あんた、弟。パワーバランス。弟、人権、ない」
「ジンケ、なに?」
「Human rights」
「!?」
「あたしがOK、っていうまで、やれ。OK?」
「……は〜〜〜い」
 がっくり来ている姿はすこしだけ可愛い。どことなく勇利の面影がある。本当に似て来るんだなぁ、夫婦って。あたしに春がくるのはいつになるやら。出会いを探すところから始めなければならない。しゃっかしゃっか混ぜるヴィクトルの尻を膝で蹴り上げる。いつまでたっても終わらないよ、そんなんじゃ。姉の前では霞む弟の人権の薄っぺらさを、ようやく理解したらしい。ボウルに目を向けて、口を引き結び、一心不乱に泡立て器を振る。そう、ヴィクトル。その顔、眼差し、勇利にそっくり。似てきたよ。あんた、あたしの弟に似てきた。

 そのうちヴィクトルの卵白はツノが立つくらいにふんわりとして、彼は大げさに喜んだ。携帯で写真を取るまでして、そしてそれをSNSにアップしたのだ。もうやらない、そう言って。いいや、やるよ。あんたはやる。真利はヴィクトルのボウルに自分の黄色いタネを流し込んで、またもや混ぜるように命令した。ふわふわの卵白と、もったりした卵黄がマーブルのように混じって、溶け合い、一つになる。
 ふたりそろってオーブンの前にしゃがみ込む。つまみをヴィクトルの長い手指に摘ませて、全ての工程を説明した。
「コレ、ガス式だから予熱早いよ。180度、ヒャク、ハチ、ジュウ。そ、予熱ね。予熱って……」
「Preheating?」
「そうそう、多分それ」
「なんで、ケーキ、ツクル?」
 ごうごう音を立て始めたオーブンは、すぐに温まる。
「勇利はさ、ずっとロシアにいるの?」
 真利のそんな質問に、何を思ったのか。曲解したのか、答えが見つからないのか、ヴィクトルが口をもごもごさせながら言葉を探している間に、オーブンはビーッと音を立てた。ヴィクトルに型をオーブンに入れさせ、調理スタートのボタンを押す。50分からカウントダウンを始めたタイマーを見て、ヴィクトルはゆっくりと真利を見た。
「……ユウリ、ボクノ、ダナサン。Skate、ズト、スル、Russia、イチバン」
 引き離されるとでも思ったのだろうか。少し下がった眉は頼りなさげだ。
「別に、それは、いいよ。あいつも、あんたも、大人。でもさ、二人でロシアにずっといるなら、いざという時助けてやれないよ。いざ、は emergencyね。どうする? 勇利と大げんかしたら」
「ゲンカン?」
「おおげんか。おお、けんか。おおはbig」
「え〜〜、シナイヨ〜〜! ……wait、マッテ、タブンスル……」
 するだろう。去年のグランプリファイナルでもしたらしいじゃないか。あんな金色の指輪を見せびらかしたあとで。これを言うと勇利は拗ねるけれど。
「勇利、怒るとめんどくさいよ」
「シ、テル! ユウリ、メンドイケド、すき、ノデ、ダイジョブ」
 自信満々だ。幸せそうで何より、腹が立つくらいだけれど。でも、弟をこうまで真っ直ぐに、好きです、愛しています、彼と一生一緒に生きていきます、そう言ってくれる男は中々いない。ただの面食いだと思っていたが、弟の審美眼は中々のものだったのだ。
「そういう時にさ、仲直りする方法、教えてあげる」
「ン?」
「喧嘩、やめる、方法。方法はway」
「Oh! オネガイ、シマス!」
 ささっと姿勢を正すのは好感が持てる。ヴィクトルと真利は、オーブンを挟んで床に座った。こん、と後ろででオーブンの窓を叩く。タネがふくらみはじめるまでには、もう少し時間がかかる。
「このケーキはさ、勇利がまだ小学生の時によく作ってたんだよ」
「Hmm」
「We were little. Yuri was still in elementary」
「オッケー」
「うち、お父さん、お母さん、忙しい。でしょ?」
「ウン」
 うちの両親は忙しい。本当に本当に忙しい。まだこの辺りが賑わっていた頃、もう少し従業員がいた。母さんはわりと居間に顔を出して、寂しがりで甘ったれの勇利はべったりくっついていたのを真利は覚えている。
「おやつ、あたしと、勇利で、作ってた。このケーキ、勇利の一番」
「イチバン!」
 そう、このケーキは二人の傑作。クリームも作れば最高。タネに色々混ぜればもっと最高。クリームにジャムやチョコレートソースをかけると、さらに最高。
「喧嘩しても、あたしが勇利、ケーキ作るよ! って言うと、勇利、ぶすっとしてても、あ、ぶすっていうのは、こういう顔」
「ハハハハ! ニテル〜〜!」
 真利の顔芸はよっぱらった父親並みにすごい。特に勇利の顔真似は得意だ。口下手の代わりに、真利の弟の顔は表現力に満ちている。それがわかりにくい繊細なものだとしても。
「ぶすっとしてても、泣いてても、絶対、来る。それでね、勇利は、卵白担当。卵白は、あんたがやったの。Egg white。あたしは卵黄担当。Egg yolk。担当、はperson in charge。オッケー?」
「OK」
「ちっさい頃は、ミキサー、使ってた。けど、力持ち、なってからは、手、使ってた。勇利の話ね。さらっさらの卵白、あ、さらさらわかる? そう、混ぜて、混ぜて、ひたすら、ひたすらはずっとって意味、混ぜて、ふわふわ、なるまで、やる。それを、勇利はずっと見る。見ると、心、落ちつく、って言ってた」
「うん」
「ふわふわになったら、あたしの担当、卵黄、egg yolk と混ぜる。混ぜる時、協力しなきゃいけない。協力。わかる?」
「Yes」
「その頃には、勇利の心はほぐれてる。真利姉ちゃん、ごめんなさいってね。あたしも、いいよって言う。二人でオーブン見て、膨らむかな? 大丈夫かな? ってワクワクする」
「ワクワク、スル……」
「勇利は、めんどい。でも、考える、時間、あげる。そしたら、全部、大丈夫。言ってること、わかる?」
「ウン……」
 ヴィクトルは静かに返事をした。オーブンの中を見れば、ふくふくとタネが膨らんでいる。ここからある程度まで膨らみきったら、中にまで熱が入る。
「勇利が、卵白、egg whiteね、やってる時、あんたが喋ってもいい。勇利、僕、こういう、気持ち。勇利は、ちゃんと聞く」
 ヴィクトルが頷く。神妙に、真利の言うことを刻みつけるように。
「混ぜる時、勇利が、くっつく。で、言うよ。ヴィクトー、ごめんねって。あんたが言ってもいいよ、勇利ごめんねって。勇利はいいよ、っていうから」
 なんとなく、真利は手を伸ばして、その銀色をまぜっかえした。手触りがいい、びっくりするほど。日本人とはもう人種からして違うのだった。さらりとしていて、ツヤツヤとしていて、柔らかい。こういうのを毎日隣に置いて、真利の弟は笑って生きている。しかしこの美しすぎるくらいの男もまた、真利の三つ年下なのだ。もう弟だ。半裸でグッチのイメージモデルをしていようが関係ない。真利は姉で、ヴィクトルは弟だ。尻を蹴り回したって許されるのだ。
「焼く前に、抹茶とか、紅茶の葉っぱとか、潰して、入れてもいい。Crushね、入れて、混ぜる。味が変わる」
「おお……」
 頭いい、という顔で見られるのは恥ずかしい。自分の程度が低いのか、ヴィクトルが単純に阿呆なのか、わからなくなる。
「喧嘩したら、言えばいい。勇利、ケーキ作ろう。勇利は、黙って、一緒に準備する。やりたい方が、卵白やる。大変だから。でも、黙って作業できるから」
「ん? サイゴ、モッカイ」
「黙る、考える、いちばんの時間」
「ああ。OK」
 ヴィクトルはそれきり黙って、けれど嬉しそうに口元はゆるゆるのまま、膝を抱えた。鼻歌が漏れ出す。勇利の好きな曲だった。真利は結局、バレエもスケートもやらなかったけれど、七つ歳下の弟の、全てに付き合ってやったのは真利なのだ。勇利は自分のCDプレーヤーを当時は持っていなかった。毎晩毎晩、真利の部屋に押しかけられて、強請られるままにバレエやフィギュアで使う曲をかけてやった。
 出来上がりを見て、オーブンからケーキを取り出す。ギンガムチェックの鍋つかみを両手にはめるヴィクトル・ニキフォロフ。勇利がみたらよだれを垂らしながら写真を取るだろう。勇利の成長期がくる前、壁の高いところにヴィクトルのポスターを貼ってやったのは真利なのだ。どれほど弟がヴィクトルを好きか、真利はようく、知っている。
「ビンにひっくり返して。そう」
「コー?」
「いいかんじ。ねえ、あのさ、最近父さんと母さんがちょいちょいロシア語の勉強してるんだよね」
 余熱を取るため、型をひっくりかえして休ませる。勇利がある日、得意げな顔で学校から持って帰ってきた牛乳瓶は、シフォンケーキ専用だ。ビンを支柱にして、シフォンケーキの真ん中の穴の部分をのせる。
「ん? Russiaゴ? Russian?」
「そう、父さんと、母さんが、勉強」
「Oh! テ、ツダウ! ボク、 Russiaジンデス!」
「いやみりゃわかるわ」
 しっかりバランスが取れていることを確認し、ふたりでほっと息をつく。緑茶やほうじ茶ばかりが出てくる我が家だが、このキッチンには紅茶も置いてある。牛乳は調理場から拝借しなければならないが、ミルクティーだって入れられる。
「そろそろかしら〜って言ってるよ」
「ソロソロー? なにがソロソロー?」
 ヴィクトルは携帯のメモ帳にレシピをメモしているらしい、返事がおざなりだ。
「いつ呼んでくれるんかね、ヴィッちゃん。パーパとマーマって、って」
 意味を理解したときのこいつの顔を、写真にとって勇利に送ればよかった。世間じゃいい歳したアラサーの男が、顔真っ赤にして、ふにゃふにゃ笑って、ちょっとだけ目が潤んでいて。ハァ、イケメン。目の保養だわ、本当に。
「レシピ覚えた?」
「うう、マリネー、カイテ……」
「しょーがないな。ほんと弟二人手がかかってしゃーないわ」
 弟の勇利は、ヴィクトルのところにお婿に行った。ヴィクトルも、うちにお婿に来た。あたしに弟ができたのだ。いずれ妹ができると思っていたのに、たった三つ下のロシア人。でも、婿入りのくせに勇利を連れて行くんだから、きっちりきっかり、勝生家の婿修行は受けてもらわなければならない。勇利の機嫌の直し方とか、勇利の好きな味噌汁の塩梅とか、勇利の好きな柔軟剤とか、そういうことを。それらはどれも母さんの仕事だけれど、シフォンケーキの作り方はあたししか知らない。ミナコ先生だって知らない、あたしと勇利のルーティーンなのだ。旦那さんになるんだったら、それくらい覚えてもらわなきゃね。
 泣いてる男って面倒なんだよ。はやく泣きやめ、弟よ。





2017年3月2日(初出:2017年1月12日)