どこか手持ち無沙汰で、なんども髪の毛を撫で付けた。ねじれた裾を直して、革靴についているような気がする、乾いた泥を擦り落として。なんども電光掲示板を確認して、飛行機が定刻通りに到着したことを知る。諦めてコーヒーカップをゴミ箱に投げ捨て、ヴィクトルは到着ロビーへ向かった。

 アエロフロートがどれだけ酷い航空会社だって、スポンサーである以上、使わなければ損だ。この一年で、ヴィクトルは散々日本との往復をこの会社でこなしてきたけれど、シェレメチェボ空港以外を使ったのは久しぶりだった。勇利が乗る日本の航空会社は、成田ドモジェドヴォ間の直行便を設けている。シェレメチェボと比べると格段に広く、また新しくて綺麗だ。アエロフロートもこっちを使えばいいのに、とヴィクトルは思う。その辺の事情は知らないけれど、シェレメチェボを使い続ける会社の意地みたいなものでもあるんだろうか。外国の会社は圧倒的にこちらに籍を置いていて、観光客の外国人率もドモジェドヴォの方が圧倒的に多いのに。
 サングラス越しに、うろうろと視線を彷徨わせる。探しているのは、すっかり見慣れた黒髪。丸くて形のいい頭で、ちょうどよくヴィクトルの手のひらに形がおさまる、完璧な。見間違えるはずもない。ゲートから見えた、数ある黒髪のうちの一人をすぐに探り当てて、ヴィクトルは足を踏み出した。
「勇利」
「ヴィクトル……」
 二週間ぶりに見る顔は、記憶のなかと変わっていなかった。相変わらず、ヴィクトルがコーディネイトしてやらなければ服装がダサい。そのことに、呆れるくらい、心の底から安心した。そっと抱き寄せて、かわいらしい形のニット帽を取って、側頭にそっと、唇を押し付ける。しっかりとした強さで抱き返されて、ヴィクトルは柄にもなく涙が出そうになった。
「久しぶりだね、勇利」
「うん……」
「疲れたろう。ホテルに行こう」
 勇利の手から、小さめのキャリーを奪った。試合に行くには小さくて、小旅行にちょうどいいそれ。勇利の考えていることがわからなくて、ヴィクトルは途方に暮れた。ヴィクトルの両の手から、勇利のこころがこぼれて行く感覚がずっとある。もう二週間も。手に残るものも、指の隙間から零れおちんとするものも、すでに零れていったものも、すべてすくい取って、またヴィクトルの心に押し当てたい。それを、今日明日でやらなければいけなかった。
 勇利ははじめて使う空港の広さに視線をあちこち彷徨わせながら、ヴィクトルのジャケットの裾をそっと握った。それだけのことが、たまらなく嬉しいと、勇利はどうしてわからないんだろう。


「ヴィクトル」
「んー?」
「マッカチンは?」
 少し敏感になっている自覚はある。真利にあの電話をもらってから、ずっと勇利は、大切なものが大切な場所にあるべきことの大切さを、再認識している。結局なんてことなかったけれど、あの時勇利は、確かに心臓を冬の地面に叩きつけられたような心地がしたのだ。
「ヤコフのとこに預けてきた。大丈夫、ヤコフ、マッカチンのこと大好きだから」
 ヴィクトルは勇利の指を裾から放すと、そっと握ってきた。いつもは暖炉のように暖かい指先が、すこし冷たかった。緊張、してるのかな。仕方ないよな。勇利は握られた指を曲げて、そっと握り返した。ヴィクトルが、今度は手のひらいっぱいに勇利の手を握り込んで来る。振りほどく気なんて起きなかった。ヴィクトルを裏切るような真似をしたのは勇利だ。
「なんていうかね、俺は子供の頃、友達が全然できなくて……」
 ヴィクトルは子供のころの苦い悪戯を語って聞かせるような顔で言った。
「それでヤコフが、15の誕生日にマッカチンを連れてきてくれたんだ。少しは人間の心を学べ、みたいな酷いことを言われて──」
「いや、ヤコフコーチはそんな事言わないと思うけど」
 勇利はすかさず否定した。確かに厳しい御仁だったけれど、ヴィクトルへの溢れんばかりの愛情を、勇利はたった一日で汲み取れたくらいだから。ヴィクトルは不満そうに唇を尖らせると、昔を思い出すように眉を寄せた。
「言うよぉ……ヤコフはすっごい優しいけど、すっごい酷いことも平気で言うよ」
「それ絶対、ヴィクトルが悪いんだと思う……」
「酷いな、勇利……」
 ヴィクトルの指が、そっと勇利の手の甲を撫でた。ハッとしたのは、勇利だ。途端に不安になる。傷つけて、しまっただろうか。いつもの軽口のつもりだったけれど、そんな風に聞こえなかったかな。ごめんねの気持ちを込めて、勇利は握られた手をそっと解いて、代わりに指を絡ませた。たった二週間、会えなかっただけで、勇利はヴィクトルとの「いつも」が、果たして合っているのか、わからなくなってしまった。絡めた指を、しっかり握られて、嬉しい。
「……まぁでも、ヤコフ、優しかったでしょ? 勇利のことちゃんと助けてくれたもんね」
「うーん、まあそうだね、助けてくれたっていうか……ああ、ヴィクトルを育てた人なんだなぁって思ったよ」
「へえ?」
「言わなかったっけ? キスクラでの説教大会とか。なるほど、この人を見て育ったから、ヴィクトルはあんななんだって」
「あんなって何。嘘、俺あんなガミガミしてる?」
「してるよ……」
 信じられない! なんて顔を向けるヴィクトルに、勇利は呆れた顔を作った。温泉onICE、中四国九州大会……指折り数えると、ヴィクトルは唸った。
「それに、多分あのひとは選手によって説教の仕方を変えてるけど、ヴィクトルは、コーチはヤコフしか知らないから、コーチならきっとこうするだろうって理由で僕の気持ちなんか考えずに、自分の理想のコーチ像、僕に押し付けてたでしょ」
「うぐっ」
 ヴィクトルは大げさに肩をはねさせると、しょんぼりとした顔で肩を落とした。勇利はまたも、ハッとする。
 もう、コーチと生徒の関係じゃないのに、なんで僕、こんなダメ出ししてるんだろう……。また、傷つけちゃったかな……?
 ちらりとヴィクトルを伺うと、彼はどこか嬉しそうな顔で笑っていた。


 勇利!
 勇利がまた、ヴィクトルと普通に会話をしてくれていること、そんな事がたまらなく嬉しい。元々緩みがちな口角がみるみる上がって、いまにも歌を口ずさみそうだった。たった二週間離れていただけで、こんなにも再会が嬉しいなんて。勇利は知らない。
「ここからどうやってホテルまで行くの?」
「んー? タクシー。電車あるけど、赤の広場最寄りまで連れてってくれないし、俺目立つしね」
「それもそっか。タクシーでどれくらいで着くの?」
「30分強? 多分大丈夫、この時間そんなに混まないから」
 ヴィクトルの知名度は高い。ただ有名なだけじゃなく、国への貢献度という意味では芸能人よりも余程国に愛されている。タクシーも必ず、実績があり信頼のおけるドライバーが派遣される。
「これタクシーじゃなくない?」
「そお?」
「ハイヤーっていうんだよ、こういうの……」
 居心地悪そうに乗車を渋る勇利を強引に乗せて、パリッとした制服を着込む初老のドライバーに荷物を任せる。窓はスモーク加工がされているけれど、色彩がない他は充分に知識を堪能できる。
 ドアが閉まってしばらくすると、アナウンスとともにゆっくりと車が発信する。運転席は仕切られていて、前方の窓が見えないことも、勇利に妙な居心地の悪さを与えているようだった。そっと離れようとする指を押しとどめる。
 ヴィクトルは明日、勇利をサンクトペテルブルクに連れていく。二人でニューイヤーを祝うのだ。そうしたら、二月の四大陸と、三月の世界選手権の話をしなければ。

「ヴィクトル、優勝したらなんでもいう事聞いてくれるっていったの、覚えてる?」

 そう静かに問いかけてきた勇利の声が、ふとこだまする。

「僕、ヴィクトルに現役復帰して欲しい。その為には早い方がいいから、ロシアに帰って。僕、全日本には一人ででるよ」

 そんな感じのことを、はっきりと言われた。
 二週間前に言われたことを思い出して、ヴィクトルはふわふわと浮き足立っていた気持ちがさっと冷めたのを自覚した。思わずギュ、とつないだままの手を握る。勇利はおずおずと握り返してきた。その表情には照れ臭さでも戸惑いでもなく、気まずさがあった。ヴィクトルが、28年の人生で見てきた表情。今まで色々な人にされてきた表情。そのあとに来るのは、決まって別れだ。
「あなたが悪いわけではないの、ヴィクトル」
 いつだってそんな風に前置きをされた。それなら、最初から言わないで欲しい。そう思ったのはヴィクトルの我儘だったんだろうか。
「でも、もう一緒にはいられないわ」
 ねえ、そんなセリフで俺と別れるの、君で何人目? 一体どれほど、同じ言葉で別れを告げられただろう。恋人たちに別れを告げられると、ひどく悲しくて寂しかった。上手ではなかったかもしれないけれど、ヴィクトルが愛なしに誰かと交際していたことは一度だってない。けれど、やはり上手くはなかったんだろう。数日もたてば、マッカチンを抱いて寝れば、リンクに上がれば、次があるさと上を向けた。
 でも、こんな気持ちは初めてだ。こんな風に胸にしこりが残るのは。
 はじめて自分から手を握りにいった人に、背中から谷底へ突き落とされそうな心地。
 勇利はまったく違う言葉でヴィクトルに帰国を促した。けれど響きは、今まで受けてきた別離の促しと、恐ろしく似ていた。

 ヴィクトルは明日、勇利をサンクトペテルブルクに連れていく。二人でニューイヤーを祝うのだ。そうしたら、二月の四大陸と、三月の世界選手権の話をしてみせる。










「あの……ヴィクトル?」
「なんだい、勇利?」
「……ベッドがないよ?」
「あるよ、ベッドルームに」
 ロシアはモスクワ、かの有名な赤の広場にグム百貨店、クレムリンを一望できるほど近い場所にある、フォーシーズン ホテル モスクワ。いつのまにかポーターに荷物を取られ、あれよあれよと案内された部屋は、何もなかった。廊下しかなかった。ドアを開けたら、廊下があった。
 見渡しても、届けられているはずの荷物がない。あるのは廊下。数々のドア。どでかい花瓶に、二脚のソファ。ここで寝ろと言うこと?
「まさか、」
 勇利は震える足を動かして、右手一番奥にある観音開きの(観音開きの!)ドアに向かって走った。
「まさかとは思うけど、ヴィクトル──!」
 きらびやかなドアノブを下げて、開け放つ。シャンデリアから降り注ぐ光を反射しまくるリビングルームを見て、勇利は叫んだ。
「一泊だけで、スイートとったの〜〜〜〜!?」
「もっちろん?」



たったそれだけ



「うっそ信じられない、何このダイニング? これ12人くらい座れるよ? 僕たち二人だよ? 大丈夫?」
「どうせ外で食べるよ」
「えっ、外で食べるのにこんな所あるの? ちょっと待って……このテーブルだけで僕の部屋よりでかくない?」
 勇利はうろうろと彷徨いながら、今度は合計10人くらい座れそうなソファセットに目を向けた。大きな窓三つからさんさんと降り注ぐ太陽光を真っ白な壁が反射しまくって、エフェクトがかかったようにキラキラしている。
「ベッドはどこなの? 僕が慣れ親しんだ、部屋を開ければテレビとベッドとソファとトイレのドアが一望できる、慣れ親しんだ部屋はどこなの?」
「ベッドルームは多分こっち〜〜」
 ヴィクトルは機嫌よく勇利の手を取ると、来た道を戻って、廊下から別のドアを開いた。またも観音開きである。
「えっ、ソファしかない」
「左、左」
 これもまた、高級そうなソファセット、そしてテレビ。リビングルームにも大きいテレビがあったのに。ヴィクトルは思わず足を止めた勇利の顔をぐいっと左に向けさせた。
「デカッ……」
「そう?」
 キングサイズのベッドは、鏡張りの壁に背を向ける形で、控えめなシャンデリラの足元で、並べられた枕の数でその大きさを主張していた。大きな窓が二つ。ベッドの前には、勇利のスーツケースと、ヴィクトルのミニキャリーが整然と並べられていた。呆然とした勇利は、ベッドの左にある、廊下への入り口のような場所に目を向けた。廊下だ。まごうことなく。けれど先ほど見た廊下ではなかった。
 一歩踏み入れると、小さな机。どうして。ベッドルームに入った時、ソファセットのそばにも机があったのに。ヴィクトルはまたも勇利の手を引くと、すぐ左のドアを開けた。
「あ、ここウォークインクローゼットだよ。まあでも一泊しかしないし、いらないか」
「ウォークイン? は?」
「こっちがトイレかな?」
 右側のドアを開くと、またも小さな廊下。またも! 左側のドアを開ければトイレ、となれば、右側のドアはバスルームだった。どこを見ても大理石、洗面台、どでかいバスタブ、奥のシャワーブース、その左にはサウナ。
「……サウナ?」
「見た目はバーニャっぽいけど、サウナだね」
「サウナって部屋にあるもん?」
「勇利だって家に露天風呂あるじゃない」
「うちはそういう職業なんだよ……」
 勇利は呆然と呟くと、来た道を戻って、ベッドにどさりと腰掛けた。ヴィクトルも隣に腰掛けて、勇利の腰を抱いてくる。
「聞きたくないけど、一体いくらかかっ……いや待って、言わないで、言わないでください大丈夫。でも言っとくけど、僕こんなとこ払えないからね」
「何を言ってるんだ勇利、払わせるわけないだろ」
「でも、なんだってこんな、たった一泊……乗り換えついでに寄っただけなんだよ?」
 勇利は明日、特急列車を使ってヴィクトルと一緒にサンクトペテルブルクへ向かう。困惑したままの勇利にくすりと笑って、優しい手つきで勇利の肩を押したヴィクトルは、彼の細い体をシーツに横たえた。
「俺なりに、勇利にお疲れ様って言いたくて。ジャパンナショナル優勝、おめでとう」
 ヴィクトルは勇利のおとがいを掴むと、覆いかぶさって、勇利のほおにそっと唇をつけた。
「……ありがとう、ヴィクトル……」
 勇利はそのまま体重をかけて来るヴィクトルの体を、やわらかく抱きしめ返した。後悔と申し訳なさが、とてつもない重さで勇利の心臓を押しつぶす。胸が、喉が痛くて、勇利は震える腕のままにヴィクトルを掻き抱いた。ごめんね、と言ってしまいそうになる。ごめんね、ヴィクトル。ごめんなさい。言ってはいけないその言葉を震える喉に押しとどめて、勇利はなんども、勇利の首元に顔をうめたまま、何も言わないヴィクトルの髪を撫でた。

 グランプリシリーズで悉く叩き出してきたパーソナルベスト、それらに全くかすらないような点数でも、勇利はちゃんとSPとFS両方で高得点を出し、危なげなく全日本で優勝した。さすがは日本で唯一の世界レベル、GPF優勝で気がぬけていたのかもしれないが、それでも圧倒的な点数差をつけて王者の威厳を見せつけた──そんな様なことがニュースには書かれていた。がっかりして、怒りを覚えたのはヴィクトルだ。
 全くもって、喜べない優勝だった。
 映像の中の勇利はどこはホッとした表情で笑っていた。優勝なんてして当然だ。この日本という小さな大国で、勇利ただ一人だけが、世界で戦える人物なのだ。おおかた去年の大敗を患って、ジンクスの誕生を恐れでもしたのだろう。馬鹿馬鹿しい、こんな安全な点数ではなく、圧倒的に、他をもっと地に叩きつけるくらい、差を見せつけるくらいでちょうど良かったのに。勇利のメンタルの問題じゃない。周りは囃し立てた。ついこないだ世界を制した人間からすれば、全日本などお遊び程度でちょうどなのだろう、なんてそんな風に。勇利はきちんと全力で臨んで、それであの点数だったのだ。俺が付いていれば、そう思うくらいに。
 ジャンプのミスはなかったけれど、GOEは付けられなかったも同然の技術構成点だったし、演技構成点に関してはやる気があるのかと肩を揺さぶりたくなるくらい、勇利の平均からは下回っていた。
 まあ、こんなもんだよなという顔をしていたのが、なにより一番腹立たしかった。

 勇利。どうして俺を一人にしたの?
 勇利。どうして一人で滑っているんだ……。

 離れることを了承したとき、ヴィクトルはてっきり、勇利がロシア大会のリベンジをしたいのかなんてトンチンカンなことを考えていた。それがどうだ、「まあこんなもんだよな」、腹も立つ。勇利は近い未来、俺から離れていくつもりなのだ。きっと最悪の形で、俺を殺す。ヴィクトルに押し倒されたまま、おとなしく抱きしめられている勇利。暴いてしまおうかとすら思う。こんな風に切なく俺を掻き抱くのに、俺の髪に頬ずりをするほどなのに、勇利、どうして。お前がわからない。










 十二月のロシアなんて、一日中夜といってもいい。九時ごろようやく日が顔を見せて、四時にはゆっくり沈んでいく。なけなしの日照時間ですらどこか薄暗い。ぼやけた色で空にグラデーションが浮かび始めた頃、ヴィクトルは勇利を連れ立って赤の広場を訪れることにした。気温はすでにマイナスで、勇利はここまでの寒さに慣れていない。ホテル内の世界的に有名なコーヒーチェーン店は、やはり人で溢れかえっていた。観光客がびっくりするほど英語の通じないモスクワでも、さすがに有名ホテルの敷地内に居を構えるカフェは別なのだろう。たどたどしくも英語を操りながら接客する店員に安心する外国人は多い。加えて立地もいいとあって、客足は絶えないようだった。
「勇利、何のむ?」
「んん、なんでもいい」
 勇利はメニューをちらりと見やると、興味なさげに視線を外した。勇利は甘いスイーツにコーヒーや紅茶を合わせて飲むのが好きで、飲み物自体が甘いのはさほど好まない。ヴィクトルは手早く注文をすませると、ちょっと待ってと一言店員を待たせて、レジ側の棚に向かった。この国でヴィクトル・ニキフォロフに待たされて嫌な人なんて、きっといないんだろう。勇利は一応後ろにも人が控えているのに、何もできずに立ち尽くすのが落ち着かなくて、つい指を擦り合わせた。
 Yuri と呼ばれて顔をあげると、茶髪の可愛らしい店員が、幾度か手をふりながら、そっと勇利に手を伸ばした。
「?」
「Handshake, please?」
 きついロシア訛りの英語でも、さすがにわかった。ロシアはスケート大国で、国民レベルでスケートへの関心が高い。ついこの間の大会で優勝した勇利を、しかもあのヴィクトルと一緒となれば、知っているのは当然なのかもしれなかった。
「あ、Thank you?」
 握手を求められてお礼を言うのもどうなんだろうと思いながら、勇利は両手で握手を返した。それだけで後ろにいた外国人は勇利がなにやら有名な人物だと思ったのか、いつ文句を言おうかとそわそわしていた気をおさめてくれた。
「I love...skate, ah, you skating. Special, um, amazing skate, thank you?」
 単語ひとつひとつが繋がっていなくて、それでも彼女のほおが真っ赤に染まるのが、彼女の純粋な好意を示しているようで嬉しい。勇利は笑うと、もう一度力一杯握手をした。
 ヴィクトルが戻ってきて、手にあったのは二つのタンブラーだった。改めて会計をすませ、タンブラーを二つ彼女に手渡して何やら言っている。店員は頷きながらポストイットをタンブラーに貼り付けて、任せてくれとばかりに大きく頷いていた。
「タンブラー? 買ったの?」
「うん」
 世界的に展開しているだけあって、このカフェはご当地のタンブラーをどこの都市でも売っている。かく言う勇利もデトロイト時代には、デトロイトのランドスケープが描かれたタンブラーを持っていた。
 どこの国のカフェでも内装に違いはないのか、あいも変わらずランプの灯る下でヴィクトルと飲み物を待つ。
「ヴィクトル、また甘いの買ったの?」
「うん、勇利のはちゃんと普通のラテだよ。チョコチップ入れて、って頼んじゃったけど」
「ありがとう」
 しばらくして出来上がったドリンクを受け取る時、勇利は今度は男性の店員から握手を求められた。グッドジョブなんて、だいぶ高圧的に言われたような気もするけれど、握られた手は力強く、視線はまっすぐ勇利を見ていたから、彼なりの賛辞だったのだろう。勇利は彼のつたない英語にあわせて、つたないロシア語で礼を言った。赤の広場に着くまでの約数分の間、勇利は幾人ものロシア人から祝福の言葉を贈られた。

「……なんかびっくりした……」
「何が?」
 場所は全く違うのに、ヴィクトルと二人、こうして歩くと、勇利はよく長谷津の海辺を思い出す。ご覧ユウリ、カモメだ、うみねこです。あの時は、こうまで二人の距離が縮まるとは思ってなかった。ヴィクトルは勇利の絶対神から、安心をくれる人になった。
「ロシアの人からこんな風にたくさんおめでとうって言ってもらえるとは思ってなかった」
 タンブラーの飲み口に口をつけると、予想よりまだまだ熱い蒸気が口元を撫でた。手のひらにじんわりと伝わる温度はほのかに温かく、勇利を芯から温めてはくれないけれど、ずっと持っているとほっとする。チョコチップがまだらに溶けたカフェラテは、勇利の喉につっかえていた何かを少しずつ、ちょっとずつ、とかしてくれている様な気がした。
「あれだけの演技をしたんだもの、納得しないほうが馬鹿さ」
 自国民を小馬鹿にしたような声で言って、ヴィクトルは勇利の肩を撫ぜた。ぽんぽん、と軽く叩かれる。中国大会で、クリスにエロスで負けちゃったなとついつい思った、あの時みたいに。なんで今、そんな叩き方をするんだろう? 勇利は分からなかったけれど、かといってなんと言って質問すればいいかも分からなくて、結局カフェラテをもう一口飲んだ。
 ちらりと横を見上げると、ヴィクトルは伏し目がちになって、甘いドリンクを一口飲み込むところだった。美しい銀色がさらりと目元にかかって、ほんの少しだけ突き出された上唇が、そっと飲み口の淵に重ねられる。それを追う様にして挟み込んだ下唇が、ふるり、音をたてそうなほどに柔らかく。タンブラーを傾ける手は、完璧に手入れされていて、それでいて男らしく骨張り、節があって、肌の滑らかさと相まって、直線的なラインがひどくセクシーだった。タンブラーと手の間にできた隙間が艶かしく、袖から手首がちらりと覗く。どこを、どの瞬間を切り取っても、怖いくらいに絵になる男が、勇利の隣でキャラメル味の罪深いものを飲んでいる。
 一瞬だって目を離す気になれなくて、勇利はつい、ヴィクトルの横顔をじっと見つめた。すかさず気づいたヴィクトルが、くすぐったそうに目尻を緩める。勇利はその笑い方が、何より好きだった。勇利が喜ばせることを言ったとき、勇利がヴィクトルを驚かせたとき、勇利がヴィクトルを、見つめているとき。くすぐったそうに、嬉しそうに、眩しいものを見る様に、宝石の様な瞳が海になり、ゆるゆると溶けて勇利を見つめ返す。勇利が一番大事だよ。勇利が一番、この中で素敵さ。そんな風に伝えてくる彼の笑顔が、何より好きだ。
「飲みたいの? ……しょうがないなぁ」
 全くもう、と全然困ってない風に困ったといいながら、ヴィクトルは勇利の両手からタンブラーを取り上げて、自分のをそこに差し込んだ。彼は勇利の物欲しそうな眼差しを、飲み物の催促だと思ったらしい。違うのに、とは言わず、礼を言うだけにとどめておく。一口だけもらったヴィクトルのキャラメルなんとかは、勇利の舌の付け根に痺れるような甘みと苦さ、両方をねっとりと植えつけた。
「おいしい?」
 勇利のカフェラテで口直しをしていたらしいヴィクトルは、勇利の反応に気がついたのだろう、答えがわかっているのにそんなことを聞いてきた。無言でいると、笑われて、そっとタンブラーを交換される。カフェラテでゆっくりと舌の根を正常に戻した。勇利が欲しいと言ったわけじゃないのに、勝手に飲ませたヴィクトルは、こんなにおいしいのになぁ、なんてのんきなことを言っている。ヴィクトルは根本的なところで思い違いをしている……勇利をひどい食いしん坊だと思っていること。食いしん坊なのはあなただよヴィクトル。何度もそう言ってるのに、太っていた印象が強いからか、ヴィクトルは勇利はなんでも食べたがる子供だと思っているのだ。食べるのは好きだ。でも食に強い興味があるかと問われると、そうでもない。その気になれば勇利は、食事制限も苦と思わずできる。
 冬と夜を味方につけたグム百貨店は美しく、これがお城でないなんて勇利には信じられないほどだった。輪郭や装飾に沿うようにして、イルミネーションがキラキラとひかる。
「……ねえ、あれってリンク?」
 真っ白な光が眩しいくらいに乱反射して、一瞬気がつかなかったけれど、グム百貨店の真正面、赤の広場を陣取るようにして広がるのは、ライトアップされたスケートリンクだった。たくさんの人たちが楽しそうに滑っていて、百貨店の側には、大きなテントが構えられていた。目を凝らすと、どうやら皆そこからリンクに滑り出しているようで、中にはコーヒーを飲んでいる人たちも見受けられた。
「そうだよ。毎年、十一月くらいから三月まで、リンクができるんだ。夜中までやってる」
「へえ……」
「滑りたい?」
「ううん、いい。靴持ってきてない」
「借りられると思うけど……まあ、目立っちゃうね。世界一上手いスケーターが、こんなところで滑り出したら」
 ヴィクトルは、「世界一」の部分でわざとらしく勇利の肩を抱きしめた。恥ずかしいから、やめて欲しい。勇利の世界ランキングは大して上がっていない。昨シーズンの四大陸にも世界選手権にも出ていないから、今年シニアに上がったばかりのユーリよりも下だ。今回の優勝で800ポイントがプラスされたけれど、それでも世界5位にも入っていない。依然として一位はヴィクトル、二位はクリス。今回の結果で三位以下がJJ、オタベックあたりで混戦になっているはずだった。勇利は詳しく見ていないから覚えていないけれど。
 しかしここで「やめてよ」なんて言っても、聞いてはくれないのがヴィクトルだった。ヴィクトルは本気で信じている、勇利が世界で一番だと。それが気恥ずかしく、嬉しく、疎ましくもあった。
「ヴィクトルも……ここで滑ったことある?」
 勇利は親と一緒に滑っている子供たちを見た。幼いわりに、皆結構上手だ。やはりスケートは、国民的に親しまれているのだろう。
「実は、ない。ここにリンクができるようになったのは、ここ10年くらいのことなんだ。俺はとっくにシニアに上がってたし、第一ピーテルの人間だからね」
「ピーテル?」
「サンクトペテルブルクのこと。俺たちはそう呼んでる」
 こんなにもずっと一緒にいるのに、ヴィクトルが故郷をなんて呼ぶのかすら、勇利は知らなかった。こういう時、質の話では無いのだと思い知らされる。どれだけ濃密な時間を一緒に過ごしたって、結局のところ、勇利はヴィクトルと七ヶ月と少ししか一緒にいないのだ。一年にも満たない時間を過ごした二人が、お互いのことを誰よりもわかっているだなんて、どうして言えるだろう? ヴィクトルは、勇利が本当はべつに食いしん坊じゃないって事すらわかっていない。別れを決意したばかりなのに、そんな無慈悲な事実を突きつけられて、勇利は一瞬、息の仕方を忘れた。
「……じゃあ、ユリオは、ここで滑ったかな?」
 ロシア大会で、勇利はユーリがモスクワの出身だという事を知った。大好きな祖父が、毎日練習あがりの自分を迎えにきてくれたんだと、優しい顔で教えてくれたのをよく覚えている。勇利だって、東京に住む人間全てが皇居をランニングコースにしているなんて乱暴な思い込みはしていないけれど、如何せんここは外国で、勇利には地理もわからない。
「さあ、どうだろうね。そういえば、俺もユリオがモスクワのどこ出身なのか知らないなぁ。でもきっと、滑ったと思うよ、一度くらいは。ここは夢の国だからね」
 さあ、もう行こう。
 少しずつタンブラーの中身が冷えてきて、もうカイロの代わりにはならない。ヴィクトルは勇利の肩を抱いて促しながら、ゆっくりと歩き始めた。ここ最近のヴィクトルはこんな風な表情をするようになった、と、勇利は思う。本当になんとなくだけれど、そう思う。さっきから、リンクを視界に入れようとしない。会話だってさっさと切り上げられた。滑りたいか聞いてきたのは、ヴィクトルなのに。
 滑りたくないのかな。もう氷の上に興味がない? そんな筈はない。それはありえない。いくら鈍感な勇利だって、どれだけ周りに複雑だと言われたって、ヴィクトルの事はわかる。もうヴィクトルは滑りたい筈だ。滑りたくてたまらない筈。そんな風に勇利が育てたのだから。凍てついた選手としてのヴィクトルの心を、勇利の愛で溶かしてきた。
 ふとリンクをみると、幼い女の子がぽかんとした目で勇利を見上げていた。ぱっと破顔されて、女の子は勇利に手を振った。自分がユウリ・カツキだと、こんな小さな子にもわかるんだろうか? 勇利は小さく手を振り返した。女の子は笑って、勇利の隣にいた長身のヴィクトルを見つけると、ただでさえ大きな目を溢れんばかりに見開いて、息を飲んだ。きゅうきゅうとリスのような声で唸って、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。名前を叫びそうになるのを、勇利はとっさに「しぃー」と自分の口に指を持っていくことで止めた。女の子はとたんにびっくりして、両の手で自分の口を塞いだ。ブンブンと小さい手を一生懸命振っている。勇利は自分の肩を抱いたままのヴィクトルの手をそっと握って促した。そんな面倒臭そうな顔をしないで欲しい。小さなプリンセスが、あなたのファンなんだよ。勇利が懇願するような目でヴィクトルをみると、彼は折れて、優しい笑みで女の子に手を振った。彼女の喜びはどれほどだっただろう。顔を真っ赤にした、スケートリンクの小さな女の子。まるで全ての答えが乗っているような、美しい絵だった。

「……ヴィクトル」
 ずんずん進んでいくヴィクトルを、勇利はなんとか押しとどめた。少し歩けば、先ほどが明るすぎる場所だったせいか、周りがカーテンが降りたかのように暗く見える。この広い道路を渡ればホテルだった。ヴィクトルはさっきから勇利を見ない。どこか焦ったような顔で、ヴィクトルは勇利の方を見ようとしない。察しているのかもしれなかった。
「ヴィクトル、僕ね」
 勇利はヴィクトルの前に立つと、いつかの空港での時のように、彼の肩を掴んだ。遠くに見えるスケートリンクの眩しさが、後光のようにヴィクトルの色彩を浮かび上がらせる。子どもの歓声、氷の削れる音。与えられる賞賛に、世界一の称号。全てこの、神話から出てきたような美しい男が持つべきものだった。勇利はそろそろ、神の愛し子をやめなければならない。ヴィクトルは羽を休めすぎた。絶対神話に戻らなくては。

「僕は、今日で引退する。ワールドは、出ない」










 嵐の前の静けさのように、部屋の中は無音で、一切の音も許されなかった。

 一瞬で表情の抜け落ちたヴィクトルを見て、勇利は自分が何かを間違えたのだと悟った。それが場所だったのか、時間だったのか、言葉選びだったのかは、わからない。けれど、ヴィクトルは怒っている。とてつもなく、勇利に対して。すくみあがって、勇利は、ヴィクトルに連れられるまま、強引にホテルへの道を行った。
 エレベーターの中、勇利は必死で彼の表情を探ったけれど、そこには何もなかった。有無を言わせない時、ヴィクトルは笑う。困った時もヴィクトルは笑う。激情をあらわにしたのは、彼が途方にくれた中国大会のときだけ。なら、今は? ヴィクトル、怒ってる? 泣いてる? どっち……?
 部屋のドアが閉まると、ヴィクトルは先ほどのピリピリとした空気を納めた。だらりと両腕が下がって、のろのろとベッドルームへ進んでいく。勇利はどうすればいいかわからないまま、ゆっくりその後を追った。開け放されたドアを閉めると、空気が密閉されたような感覚になる。ヴィクトルは丁寧に、マフラーとコートを外して書斎机に放った。隣にタンブラーを置いて、ヴィクトルは勇利にそっと手を差し出す。一瞬の間があって、勇利は自分のタンブラーを預けるよう催促されているのだと気付いた。あわてて駆け寄り、そっと彼の手にタンブラーを乗せると、ヴィクトルは何も言わず、静かに二つを並べた。……勇利はどうしたらいいだろう。
 そっと背後に回られて、勇利はふっと肩の力を抜いた。何も考えずとも、ヴィクトルが勇利のコートを脱がせようとしているのが、反射的にわかったから。肩からコートを落とされて、マフラーを優しく解かれる。どうしたらいいだろう。勇利は、ここで振り向いて、ヴィクトルを抱きしめるべきだろうか? 謝罪と一緒に。なんで謝るのかも、説明できないまま。
 ユウリ、と小さなささやきが、かろうじて勇利の耳を掠めた。振り向くと、ヴィクトルが長い足を組んで、長いソファに座っていた。彼の左手が、空いたスペースをそっと撫ぜる。そこに座れということらしかった。
 人一人分のスペースを空けてでしか、勇利は座れなかった。彼とは産毛が触れ合うくらいの距離でいつも座っていたのに、どうしてだろう。何かが怖いと、勇利の頭のどこかで警鐘がなっている。

 時間にして、数分か、一時間か、わからないけれど、重石に体を押し潰されるような感覚のまま、恐ろしい無音のなかで勇利は待った。ヴィクトルは肘掛に凭れて、ずっと空を見ている。口元に当てられた指が、かろうじて彼が考えているのだと教えてくれた。勇利はただ、柔らかい布の上で宣告をまつ罪人でしかなかった。
 勇利は、自分が最低の人間だと知っている。本当は神様に愛なんてもらえる人間じゃないことも。
 ああ、神様。何か言って。僕を──楽にしてよ。

「……勇利が」
 ようやく、ようやく口を開いたヴィクトルから溢れたものは、恐ろしいほどに静かだった。
「勇利が、俺を選手に戻そうって考えてたのは、わかってたよ」
 かすれた声が、彼の動揺を表していた。ヴィクトルは勇利の方を見ずに、未だに部屋のどこかにぼんやりとした視線を送っていた。
「俺も、初めはそのつもりだった。勇利から得られるものを得て、グランプリファイナルで優勝させて、復帰し、得たものを生かす……そんな風に」
 ヴィクトルの視線がようやく外れ、彼は深くソファにもたれた。両の手が掬うように持ち上げられ、彼はそこにある何かを見ていた。
「コーチと生徒だって、持ちつ持たれつの関係だ。最初は勇利にだって、そんなに大した期待はしていなかった。でも……俺は……その頃は、君にここまで愛着が湧くなんて、思ってもみなかったから……」
 そうまで言って、ヴィクトルは腕を伸ばし、そっと勇利の右手を握った。目を向ければ、痛ましいほどの眼差しで見つめられていた。苦しい、悲しい、愛おしい。すべてがそう言っていた。飛びつきたい、いつかの時のように。そのたくましい胸に抱かれて、お前は最高だと言われたい。でも、そんなのはもう終わりだ。
「勇利が、これをラストシーズンだと考えている事も、何となくだけど、察していたよ。ロステレコムの後……勇利を迎えにいった時、ああ、そうなんだって……ちゃんと、気付いた」
 あの時俺はね、勇利。そう言って、ヴィクトルは勇利の手を引っ張った。バランスを崩し、上半身がソファに倒れこむ。見上げたヴィクトルは、そんなのお構いなしに、勇利の右手を心臓までささげ持った。
「俺は、もう、嫌だった。君が、お前が、すごく大切で、愛おしくて、離れがたくて……もう、俺のこころの一部になってるのに、距離が離れるのが、ただでさえ苦しいのに、お前は引退なんて考えていて……辛かったよ。いまも辛い。ねえ、勇利」
 あの時のように、ヴィクトルは勇利の指先にキスをした。
「勇利がずっと引退しなきゃいいのに、って……本当に、思ったんだよ。それを、信じてる……?」
 溢れる涙を見られたくなくて、勇利はソファに突っ伏したまま、何度も頷いた。あの時、本当に本当に嬉しかった。勇利のスケートをどこまでも愛してくれた彼の、なけなしの底なしの愛。大事な言葉がいつだって上手に言えないヴィクトルが絞り出した、勇利の永遠を望む声。それが嬉しくて、たまらなく幸せで、辛かった。同じものを返せない自分が、恨めしかった。

「でもね、勇利」
 ぴしゃりと冷や水を叩きつけられたような心地さえする、冷たい声だった。ヴィクトルは、一切の情を感じさせない顔で、勇利を見下ろした。

「お前のそれは、逃げだよ」










「……逃げ……?」
 勇利は呆然と、言われたことを返した。
「逃げ、って……」
 のろのろと起き上がる。腕に力が入らなくて、それでも勇利は、ヴィクトルの手から容易に腕を取り返すことができた。彼は勇利の手を、もう握ってくれていなかったから。体に、じわじわと熱が湧いてくる。この衝動はなんだろう。込み上げてくるこれは、なんなんだろう? どうして僕は、これをヴィクトルにぶつけたいって、思うんだろう?
「僕が……悩んで、決めた覚悟が、逃げだというの……? 僕が、大事なものに向き合ってないって、そう思うの……?」
 否定して、ヴィクトル。

「ああ、そうだ」

 神は残酷だ。勇利は今、それを思い知った。
「なんで? なんでそんな事言うの? 僕が何から逃げてるって言うんだよ……!」
「言われたいの?」
 冷酷な声で聞き返される。いいのかい、勇利、俺はいまからお前を暴くよ、いいんだね? そんな声がどこから聞こえてきそうなほど、冷たい声を発した彼の顔は、淡い嘲笑を浮かべていた。
 はく、と勇利の喉が空気を潰した。
「証明してやろうか」
 ヴィクトルはポケットから携帯を取り出すと、すばやくどこかへ電話をかけた。わなわなと震え始めている勇利のことなど気にも留めない。どうして。ヴィクトル、僕を見て。ちゃんと否定して。
 数コールののち出た相手に、ヴィクトルは二言三言、短く告げた。勇利にも聞き覚えのある、ヤコフの怒鳴り声がスピーカーから響き、ヴィクトルはまたも素早く電話を切った。静寂の中、ヴィクトルは携帯の電源を切り、それを床に放った。どうでも良さげに。興味なさげに。
「……何を……?」
「棄権した」
「……?」
「ロシアナショナル」
 どうでも良さげに、興味なさげに。ヴィクトルは淡々と、勇利に告げた。

 その時勇利の腹から湧き上がった衝動を、なんて呼べばいいだろう。目の前が真っ赤になって、いつのまにか、勇利はヴィクトルの胸ぐらを掴んでいた。
「っ……なんで!? なんでそんな事できるの!?」
 悲しみなのか、怒りなのか、わからない。
「僕が本気じゃないと思ってる? そうやって脅せば僕がヴィクトルのいうこと聞くと思ってる?」
「思ってない」
「思ってるよ! 思ってなきゃそんな事しない!」
 勇利は湧き上がった涙を乱暴に拭った。どうしてこんな時にまで涙が出てくるんだろう。ほら、ヴィクトルがお前を見てる。冷たい目で、僕に呆れている。
「そうやって、僕があなたのファンだからって、そうやって、そうやって、あなたがそういう事すれば、僕が手のひら返すと思ってる……!」
「思ってないよ」
「思ってるだろ!!」
 怒鳴って、勇利はずるずるとソファにへたり込んだ。肩で息をする。ヴィクトルは掴まれたままの胸ぐらからそっと勇利の手を離すと、ゆっくりと足を組み替えた。ヴィクトルの瞳は凪いでいて、いつかの時のようには、勇利の癇癪に一切付き合ってくれないようだった。
「さあ、ロシアナショナルは棄権した。結果を残さない俺は、ワールドには出られない。どうしようか?」
 ヴィクトルは面白おかしく、指先を唇に当てて、考える仕草をした。

「やれる事はひとつしかないね。勇利、お前のコーチとして、お前を真の世界王者にのし上げよう」

 ぐらぐら、頭が揺れる。ヴィクトルの言葉がこだまする。目の前がぼやける。
「嬉しいだろ? 勇利。俺ともう数ヶ月、一緒にいられるよ。俺も嬉しい。まだもう少し、勇利のスケートを見ていられる。誰よりも近くで、誰よりもそばで」
 勇利を苛め抜くこの人は、誰だろう。
「勇利に押し切られて、この2週間鍛え直してたけどね、それでも一月のロシアナショナルで優勝できるように調整なんて無理だよ。一月って、もうあと二日だよ? 月末のユーロだって厳しい。三月のワールドで、まあ、そこそこって感じ? 今俺を選手に戻したって、復帰最初の選手権で惨めに負ける俺を、世間が見たいとは思わないな」
 勇利がこんな風に傷ついていると、すかさず抱きしめてくれたヴィクトルは、どこへ行ったんだろう。
「どうして喜ばないんだい、勇利。有終の美を飾ろうっていうなら、四大陸も、ワールドも制したほうが格好いいよ。もちろんコーチングしながら、俺はトレーニングを続ける。来シーズンのグランプリシリーズで、また華々しく優勝できるようにね。どう? いいプランでしょ?」
 ヴィクトル、どうしてそんな目で僕を見るの。

「どうして喜ばないんだい、勇利?」
 ヴィクトル、どうしてそんな風に笑ってるの?
 息ができない。喉が開閉を繰り返す。はくはくと口ばかりが酸素を求める。
「教えてやろうか、勇利」
 ヴィクトルが、優しく勇利のおとがいをすくい上げた。途端に息が、肺に入り込む。ヴィクトルは勇利を抱えて、背中を撫でて、呼吸を促す。いつもならひどく安心するそれが、今は、とてつもなく怖い。顔を覗き込まれる。目が反らせない。

 ヴィクトル、やめて。

「お前、ほんとうは引退したいなんて、思ってないだろ」










 誰だろう、この人。
 こんな、蔑むような、嘲笑うような顔と、声で、勇利を見る人、勇利は知らない。

「何いって……」
「引退、引退っていうけどね。お前は本当は、引退する気なんてこれっぽっちも思ってないんだ。現にまだ日本の連盟にだって伝えてない。ああ、今から伝えるつもりだった、とかはなしだよ勇利。それじゃ宿題をやらない子供の言い訳だ」
 ヴィクトルは酷薄な笑みを浮かべて、勇利を嘲笑った。額に手を当てて、おかしそうに笑う。勇利はもう、この涙の止め方を知らなかった。対価なのだろうか。ヴィクトルにもらったものを全て突っ返して、彼を神様に戻そうとする勇利への、これが対価なら。そうなら勇利はこの半年間、とんでもなく罪深いことをしてきたのだ。

「お前は引退なんて思ってない。お前は、お前はただ……」
 そこまで言って、ヴィクトルは、勇利を抱く力を緩めた。ほんの少し距離をとって、勇利をみつめる目は、ひどく傷ついた色をしていた。
 どうしてそんな顔をするんだろう。傷ついているのは勇利なのに。はじめて、ヴィクトルにこんなにも冷たく険しい目と言葉を向けられて、ズタズタに引き裂かれて傷ついてる。
 ヴィクトルはごくりと喉を鳴らした。喉の痛みを、不快感を紛らわすようなやり方だった。ヴィクトルは一度それを辛そうにやって、髪をかきあげて目を覆った。勇利が何度も目にしたそれ。中四国九州大会の時、勇利を褒めればいいのか、叱ればいいのか。中国大会の時、勇利を壊そうか、壊さないか。でも、この時のヴィクトルは、彼自身のためにそれをやった。勇利にはそれが、何となくわかった。手を離したときに、ヴィクトルの目尻に光るものを見つけたから。
「俺を捨てようとしているだけだ」
 かすれた声は、ヴィクトルの心が傷ついていることを、いとも簡単に勇利に教えた。
「俺を一人きりにして、捨てようと、しているだけだ……」

 ガン、と強く頭を殴られたような心地になって、勇利は支えを求め、ヴィクトルの手を握った。
「な、なんで……?」
 なんでそんな風に思うのかわからなかった。勇利はただ、ヴィクトルを──ヴィクトルをあるべきところへ返そうとしているだけだ。
「そんな事、思ってない……しようとしてない、捨てようなんて……」
「思ってる。しようとしてる」
「し、してない……」
 傷つけたという事実だけが重くのしかかって、勇利は思わずヴィクトルの手を握る力を強くした。ああ、どうして僕ってこうなんだろう。今ずたずたに引き裂かれていたのに、ヴィクトルが傷ついてるってだけで、自分の痛みも忘れてしまう。
 ヴィクトルは俯いて、勇利を見てくれなかった。勇利が握った手を、握り返してはくれなかった。
「本当に、引退しようと思ってるのならね、勇利……」
 ヴィクトルは力なくうなだれた。
「俺と一緒に全部優勝して、有終の美を飾り、華々しく氷を去る、それがいいはずなんだよ。シーズンの途中で、グランプリファイナルの後に俺との契約を切るっていうのはね……」
 ヴィクトルはちらりと勇利をみやって、悲しそうに笑った。

「俺を、捨てるって事だ。ふたりで作ったプログラムから、俺をはじき出そうって事なんだ」

 信じられない。そんなことあるわけがない。やめてくれ、ヴィクトル。
「ち……違うよ……そんな……」
「俺がいらなくなったから、このままじゃ必要のない俺とどうしたって同じプログラムをシーズン終了まで滑り続けなきゃいけないから、お前はここで俺を切ったんだ。俺は、もう、用済みなんだろう?」
「違う!!」
 叫びは、部屋の空気をたわませて、すぐに消えた。力一杯喉を使って、声帯がひりつく。
 どうしようもなく途方にくれた気持ちで、勇利はヴィクトルを見た。久しぶりと思えるくらい、ようやく彼と目があった。だめだ。この瞳はだめだ。勇利をすぐに弱くする。ヴィクトルはいつだって、勇利を暴く。

「ヴィクトル……だって、僕、ひどい出来だったでしょ……?」
 限界だ。プライドもくそもない。ヴィクトルの前で、勇利はいつだって強くも無力にもなれた。でもそれは、彼の前でだけだった、ハリボテだった、全部、それを、知ってしまったことを、知られたくなかった。けれどもうダメだ。賽は投げられ、川は決壊した。
「ロシア大会、あなたがいなくても大丈夫って、あなたを送り出したのは僕なのに……ヴィクトルが僕に教えてくれた事、全部無駄だったって思われたくなかったのに、僕、表彰台に登れなかった……」
「お前をひとりにした俺の責任だよ」
「違う!」
「ファイナル行けたじゃないか。優勝だってした。それじゃダメなのか?」
「ダメだよ!」
 勇利はヴィクトルを見上げた。彼の瞳は、存外優しい色をしていた。
「演技中、ヴィクトルのことばかり考えた! 落ち着け、落ち着けってなんども唱えた! ヴィクトルの顔を思い浮かべた! それでも僕、4位だった……っ」
 あの日のことは鮮明に思い出せる、ひょっとしたら、ファイナルの演技よりも。最初のセカンドが抜けた。リカバリーしようとして、必要のないコンビネーションを飛んでしまった。褒められるジャンプがほとんどなかった。たくさんのことを考えた。ヴィクトルがいてもいなくても、どうせキツさは一緒。それでも、ひどく心が、体が疲れた。
「ファイナルに行けたのは全部運だよ……」
 ミケーレがもし、他大会でもっと上位に入賞していれば、勇利はファイナルから漏れていた。中国大会での入賞、ロシア大会でのSPの貯金が、つまり、ヴィクトルが居てくれた時間が、勇利を生かした。

「あなたがいないとダメだった! ヴィクトルがいない、それだけで崩れた! きっとこれからもそう! そんなのダメだ、僕は借りてるだけなのに、ヴィクトルの時間を、神様にもらってるだけなのに! ヴィクトルをロシアに返さなきゃ、だめなのに! ヴィクトルコーチがいないと、何にもできない僕は……!」
「ほら」
 突然、柔らかい響きが耳をくすぐった。
 ヴィクトルはいつのまにか、笑っていた。

「やっぱり引退する気なんてないじゃないか」
「……え?」
 ヴィクトルはくすくすとおかしそうに笑うと、勇利を今度は優しく、暖かく抱きしめた。ひりついて痛みを訴える勇利の?をから涙をぬぐって、ひたいを合わせる。
「ねえ、勇利気づいてる? それ、そういうことだよね?」
 訳も分からず見上げる勇利を、ヴィクトルは愛おしそうに見下ろした。
「つまり勇利は、俺が一緒じゃないと満足に滑れない自分に、失望したんでしょ?」
 少し迷って、頷く。
「それで自分はもう潮時だと悟って、引退を決意したんでしょ?」
 そう、その通り。
 ヴィクトルは答えに導く教師のように、ゆっくりと、懇切丁寧に、勇利に噛み砕いて言い聞かせた。
「でもそれじゃあ、さっき言った通り、俺はこんな短期間でナショナルやユーロやワールドへの調整なんて無理だから、このまま勇利のコーチを続けた方が得策だよ? 引退するなら華々しい方がいいじゃない。俺、どこまでも付き合うよ。一緒に四大陸もワールドも金メダルとろうよ。そしたら俺、ちゃあんと復帰して、来年の今頃、テレビ越しに勇利に俺が金メダルにキスしてるところ、見せてあげる」
 わかる? と聞かれて、戸惑いながらも頷く。勇利だって、無茶なことを言っているのはわかっていた。ヴィクトルは勇利を指導しながら自分のコンディションもそれなりに維持していたけれど、SPはともかくFSの用意が全くないのだ。
「ここで、俺の手を離すっていうことはさ、勇利……」
 勇利のひたいをあらわにすると、ヴィクトルはそこに口付けた。笑って。
「勇利のカッコよすぎる決意にしか、聞こえないよ」

「ヴィクトル、僕、ヴィクトルの力がなくても勝てるように頑張るよ。そして、あなたと競える人になってみせる……あなたの手を離すのは、そのためのステップだよ、って……言ってるようにしか、聞こえない」










「……さて、勇利」
 ぐずぐず泣き続ける勇利の肩を抱いて、ヴィクトルは仕切り直すように足を組んだ。優しい声に、ほっとする。勇利に寄り添ってくれるヴィクトルの声だ。これを聞くと勇利は、いつも温かな気持ちになる。
「散々お前のこころがわからなくて、泣かせてきた俺だけど、今の俺はお前をお前以上に理解しているよ。お前は引退なんてしない、本当はね。どうせユーロの俺の滑りでも見て、また苦しくなって滑りたくて、また俺のプロのコピーでもして、ああやっぱり滑りたいなって思って、復帰する。そんな未来がありありと浮かぶ」
 こんな風にずばずばと言われるのも、久しくない気がするだけで、珍しいことではなかった。ヴィクトルはいつだって、勇利のためになることを乱暴に言う。
「じゃあ、何が逃げかっていうと、お前のこころだ。お前はお前の気持ちから、逃げている」
 ぴ、と指が一本たつ。こころ。心。勇利の気持ちとは、なんだろう。泣き疲れた体のまま、勇利はぼんやりと考えてみた。
「そして、なぜお前が俺を捨てることになるかというと、お前はね、勇利」
 夢心地のまま、ヴィクトルの腕に抱かれて眠りそうになったのに。
「俺を一人にする気なんだ」
 また、氷に叩きつけられたような気になった。そんな気になる、寂しい声だった。

「俺をまた、神様に仕立て上げようっていうんだろう? 勇利」

 悲しい顔だった。

「──裏切られた気分だよ、勇利」










 先ほどまで勇利を優しく抱きとめていたヴィクトルは、再び冬の風を背負っていた。
「お前は、結局のところ、俺を許してなんてくれなかったんだ。俺に、お前のこころをくれなかった」
 ヴィクトルの悲しい声音は、はっきりいって、勇利には寝耳に水の話だった。
 あんなにあんなにあげたのに、どういうことなんだろう。勇利の気持ちは、想いは、愛は、伝わってなかったということ何だろうか。ヴィクトルを想って滑った。ヴィクトルに全てを捧げた。
「ああ、くれなかった、っていうのは違うか。そうだな、勇利……お前は、俺をこころに入れてくれなかった。お前のこころはね、勇利。ガラスのように脆く、ガラスのように繊細。細やかで、透き通っていて、美しい。でも、その形は茨だ。お前の小さな、美しい、宝石のような心を幾重にも守っている、ガラス製のいばら。俺はそのいばらに寄り添う形で、その隙間に入り込んだはいいけれど、お前はいばらの奥に、入らせてくれなかった」
 ドクン、と嫌な音を立てて心臓が鳴る。不意に、三年前、病室で祈るような気持ちでリンクメイトの無事を祈ったことを思い出した。
「お前は結局、一人で滑って行く気なんだ。俺から奪った愛を糧に、それを永遠に舐めしゃぶって、それだけを栄養に、生きながらえようとしている。俺にさらなる愛を与えさせようとしてくれない。お前は、俺たちの大事な決断に、俺を気持ちを介在させる気が、全くない」
「や、やめて……」
 勇利は震える手でヴィクトルに縋った。ダメだ。これはダメだ。何かがおかしい。勇利の、最後の砦を、一枚一枚剥がされる、そんな感覚だった。やめてほしい。ヴィクトル、それだけは、ダメだ。
「お前は俺を利用しただけだ。結局ひとりで決めて、俺を神様に戻そうとする。俺を氷の上だけのエンターテイナーに戻そうとする。俺はどうしたって戻れないのに。勇利に出会う前の俺には、どうしたって戻れないのに、お前はそれを、俺に強いてる」
 責めるような目が、勇利を痛めつける。違うんだ、ヴィクトル。そう言いたいのに、音が出てこない。
「俺から愛を絞り尽くして、出汁をとって、残りカスの俺を氷の上に戻そうとしてる。そして、カラカラになった俺にいうんだ。『ヴィクトル、また僕の神様に戻って。つまらなさそうな顔で観客を熱狂させて、また五連覇の奇跡をみせてよ』」
「違う……違う、違う」
 そう、ヴィクトルは神様に戻る。僕の大好きな、スケートの神様。でも前と同じだなんて思わない。前と同じな訳がない。そうだろ、ヴィクトル。それくらいのこと、僕だってきちんとわかってる。
「ねえ勇利、もし俺が、本当はひどい怪我をしていて、現役復帰が絶望的だったら、おとなしく俺にコーチさせ続けてくれた?」
 ぴしりと心臓が凍る。怪我? そんな、筈はない。ヴィクトルが。でも、そう。ヴィクトルが怪我をしていたら、彼は永遠に僕のコーチで……僕はそれを望んで……
「くれないよね? だってお前は、俺の気持ちなんてこれっぽっちも考えてないんだから」
 叩き落される。背中から谷底へ。
「悲劇のヒロインぶるなよ勇利。僕はヴィクトルを世界から奪った悪者です、お詫びに僕は引退します、さあどうぞお返ししますって?勇利──」
 ヴィクトルは勇利の?を掴むと、ゆっくりと顔を寄せた。
「俺にお前の理想を押し付けるなよ」

「やめ……やめて、やめてよ!」
 勇利は弾かれたように立ち上がった。もうどうすればいいかわからない。けれどここで、守らなければ。勇利の心を守らなければ、なにかがひしゃげて、治らなくなる。全身が痛い。胸をかきむしる。止まった筈の涙が、また溢れた。
「僕はそんなこと思ってない! 僕はただ、また氷の上で踊るヴィクトルを見たいだけだ! ずっとそれに憧れてたんだから! スケーターのあなたに恋をしたんだから! 僕は神様、あなたの、あなたの時間を少しもらっただけ! 夢のような時間だったんだ、もう時間なんだよ、現実に帰らなきゃ。ヴィクトルを世界に返さなきゃ、僕は正しいことをしてる!」
 勇利の渾身の叫びにだって、ヴィクトルはとりあってくれなかった。ヴィクトルはただ冷たい瞳で、勇利を暗く見つめていた。
 どうしてなんだ、ヴィクトル。そんな風に僕をみるあなたじゃなかった筈なのに。どうして。どうして!
「どうしてわかってくれないのヴィクトル──僕は、世界中の誰よりヴィクトル・ニキフォロフを愛してる!」

「……どうしてわかってくれないの、勇利」
 ヴィクトルは立ち上がると、そっと勇利の手を握った。勇利の手を引き、ベッドへと連れて行く。トン、と押された体は、あっけなくシーツの海に沈んだ。覆いかぶさって、ヴィクトルは、もう一度どうして、と勇利が聞きたい問いかけをした。
「とっても単純なことなんだ。とても、本当に、びっくりするくらい簡単で、シンプルで、何よりも正しい……」
 ヴィクトルは勇利の前髪をかきあげると、困惑したままの勇利を覗き込んだ。
「どうして、そばにいちゃいけないんだ? 俺たちはコーチと生徒ではなくなる、でも、同じスケーターとしてはやっていけるよ。ヴィクトルコーチがいないと、勇利は滑れない? いいよ、じゃあ、一緒に暮らそう。コーチとしてそばにはいられないけれど、俺たちはライバルになってしまうけど、それでもリンクサイドで抱きしめてあげる。キスクラで一緒に座ってあげる。お前の新しいコーチと一緒にお前を真ん中に挟んで、勇利の得点を喜んであげる。勇利が不安になったら、飛んでってあげる。ジャンプに不安があるなら、俺が教えてあげる。何にも変わらないよ勇利。俺たちの距離を変える必要なんて、これっぽっちもないんだ……」
 ねえ、わかる? そう言って、ヴィクトルは勇利の上に体を横たえた。ほんの数時間前、同じ場所で、同じように抱きしめあったのに、心のありようがぐちゃぐちゃだった。近くなったのか遠くなったのかすらわからない。ヴィクトルは懇願するように、勇利の首筋に顔を埋めた。勇利が、おそるおそるといった風に両腕をあげる。そっとヴィクトルの背中と首に手を添えた。
「だって……だって、そんな、そんなの」
「おかしい?」
 ヴィクトルのくぐもった声に、思わず頭が縦に振る。そう、だって。
「そう……変、変だよ、だってそれじゃあまるで、ヴィクトル、まるで、まるで僕のこと……」
 じわりと?が熱くなった。目が熱い。ヴィクトル、本当に?
「……勇利、I love you」
 いつのまにか顔をあげていたヴィクトルが、幸せそうに笑った。
「勇利、愛してる!」
 おもちゃを見つけた犬のように、ヴィクトルは顔を華やがせた。ああ、やっとわかってくれた! そう言って、勇利をきつく抱きしめた。
「そうだよ勇利、たったそれだけ! なんて難解なんだ、お前は! "It's simple as it can be" だよ、"Just a spoonful of sugar"、たったそれだけのこと!」

 ぼろりと大粒の涙が、一粒だけ、ヴィクトルの空とも海ともつかない瞳からこぼれた。
「勇利──愛してる! お前を、この世の、なによりも!」
 ヴィクトルは勇利を引き上げると、強引に勇利を膝に乗せた。重いよと言っても、黙って! と返される。
「ああ、勇利……そういうことなんだよ! もうコーチと生徒じゃない、だから何? 俺たち、ずっとずっと二人でいられるよ、どんな形でも! お前が、お前だけは、俺たちを切り離そうとしないでくれ……」
 語尾がしぼんで、ずるずるとプラチナブロンドが、勇利の肩で形を崩す。ほんの少しだけ、肩が湿った。勇利はきつく抱きしめると、幸せなのか不安なのかわからないまま、涙を止める理由もなく、いつまでたっても愚図った。
「だってヴィクトル……そんなの……そんなの、誰も納得しないよぉ……」
「する」
 しない。世界の誰も。勝生勇利は一年もヴィクトル・ニキフォロフを世界から奪い、その代償に消えるべきだ。きっと多くの人がそう思っているに違いないと、思わなければ、勇利はダメだった。
 でも、そんなことはないとヴィクトルは言う。力強く、勇利を頷かせる声で。
「俺は、もう自分が限界だと思ってた。勇利に出会って、お前が一差しの光だと気づいたよ。お前と過ごした半年が、何よりも掛け替えのないものになったのに、お前からもらったものを糧に、俺がただのエンターテイナーに戻れると思うの? ありがとう勇利、助かったよ〜じゃあね〜、って? どれだけ酷いやつなんだ、俺は……」
 力なく笑って、ヴィクトルはおとがいを勇利の肩に乗せた。ヴィクトルは、ベッドの背後にある鏡にうつる自分を見て、どんな顔をしているんだろう。顔が見たかったけれど、ヴィクトルは変わらずきつく勇利を抱きしめていたから、叶わなかった。勇利が少しでも力を緩めると、その分さらにきつくされるから、勇利はしっかり抱きしめ返した。
「始めの頃は、そうだったかも。でも勇利、そんな俺を変えたのは、お前だよ。お前のことが、とっても大事で、愛おしくて、離れがたくて、俺が俺の選手生命を投げ打ってでも、永遠にお前のコーチをしたいって思えるほどに、勇利がずっと引退しなきゃいいのにって、それくらい、お前のことが大切になったって、だれよりもお前は、きちんとわかってくれていたのに……」
 ぼたぼたと音がするくらい、ヴィクトルの目から涙が溢れた。
「どうして俺たちの関係の決断に、どうして俺を噛ませてくれないんだ....勇利、どうして」
 顔が見たい。涙をぬぐってあげたい。そう思って、勇利は強引に自分の肩から顔を上げさせた。ヴィクトル、お願い。そう囁いてお願いしたのに、ヴィクトルは一向に顔を上げない。どうしようと思っていると、突如目を真っ赤に晴らし、涙の跡が幾重にものこるヴィクトルが、キッと眦を釣り上げて勇利を詰った。
「勇利のバカ。自己中心、自己完結、身勝手、ヤリ捨てぽい、の傲慢男!」
「はっ、はぁあ!?」
 思わず叫んでも、ヴィクトルは止まらなかった。
「そういうとこある、勇利って! 俺と離れるのが辛いくせに、俺と離れたくなんてないくせに! 俺のためとか綺麗ごとを言って、俺の手を離そうとする! これが勝手じゃなくて、なんだっていうんだ? 俺の気持ち、全然考えてない。最低、すごく最低、俺がいままで勇利を傷つけたどの理由より、なにより最低!」
 ヴィクトルの勢いに押されて、彼の膝から滑り落ちる。ふたたびシーツに頭を押し付けられた勇利に覆いかぶさって、ヴィクトルはなおも続けた。
「この俺を捨てようだなんて、そんな扱い、誰にも受けたことないよ! 勇利の、バカッ! 俺を捨てようったって、そうはいかない!」
 言い訳をさせてくれ。捨てるなんて思っていない。勇利は顔を真っ赤にして反論した。
「捨てるなんてしてないって、ちが、違うって言ってるだろ!」
「違わない! そういうことなんだ、お前が言ってるのは──何遍言わせれば認めるんだ? 俺とあった全てをなかったことにして、俺をただの思い出にして、また観賞用の神様にして、その思い出のなか、一人で幸せに生きていこうとしてる! 俺の気持ちなんて考えもせずに! 俺がお前を、愛してるってことを認めてくれない! 許してくれない!」
 限界だ。今度こそ、間違いなく、勇利の心の糸は切れる。ああ、ダメだよヴィクトル、一線を超えないで。あなたが一言でも僕をけしかければ──「お前は俺のことなんて、なんとも思っていないだろうけど!」
「──僕だってあなたを愛してるよ!」
 ほら、きた。

「さっ、さっきから、さっきから聞いてれば、酷いことばっか、ヴィクトルだって僕の気持ち、全然わかってない、考えてないっ……僕があなたをどれだけ愛してるか、わか、わかってるならそんなこと言わない!」
 僕の泉は狭く深い。スケートとヴィクトルの事になると、呆れるくらい涙が溢れる。
「僕が、僕がどれだけ、どれくらい昔からヴィクトルを好きだと思ってんの? 12だよ、ただの趣味だったスケートを、僕の全てにしちゃったのはヴィクトルだよ! もう十年以上も僕は、僕はあなたを、あなただけをみて……」
 ああ、ダメだ。もう、止まらない……。
「あなたがどれだけ、世界から愛されてるか、僕は、僕はしってる、あなた以上にしってる……僕がどれだけあなたを愛してるか、僕は、わかってる……」
 拭っても拭っても止まらない、これが僕の愛の大きさなのだとしたら、おめでとうヴィクトル、わかりやすいでしょう。でもあげるわけにはいかない。そんなことをしたら、僕たちは止まらなくなってしまう。
「この気持ちがなんなのかわかんないよ、でも愛なのはわかる、あなたが一番大事だよ、きっと愛してる! この世のなによりも! だからっ……」
 馬鹿馬鹿しくても、これが僕の愛情表現だったんだ。
「だからこそ、僕はあなたを返すんだよ、ロシアに、世界に、どうして、なんで? なんでわかってくれないんだよぉ……」

「……だからこそ」
 ヴィクトルはしゃくりあげる勇利の?をそっと包んで、額を擦り合わせた。演技前のように、そっと、二人だけの世界をつくるために。
「だからこそ、勇利、俺を愛してるなら、お前はその、くっだらない決断の前に、俺に一言だって告げるべきだったんだ……」
 優しく優しく言い聞かせると、勇利はぐずぐずに溶けた目を、それでもしっかりとヴィクトルに合わせた。
「く、くだらない、って、ひど……」
「くだらないよ……いい? 勇利、よーく聞いて……」
 祈りはもう済んだ。ヴィクトルはただ、唱えればいい。彼はようく知っている、自分の言葉が、勇利にとって呪いにも魔法にもなることを。
「お前はこのままコンディションを整えて、俺と一緒に四大陸とワールドで金メダルを取る。正真正銘、世界王者として。俺は現役復帰する。お前も、現役を続行する。引退なんてしない。俺のためにしか滑れない? 奇遇だね、勇利。俺ももう、お前のためにしか、この愛を氷の上で表現できる気がしないよ……」
 それでも、お互いの愛で満ちたこの空間でなら、ヴィクトルが放つ呪文は、すべて魔法となって勇利を包むだろう。蝕む呪いではなく、輝くまじないとして。
「俺がそばにいないと不安? それも簡単、このままロシアにおいで、勇利。俺が長谷津にいってもいいけれど、リンクはともかく、トレーニング設備がね……。お前もヤコフの門下に入ろう。俺と一緒に住めばいい。そしたら、ぜーんぶ今まで通り。一緒に走りにいこうよ。海をみよう? 毎朝リンクで待ち合わせをして、今度は俺は見てるだけじゃない、お前と一緒に滑るんだ。ライバルとして……ねえ、それってすっごくエキサイティングじゃない?」
 ほんの少しだけ、勇利の顔に笑顔が現れ始める。嬉しくて、嬉しくて、ヴィクトルはその真っ赤な顔に頬ずりをした。
「泣かせてごめんね勇利。でも、本気だよ。これは全部、おれのこころ。お前への。お前だけの」
 額を合わせて、見つめ合えば、どんなことだって透き通るように簡単だった。勇利の目は、ヴィクトルをいとも簡単に引き摺り込むのだ。いとしさ、やさしさ、未来への不安、戸惑い、幸福、そういうものがないまぜになっている。でも、一番奥深くと、一番上の潤みに、ヴィクトルへの純粋な愛がみてとれたから、こんな場面でも、ヴィクトルは簡単にジョークが言えた。
「……泣かれるのは苦手なんだ。こういう時、どうしたらいいのかわからない。……キスでもすればいいのかい?」
 真っ赤になって、ぴしりと固まって、数秒かかり、それでも勇利はぶんぶんと頷いた。それくらいしか、涙をとめるほうほうが思いつかったのだ。
「してっ……キスしてよ、ヴィクトル……」
 笑う勇利の眼鏡を奪った。
 最初はただ口付けて、唇で勇利の形をなぞった。半年以上かけて、ヴィクトルが手入れを繰り返した柔らかい唇。触れて、なぞって、吸い付いて、子供だましのようなキスでも一通り満足できたあと、ヴィクトルは舌を使って深く繋がった。もう黙っていたって愛は伝わるのに、勇利は何度もなんども、息継ぎよりも優先させて、ヴィクトルに思いの丈をぶつけた。
「僕、バカだから、滑るしかっ、ん、できない、それと、ふっ……あなたを、見ていることしか、能がない、ふ、うう〜っ」
 そんなことないよ、とキスの合間に教え込む。脇腹を沿って、腰を撫でた。首に回した手で、艶やかな黒髪を撫でた。
「キスして、教えて、ヴィクトル、覚えの悪いっ……生徒だから、僕がわかるまで、僕を愛してるって、教えてよ」
「──お安い御用だ、勇利。ジャンプと違って、俺の愛は底なしだよ。何回でもキスして、教えてあげる。だから勇利、お前も俺に教えてくれなきゃ嫌だよ、ちゃんとね。お前も俺を愛してるって、教えてくれる? スケートでね」
 ちゅ、と口付けると、勇利はまたぼろぼろと泣いた。勇利の際限ない涙には、ヴィクトルの手にも余る。どうにかして泣き止んでくれないかな、と目尻に吸い付くと、勇利は余計にしゃくり上げた。どうすればいいんだ、まったく……。
「ひっ、ぅぐ、うん、ごめ、ごめんなさい」
「いいよ。勇利は優秀な生徒だから、許してあげる。でも、もうこれっきりにして。俺を、こんな風に怖がらせるのは……」
 死んでしまうかと思ったよ。冬の海の底に沈められた気分だった。
「ごめ、」
「黙って」
 謝罪はもう必要なかった。ヴィクトルをちゃんと、勇利の未来に入れてくれたから。怖かったし不安だったけれど、勇利はいつだって、最後の最後でヴィクトルを喜ばせるのだから。
 深く深くキスをして、息をつく暇もないほどに、ヴィクトルは角度をかえて勇利を愛した。歯列、唇の裏側、上顎、?の肉。全てを余すところ味わわないと治まりそうもなく、ヴィクトルはずっとキスを続けていられた。
 ヴィクトル、待ってとあえかな声で、勇利が中断を促した。見下ろせば、ヴィクトルの大好きな、決意に満ちた顔。

「ヴィクトル、僕、僕ね……」
 はふ、と息をつきながら、泣きながら、幸せそうに、笑いながら。勇利はヴィクトルを見上げて微笑んだ。
「現役、続けるよ。四大陸も、ワールドも出るよ! その先も、ずっと! だから、だからヴィクトルッ」
 ヴィクトルは今朝の自分を思い返した。ヴィクトルは明日、勇利をサンクトペテルブルクに連れていく。二人でニューイヤーを祝うのだ。そうしたら、二月の四大陸と、三月の世界選手権の話をしてみせる。──どうだ、やってやったぞ。

「引退まで! 僕のこと、お願いします……!」
「……ワオ。こんなに嬉しいプロポーズはないよ、勇利」
 勇利の?の涙の跡が、彼のものか、ヴィクトルのものかはもうわからない。でも泣いたカラスが、もう笑ってる。笑いが止まらない。ヴィクトルは勇利の赤く火照った、世界で一番かわいい?を撫でて、音高く、そこにキスをした。ああ勇利、愛してる!
「勇利がずーっと、引退しなきゃいいのに!」



Just a spoonful of sugar helps the medicine go down.

2017年3月2日(初出:2016年12月6日)