距離に意味など



 ショートプログラムの夜は慌ただしく過ぎていった。
 兎にも角にもまずはヴィクトルを飛行機に押し込むことが最優先だと意気込む勇利と、勇利をサポートすることをヤコフが約束してくれるまでテコでも動かないと主張するヴィクトルの間に挟まれ、ヤコフとその場にいたユーリは揃ってホテルへと戻った。ホテルのエレベーターに乗り込んで、イライラと足踏みする勇利をよそに、ヴィクトルはヤコフにひたすらに懇願していた。勇利とヴィクトルの部屋がある階に到着した途端、勇利はヴィクトルの胸ポケットからルームキーをひったくり矢も盾もたまらず駆け出す。
「ユウリ!」
 ヴィクトルの声も聞かず、勇利は中へと入って行く。オートロックの部屋から締め出されては敵わない。ヴィクトルは慌てて駆け出すと、ドアが閉め切る前に足を滑り込ませた。
「ヤコフ! いいから、お願いだから来てよ。たった一日、明日だけでいいんだ」
 ドアをストッパーで止めながら、焦った顔でヴィクトルがヤコフを呼ぶ。こんな顔は久しぶりだった。もう10年じゃきかない年月をヴィクトルの育成にあててきたヤコフでも、片手で数えるほどしか見たことがない、心底焦り、切羽詰まった顔だった。いくら無鉄砲に自分のもとを離れ、選手生命を棒にふるような真似をした傍若無人な呆れる生徒だって、ヤコフにとっては息子同然だ。抱きしめると、ヤコフの心臓にようやく耳が届くくらい、それよりも小さい頃から、ヤコフはヴィクトルを育てて来たのだ。これから一生、何があってもヤコフはヴィクトルを忘れることなんてできやしないし、彼の活躍を、それがどんなものであれ、見ないふりだって到底できない。
 ちらりと隣のユーリを見ると、ぶっすりとふくれっ面ながら彼は沈黙を貫いていた。付いて来たということはそれなりに関心があるのだろうが、ここでヴィクトルが離れるのが面白くないというのがありありと見て取れる。そんな彼でも、マッカチンの一大事が、それがただのペットの危篤なんて一言で片付けられるようなことではないのが想像できたから、何も言わずに黙っているのだろう。
 ヤコフが部屋に足を踏み入れると、旅支度はほぼ終わっていた。勇利はヴィクトルの持ち物を把握しているようで、財布、パスポート、携帯など最低限のものをバッグに詰めているところだった。ヴィクトルに無理やりコートを着せ、マフラーを巻いているその姿は鬼気迫るものがある。ヴィクトルはヴィクトルで、なんとか勇利に関心を向けてもらおうと、必死になって彼の肩を掴んでいた。
「待てユウリ、まずはお前のコーチの代わりを探すから、それから」
「そんな暇ないから! 今すぐいってヴィクトル、僕はひとりで大丈夫だよ!」
「大丈夫なわけないだろう! こんなところで一人でどうする、ロシア語だってわからない、ここは日本じゃない」
「未開の地じゃないんだから英語は通じるよ! 今すぐ空港向かって、カウンターで一番早い日本への便! ちゃんと福岡までの乗り継ぎも買ってよ、あと...」
「ユウリ! いうことを聞け!」
「ヴィクトルに言われたくない! いいからさっさと行けよ!」
「行かない! ユウリを一人残してはいかない!」
「ヴィクトル!!」
 ヴィクトルを部屋の外へと押し出そうとする勇利とそれを必死で阻むヴィクトルの攻防に、ヤコフは割って入るほかなかった。ユーリに目配せをし、ドアを閉めさせる。彼はすんなりということを聞いた。こんな修羅場めいた男のやかましい喧嘩を、ホテル中に響かせるわけにはいかないと思ったのだろう。
「まずは落ち着け。ユウリ・カツキ、落ち着きなさい。君は冷静になれていない」
「僕は冷静ですミスターフェルツマン! ヴィクトルのコーチのあなたなら、彼にとってマッカチンがどれほどの存在かわかっている筈です!」
「わかっている、わかっているから落ち着け」
 伊達に70年と生きていない。いまの勇利以上に冷静さを欠き、激昂する選手だってたくさん見て来た。ヤコフは分厚い手でそっとヴィクトルと勇利の肩を抱くと、有無を言わせない力強さで二人をソファに誘った。ドアの前にはユーリが番犬のように立っていて、これ以上は押し通せないと思ったのだろう、勇利は苛立つようにソファに座った。その隣にヴィクトルが、緊張した顔で座る。二人の状態に反して、ヴィクトルの手をそっと握ったのは勇利だった。何かを日本語でつぶやいている。
「.....ユリオ」
 貧乏ゆすりがとまらない勇利の声に、ユーリが顔をあげた。
「携帯で、成田までの直行便探してよ......一番はやく着くやつ。ミスターフェルツマン、それくらいはいいでしょう......?」
 ヤコフが頷くのを待って、ユーリはすばやく携帯を取り出した。長谷津までの行き方は覚えている。

「ユウリ、今このタイミングで、コーチがいないというのは大きい。それはわかっているな?」
 残り4枠しか残っていないファイナルへの切符を取るためのラストチャンス。これに一人で臨むということがどれだけの事か。
「わかっています。わかっているけど、ヴィクトルは日本に戻らなきゃダメです。ここで彼が残って、僕がファイナルへ進めても、もしマッカチンにもしものことがあったら、そこにヴィクトルがいなければ、僕はきっと喜べない......ヴィクトルがいることの方が不安で、きっと明日は滑れない......」
 勇利はヴィクトルの手をぎゅうと握った。ヴィクトルはさっきから何も言わない。
「ここはロシアだ。今日の君の滑りは素晴らしかった。だがそれでも、国民の大多数は君にたいして反発的だ。それをヴィクトルがいなくて乗り越えられるのか?」
 ヴィクトルがそこで口を開いたが、ヤコフは目で黙らせた。勇利は怖気付きもせず、ヤコフをまっすぐ見返した。
「大丈夫じゃないです。すごく怖い。でも幸い僕はロシア語はわからないから、ニュースも罵声も届かないし、バナーだって読めない。知り合いだっていないけど、いくらなんでも僕に物理的に危害を加えようとする、そんな人はこの大会にはいない、スタッフにも。ロシアは僕なんて嫌いだろうけど、僕はヴィクトルという人を育てたロシアのスケートを信じてる。だから大丈夫です」
 ヤコフは二の句を次ごうとして、結局やめた。彼はわかっている。かすかに震えている彼の手は、ヴィクトルを手放すことへの不安か、マッカチンへの恐怖からかは、わからない。声だって震えている。けれどその眼だけは、決意に満ち溢れ、ヤコフを離さない。
 ────結局、ヴィクトルが惚れた人間なのだ。氷の上で無邪気に自分だけを見ていたヴィクトルが、初めて自分から手を取りに行った選手────それが勝生勇利なのだと、ヤコフは認めるしかなかった。
「......ヤコフ」
 それまで静かにヤコフと勇利のやりとりを聞いていたヴィクトルが、静かに口を開いた。久しく、それこそここ10年は聞いていなかった、絞り出すような声だ。泣きそうになるのをぐっと堪えている声だと、ヤコフにはわかった。
「ヤコフがコーチとしての俺を認めていないことは、わかっているよ。シーズン中、どうすればいいかわからなくて、ヤコフの事をたくさん考えた......どうしたらいいかわからないんだ、今。本音を言えば、いますぐ日本に飛んで、マッカチンのそばに行きたい。わかるだろ? あの子がつまみ食いするなんて昔からだよ。子犬の頃からずっとそうさ。何度言い聞かせたってあの子はつまみ食いやめないんだから。今回だってきっと大丈夫。きっと大丈夫だって、わかっているけど......でも不安なんだ」
 ヴィクトルは、勇利に握られたままの手に額を当てた。
「ユウリを一人にしたくない......ヤコフ、ユウリを見ただろう? 全身から音楽が鳴り響くんだ。美しくて目が離せない。あの日からずっと俺はユウリの虜だよ。離れずにそばにいるって誓ったんだ、ユウリの傍を離れたくない。この子の滑りを一番近くで見ていたいんだ。俺がサポートしてあげたい。ロシアから守ってやりたい。それができるのは俺だけだよ。でも......」
 勇利がヴィクトルの肩をそっと抱きしめた。ヴィクトルは勇利の髪を撫でると、ヤコフに向き直る。
「でも、ユウリは行けって言ってくれる。俺がどれだけマッカチンを大事にしているか、誰よりもわかってくれている。だからヤコフ、俺は日本に戻るよ。でも、ユウリを一人にはできない。絶対したくない。でもヤコフになら任せられる。俺にとってのコーチはヤコフだけだ。ヤコフが引き受けてくれないなら、俺は......俺はここに残る」
「ヴィクトル!」
 勇利が信じられないものを見るような目でヴィクトルを仰いだ。
「ユウリ、俺は君の傍を離れないよ。君が大丈夫って確信がないのに、君を一人にできない」
「僕を信じていないの?」
「そうじゃない、そうじゃないよ。君が勝つって君より信じてる。でも俺が不安なんだ。俺がいれば防げるかもしれない何かを、ユウリに与えたくない」
 ヴィクトルを説得しようと焦る勇利を逆に抱き込んで、ヴィクトルははっきりとヤコフを見つめた。
「......儂にできる事は少ないぞ。儂はユウリを知らない。何かあれば盾になるくらいしかできん」
「それで充分だ。俺とユウリは繋がってる。心のサポートは必要ない」
 ヤコフは勇利を見た。しっかりとした目で頷かれる。この二人の絆は固い。
「......わかった」
 頷くと、ヴィクトルはヤコフを抱きしめて、何度も礼を繰り返した。抱き返して、その髪を撫でてやる。
「ヴィーチャ、あの子は大丈夫だ。ここでお前を一人にはせん」
「っ......うん、ありがとう、ヤコフ。行ってくるね、ユウリをお願いね......」
 ヤコフはヴィクトルを離した。そうと決まれば仕事は山積みだ。明日一日、マスコミへの対応、勇利のそばにヤコフがいることの運営への手回し、キスクラでともに座れるよう手配するなど、ヤコフはこれからたくさんの電話をかけなければならない。
 勇利はちょうどユーリから携帯を受け取って、クレジットカードの情報を入力していた。ヴィクトルの名前を借りて、WEBチェックインも勝手に行ってしまう。ヴィクトルは隣で持ち物のチェックをしている。
「ヴィクトル、残高ないでしょ。僕のICカード持ってって」
「うん」
「時刻表のアプリは?」
「大丈夫、入ってる」
「真利姉ちゃんに連絡しておくから、駅まで迎えにきてもらえるように」
「ありがとう」
「チェックインしておいたから、そのまま乗って。ユーリそのeチケット転送して」
「もうした」
「ヴィクトル」
「ユウリ」
 二人は固く抱きしめあって、また日本語で何かをささやきあった。
「ヴィクトル、マッカチンは大丈夫」
「うん。ダイジョーブだよね、わかってる。一人にしてごめんね」
「ヴィクトル、マッカチンと一緒に僕のこと見てて。ロシア中に見せつけるよ......僕はヴィクトルにおんぶに抱っこの状態じゃないんだって。お姫様じゃないよ。大丈夫」
「わかってる。ユウリにだけだ、俺が跪くのは......フリーの前に連絡して。せめて声だけでも聴きたい。俺が送り出してあげたい」
「うん、そうして......」
 ヴィクトルは最後に勇利の額に長いこと口付けて、部屋を出て行く。ユーリも一緒に出て行った。先ほど電話でタクシーを呼んでいたから、ヴィクトルを案内するつもりなのだろう。細かいところで気がきく子だ。ヴィクトルはユーリに任せて、ヤコフはようやっと終えた1本目の電話をきった。すでに大会の運営側は大慌てだ。明日の朝刊はきっとひどい。
「......ユウリ、君はどうする?」
 じっとドアを見つめていた勇利は、その声に笑って振り向いた。
「お風呂入って、ストレッチして、マッサージして、寝ます。いつもやってることだし、大丈夫です」
「そうか。儂はもう出る。まだ電話をかけ続けなきゃならん」
「すいません、色々と。明日はお世話になります」
「しっかり休め。君はベストを尽くすべきだ」
「はい」
 ヤコフがおおっぴらに勇利を応援できないのを、彼はきちんとわかっている。ヤコフができるのは、勇利がむやみに傷つけられるのを防ぐことだけだ。きっと勇利は散々に言われるだろう。ヴィクトルに捨てられた、ヴィクトルに見放された、エトセトラエトセトラ。けれど彼の表情を見れば、そんなのは些細なことだときっと分かる。




**




 フリープログラム前、第二グループの第一滑走。JJのフリーの圧巻の滑りと、これから始まる勇利の演技への期待に、会場内の空気ははち切れんばかりに膨れ上がっている。今朝の公式練習でも、本番前練習でも、ヤコフはなるべく勇利のそばにいてやった。あまり彼の視界に入りすぎないように、けれど何かが勇利の集中を乱そうとすれば、すぐさま割って入れるように。
「......ミスターフェルツマンは、やっぱり名コーチですね」
 キスアンドクライで得点を待つJJと呼応するように静まり返った会場の中で、勇利はぽつりとそう言った。その目はヤコフの手にある携帯に注がれている。画面はヴィクトルの応答待ちだった。
「昨日組んだばかりのコーチがこんなに鬱陶しくないの、初めてです」
 鬱陶しいとは、なんともな言い方だった。ヤコフは苦笑するしかない。
「そんなにひどいか、あいつのコーチングは」
「ひどいなんてもんじゃないですよ、あの人......僕が相手じゃなきゃ、コーチなんて絶対務まらない」
 でも、と勇利は続けた。その表情を見たヤコフは思う。なんともまあ、たくさんの表情をもった選手だと...この感受性の高さ、それを如実に表すスケーティング、それが勝生勇利なのだろうと。
「僕には最高のコーチです」
 彼の顔に幸せそうな笑顔が溢れた瞬間、スピーカーからヴィクトルの浮かれきった声が響いた。同時に出たJJの得点に、会場中が沸きに沸く。
『......ユウリ!』
「ヴィクトル」
『マッカチンもいるよ。ほら、ユウリだよ』
 小さな画面の中で、目尻を真っ赤にしたヴィクトルが、マッカチンを抱きしめていた。
「ああ、良かった。入院はせずに済んだんだね」
『うん、ほんと人騒がせな子だよ......仏間は出禁になった。もうね、今回ばかりは俺もね、マッカチンを叱らないわけにはいかなかったよ』
「ほどほどにね。あんなところにおまんじゅうを置いてたうちも悪い」
『もう飛行機のチケットとったよ。フリーを見終わったらすぐに発つ』
「うん......」
 JJがキスアンドクライから立ち上がる。会場のスピーカーから、女性の声が響き渡った。
『On ice, representing Japan...Yuri Katsuki!』
 ワアア、と会場中に割れんばかりの歓声が響いた。本当ならこの瞬間、勇利はもう滑り出してなければならない。笑顔で頷くヴィクトルに頷き返して、勇利はそっと画面に口付けた。それを会場の大画面で目撃した観客によって、歓声も拍手も大きくなる。電話の相手がヴィクトルであることくらい、皆分かっていた。
「ロシアって、やっぱり寒いよ。ヴィクトル、早く迎えにきて......」
『すぐに行くよ。さあユウリ、見せつけてきて。7000km離れてたって、俺たちは離れずにそばにいるって』


『さあ勝生選手、ヴィクトルコーチがいない中、グランプリファイナルへの切符をかけて、たった一人でフリープログラムに臨みます。曲は"Yuri on Ice"』



マッカチンは大丈夫ーー!

2017年3月2日(初出:2016年11月24日)