窓一面からさしこむ朝日は、黒いフレームの天蓋からおざなりにかかるヴェール越しにやわらかく届く。おとぎ話のように薄布を通してみる世界は、勇利をなかなか夢から離さない。肌をすべるリネンの滑らかさも、自分の体に回るヴィクトルのたくましい腕も、朝日に輝く彼の銀糸も......すべてが作られた作品のようで、いつまでだってここにいたいと思わせてしまう。
 唇の前には、ちょうどヴィクトルの顎がある。首を伸ばすには億劫で、勇利は花にさそわれる蝶のように、ふらふらとそこに吸い付いた。そのまま胸元に潜り込んで、抱きしめてもらうのが好きだ。胸いっぱいに彼の匂いを吸い込んで、境界線をなくすように。

 勇利は毎日、幸せな夢をみて起きる。ロシアに移住してから、ずっとだ。

 ロシアで永住権の取得を決めた時は、まだヴィクトルと永遠を誓い合うほどの仲ではなかった。お互い目をそらしていたのは多分、自分たちの愛を、一般的な恋や愛と同列化されたくないという意地やプライドのようなものがあったからでもあるし、もう充分ふたりで幸せなのに、ふたりの間に新しい水を注いで、なにかが溢れて崩れるのを恐れていたからでもあったーーーと、思う。
 国籍を移すつもりは今後もない。勇利は自分が日本のスケーターであるという誇りがあるし、ヴィクトルもまたそうであることを望んでいる。一緒に暮らしていたも同然だったけれど、あの日、勇利はかき集めた必要書類と一緒にヴィクトルの家の戸を叩いた。もう、何をされてもいいどんなことをされてもいい。この関係を壊して、また積み上げなければならなくとも。ずっと彼のそばにいられるのなら、ずっと彼の心を抱きしめられるのなら。
 マッカチンを失って、ヴィクトルを一人、あの広くこじんまりとしたアパルトマンに残すわけにはいかなかった。



夢みる毛玉



 勇利との師弟関係を解消し、現役復帰をはたした時、ヴィクトルはもう常勝の王ではなくなっていた。彼は衰えどころか、進化を遂げて復活した。彼が勇利との一年で育んだものは、彼をさらに飛躍させ、彼に空白の一年を後悔させようと躍起になる人は、世界のどこにだっていなかった。単純にまわりが、もはやヴィクトル一人に冠をかぶらせてなるものか、とあがいた結果だと勇利は思う。誰が勝ってもおかしくない乱戦状態がしばらく続き、あの瞬間の男子フィギュア界は黎明期といってよかっただろう。ヴィクトルはずっと楽しそうだった。かつての頃のように、全身で勝利を喜び、負けの悔しさを表した。勝っても負けても、次々と湧き上がるアイディアを形にしていった。
 勇利もまた、勝ったり負けたりしながら、自分で振り付けをし、友人に曲をプロデュースし、若手の指導を手伝うなどして、引退を決意する頃には、スケートで自己を表現せずとも生きていける、そんな自信がしっかり根付いていた。

 ヴィクトルのアパルトマンは、真冬のロシアでもきちんと明るい、そんな設計がされた家だ。スカンディネヴィアンの内装はおしゃれで、ヴィクトルの感性をよく表している。だが、ロシアという国において絶大な成功をおさめた彼の家は、一人で生きていくには充分な広さで、けれど彼の経歴と資産をみれば手狭にすぎるほどこじんまりとしていた。ゲストルームの一つすらなく、いかに彼がいままで一人と一匹で生きていこうとしていたのかがうかがえた。キッチン、ダイニング、リビング、ワークスペースに、寝室とバスルーム。きっとヴィクトルは、たとえ誰か大切な人をみつけても、そしてその誰かと結婚しても、決してこのアパルトマンに招くことはしなかっただろう。大きな別荘を買ってあげて、ハウスキーパーを雇わなければならないような広くさみしい家で、美しい伴侶と豪華絢爛な生活を、人生の成功と名のつくものを全て手に入れた男として、日々テレビに取り上げられていたに違いない。そしてたまにマッカチンだけを連れて、この独り身用のアパルトマンに戻り、自分だけの世界に浸っていたのだ。

 ヴィクトルは世界を愛している。
 家族を、友人を、ファンを、スケートを。そしてなにより自分自身を。世界を愛していて、世界に愛されていて、けれどヴィクトルは何も拒まないだけで、なにかを受け入れたことはない。唯一マッカチンだけが、彼の真の「とも」たりえたのだ。彼は常になにかの代弁者であったけれど、彼のひめた熱の、激情の表現者ではなかったのかもしれない。そのことに誰よりも悲しみ、追い立てられたのはきっと他でもないヴィクトル自身でーーーだからこそ勇利は、二十三のあの凍える春の日に、ヴィクトルが勇利を選んで来てくれたことが、なによりも嬉しかった。そして今はなによりも......ヴィクトルが一人と一匹で、楽しく、幸せに、すこしだけ寂しく、ささやかな世界で生きるために用意されたこのこじんまりとした部屋の、幸せを詰め込んだようなベッドで、ともに寝られることが嬉しかった。ヴィクトルは勇利がここに住むことを許すどころか、ここを勇利の帰る家にすることを自ら望んでくれたのだ。お互いだけを見つめあって生きたあの一年で、ヴィクトルの本質を理解した勇利が、それをどれほど喜んだか。ヴィクトルはきっと知り得ないし、知り得たとしてーーーそれが彼の想像の百倍はいくということを、思いつきもしないに違いなかった。

 毎日そんなことを考えながら起きているわけではないけれど、仕方のないことと勇利は思う。朝日のなか眠るヴィクトルは美しくて、勇利は神話の具現化をみたような気になって、つい、叙情的になってしまうのだ。壁にかかる時計をみて、現実に引き戻されるのもいつものこと。それでもヴィクトルの髪を撫でながらまどろみ続ければ、彼も目覚めてくれるのももう、ずっと前から知っていた。
「......おなかすいた」
 僕のくちは食べ物じゃないぞ、なんて笑う勇利を無視して、目覚めてはじめにヴィクトルがキスをねだるのも、昔からのことだった。
「僕も。ねえ、もう起きようよ。はなして」
 勇利のぽってりとした唇は昨夜の名残だ。勇利だって嬉しいけれど、朝からずっとは一日の予定に差し支える。指で銀色をかきまぜながらお願いすれば、今日のヴィクトルは、少しききわけのない子供になった。
「んー......もうすこし俺とキスしててよ、勇利」
「甘えたがなおらないなぁ......」
「......そんな俺も好きでしょ?」
 甘えた結構、のしかかってくるヴィクトルについつい応えてしまうのも、いつものことだった。

 ここ数年で、ヴィクトルの日本語はものすごく上手くなった。勇利のロシア語も同様に。
 ふたりで一緒に生きていくと決めてから、ヴィクトルは二人の会話に日本語を使い、勇利はロシア語を使っている。お互いの言葉で愛や感謝を伝えられることが、どれほど幸せで嬉しいことなのか、勇利はようやく知ることができた。長谷津で暮らしていた頃、見せなかっただけで、ヴィクトルが直面したであろう困難も。彼は勇利と違い、どこでだって簡単に人を魅了してしまうから、苦なんて感じなかったのかもしれないけれど。勇利のことばを覚えて使ってくれようとしていたことが、どれほど愛に満ちたことなのか、ロシア語に数ある愛の言葉だけでも覚えるのに精一杯だった勇利は、わかってよかった、そう思う。ヴィクトルは日本語のみならず、佐賀の言葉も覚えてくれた。
 勇利はもう、四捨五入なんて面倒な言葉をつかわなくたって三十路にとどく年齢だし、これからもスケートに関わって生きたければ、なるべく体は大事にしなければならない。ふたりでもっと広いベッドか、別々のベッドで眠るのもいいと思うのだけれど、それだけは嫌だと撥ね付けたのはヴィクトルだ。たとえこの小さな城を手放しても、勇利と二人寝るのに必要なだけのサイズのベッドただ一つ、これだけは譲れないとそう言って......勇利と寝る時間を、場所を大切にしてくれるいじらしさに、その愛を試してみたくなって、そんな事を言ったのを、勇利はいまだに謝れずにいる。だから勇利はそれ以来、甘酸っぱい罪悪感を抱えながら、彼の頭を抱きしめて、顔中にキスしながら目覚めるのが好きだ。
 ヴィクトルの指導の賜物で、勇利はもう、何にだってなれる。彼の目覚めをうながす王子にだって、熱を受け入れる娼婦にだって、いつまでも彼を離さない魔女にだって。

 数分ほど、ヴィクトルの望むままキスを続けてから、とちゅう戯れのように腰を撫でられたりもしたけれど、勇利はヴィクトルの腕をむりやりはがしてベッドを出た。いい加減お腹が空いたのだ。脱ぎ捨てられたままのヴィクトルのシャツを羽織ってキスをねだれば、不満そうなふくれっ面がすぐに消えるのももうわかっている。起き上がった体勢から勇利は動かないから、ヴィクトルはキスをするのに起き上がらなくてはならなくて......ここ最近はそんな手口ばかり使う勇利に、ヴィクトルは幸せそうに不満ぶってくれる。
「おはよう勇利、おれの人生の愛しい人」
「ドブラエウートラ ヴィーカ、マヨー ソーニシュカ。ねえそれ "Love of my life" って言いたいの? 日本語できくと変な感じ」
「そう? 嬉しくない?」
「うーん......」
 ベッドに腰掛けて、ボタンを留めていく。ヴィクトルが腰にひたいを擦り付けてくる感触がして、そっと髪を撫でた。
「なんていったらいいかな。"My love person in life" みたいな、ちょっとちぐはぐな気がする」
「そうか......勇利が俺の愛を感じてくれないなら意味ないな。どう言えば自然?」
「んーー....わかんない。日本語はそんなに愛のフレーズ多くないから」
 とうとう諦めたのか、ヴィクトルは勢い良くベッドから身を起こした。反対側からベッドを回って、ワードローブを漁る勇利に近づく。投げて寄越された新しい下着を身につけながら、ヴィクトルは唸った。
「いつも思うけど、不便だよねぇ。気軽に愛を囁けないし......こんなふうに俺が勇利を表現する言葉を考えても、変な言葉になってしまう」
 二人の服は分けられていない。ヴィクトルのズボンを引き当てた勇利は不満そうに鼻を鳴らして、それもヴィクトルによこした。それを着るつもりはないので、受け取ってもベッドに放り投げられたけれど。
 ヴィクトルはこちらを見ない勇利の背中にぴたりとくっついて、ゆっくり腕を前に回した。
「あ、こらちょっと」
 勇利が留めたばかりのボタンを下から外していく不埒な手を、勇利がつねる。それでもヴィクトルはやめないから、勇利は眉根を寄せながら肩を怒らせた。なんでもいい、さっさと自分のシャツを取り出して着ればいいのだ。
「ゆう・り」
 ヴィクトルは情事を思い起こさせるような声をたっぷり使って、勇利の耳を食んだ。半ばまで開けられたシャツの身頃をいやらしく開いて、ヘソの両側から太もものつけねまで両手を下ろす。小さく息をつめた勇利に気をよくして、ヴィクトルはちゅうと?を吸った。
「シャツは着て、下着はつけないなんて、エッチだよ、勇利」
「っ......うるさいな、僕はすぐ着替えるつもりで」
「裸で出ればいいだろ?」
「僕は裸族じゃな...っん」
 内腿をくすぐられると、どうしても鼻にかかった声が出る。怒った顔を作って振り返っても、ヴィクトルは唇が近くなったことに喜ぶだけだ。何度か唇の裏側を舌でなぞられて、勇利の腰に震えが走る。これ以上はだめだと肩を押して、ヴィクトルはようやく離れた。
「いい加減にして」
「これ、俺のシャツだよ、ゆーり」
「ヴィクトル」
 ヴィクトルは肩をひょいと竦めて、今度は色のない手つきでシャツのボタンを全て外した。首元に手がかけられて、ゆっくりと脱がされていく。ふと、首筋に唇の感触がかかった。プラチナブロンドが柔らかく肌をさわって、けぶる睫毛が勇利の顎をくすぐる。子供の真似事のようなキスはただ気持ちよくて、もう、とたしなめる声で叱る勇利だって、結局くしゃりとヴィクトルの髪を乱すだけだ。
「勇利は......ロシア語覚えてからたくさん愛を囁いてくれるようになったけど......付き合いはじめのころは寂しかったな。日本人はそういうものって思ってても、全然いってくれないから」
「......謝ればいいの?」
 いまはこんなに愛してるのに。首をそらしてヴィクトルの首に口をつけてくる勇利の唇が気持ちいい。ヴィクトルは目を伏せると、穏やかな快感につつまれたまま勇利を抱きしめた。
「そうじゃなくて。その代わり、たまに熱烈で、過激で、すっごい言葉をくれたから、さみしいなんていう暇はなかったよってこと」
「......例えば?」
「勇利がいってよ、日本人なんだから」
 ヴィクトルが深く深く口付けてくる。勇利のよわい上顎を舌で舐って、上唇を挟んで、折を見て勇利の睫毛にそっとキスをした。いつだってヴィクトルは覆いかぶさるようにキスをするから、勇利はヴィクトルの背中にしがみつくのに必死だ。体が柔らかくなければできない。首を支える手が、耳の後ろをそっと撫ぜる。腰に添えられた手が、戯れのように勇利のお尻をもんで、勇利の吐息に色をつけさせようとする。勇利を芯からとろとろに溶かして、熱に浮かせて、耐えきれずに勇利がヴィクトルの唇を甘噛みしたところで、朝には過ぎるほどのバーチャル・セックスは終わりを見せた。
「......僕、いま死んでもいい」
「そういうこと」
 ちゅ、と吸い付いて離れた唇は、どこまでも幸せの味がした。

 ふたりは結構な面倒くさがりだ。幸せや楽しみのために手を惜しみたくはないけれど、簡略化できるならそちらを選ぶ。長谷津を離れてしばらく、ヴィクトルはゆ〜とぴあかつきで慣れ親しんだのとは違う、顆粒だしの味に不満を漏らしていたけれど、きちんとした出汁の取り方を勇利がレクチャーしてからはそれも消えた。フリーズドライのお味噌汁だっていいものだ。手軽な幸せで満足できる。白米にインスタントのお味噌汁に、昨日の夕飯の残りと中途半端に余ったボルシチ。カロリーと栄養素さえ足りていれば、すべて世は事もなし。

 朝食を食べながら話すのは、もっぱらその日一日の予定だ。
 勇利は現役選手から引退するまでの間、ヴィクトルをまねてスケートの様々な分野で実績を残した。おかげで移住を決めた時に仕事はさほど苦労なく見つけられて、以来勇利は望みどおり、ヴィクトルと一緒にスケート漬けの人生を送っている。日本人であることを誇りに思っていることに変わりはないから、二ヶ月に一度は日本での仕事もこなす。ありがたいことに、現役を引退してはや数年がたった今でも、いまだスポンサー契約をしている会社がいくつかある。日本男子にフィギュアスケート旋風を巻き起こした日本のプリンスの人気はいまだ根強いらしく、試合解説、バラエティのゲスト、ブランドの広告塔として日本に呼ばれることもしょっちゅうだ。
 今シーズンはユーリを含めた三人のロシア人選手の振り付けを手がけていて、チェックや演技指導に毎日駆り出されている。ヴィクトルも似たようなものだが、本国ロシアに居を構えている彼のスケジュールは多忙で、アイスショーのプロデュース、モデル、テレビのコメンテーターなどその種類は多岐にわたる。
「ヴィーカ、今日は僕ローシャの代打でBノービスの女子見るからちょっと遅くなるけど、帰りどうする? 待ち合わせする?」
 ボルシチと白米は、意外といける。ラーメンのスープに白米を浸すことを覚えたヴィクトルも、いつのまにかそんな食べ方をするようになった。
「んー、俺も今日は遅くなってしまうかも......。帰り、どこかで食べようか」
「僕ペリメニ食べたい。最近作ってない」
「なら通りのかどの所いこう。終わったら連絡するよ」
 キスを鳴らして連絡会は終わり。あとはひたすら食べるだけ。

 スケートリンクへは、徒歩でゆっくりいくこともあれば、少しだらだらして車で素早く行くこともある。勇利は玄関先で準備を済ませると、いつもなら勇利の髪やら服やらをチェックするために触ってくるヴィクトルがなかなかこないのに振り向いた。ストールを首回りに巻きながら、彼は窓の外を見ていた。
「ヴィクトル?」
「うん、今いく」
 靴を選ぶヴィクトルを横目に、勇利は今しがたヴィクトルが見ていた方向を窓から見てみた。通勤する人、犬を散歩する人、学校へ走る子供。ありきたりの風景だ。
「勇利」
「うん、今いく」

 四月の終わりは、もうずっと長いこと空が明るい。ペリメニは美味しかった。ロシア人と日本人の味覚はよく似ていると聞いたことがあるけれど、その通りかもしれないと勇利は思う。結構な頻度で和食を口にしているけれど、ロシア料理に飽きが来たことは一度もない。よそ行きの味よりも、家庭料理の素朴で優しい味が勇利は好きだ。その割に好物はがっつりしたものだけれど。
 レストランは家から近い。帰ろうとする勇利を引き止めて、ヴィクトルは彼を公園へと連れていった。ふたりの住処は高級住宅街の一角にあり、豊かな緑に囲まれている。遊歩道を散歩する人、犬を散歩する人、子供と一緒に遊ぶ人など利用者は様々で、家からは少し遠回りになってしまうけれど、こうして公園を歩くのも勇利は好きだ。手は繋がないけれど、肩が触れ合う距離で歩くと、少しずつヴィクトルとの歩幅があっていく。二人の歩きのリズムが合うのだ。そういう些細なことが嬉しいし、小さなことだって大事にしていきたい。
「ねえ、......勇利」
「なに?」
 ヴィクトルが勇利を散歩に誘う時は、いつも何かしら話がある時だ。彼自身のこと、勇利のこと、または二人のことについて。長谷津の海辺を思い出すからか、大事な話がある時、彼は勇利を外に連れ出す。
 ヴィクトルはゆっくり足を止めると、勇利の目をじっと見つめて、自分の足元を見て、そしておもむろに指を唇に触れさせた。いつのまにか勇利にもうつってしまった考え事のくせ。
「俺......」
 遠慮がちな子供のように、ヴィクトルの声がそっと風に乗る。彼の視線は、広場を悠々と歩く犬たちに注がれていた。
「俺、また飼いたいな、プードル」
 眩しそうに目を細めて、ヴィクトルは耐えきれずに俯いた。勇利が一歩近づけば、すぐにわかる。宝石のような瞳に、うつくしい水たまりができていた。彼の?を両手で包むと、親指にじんわりと泉が溶ける。静かにヴィクトルを見つめ返す勇利に、ヴィクトルはまた同じ事を繰り返した。親に叱られる子供のように、言い訳を、愛おしい言い訳を口にのせた。勇利が震える喉を必死で押し殺してるだなんて知らずに、ヴィクトルは勇利の両手をそっと掴んだ。
「俺、マッカチンがいなくて、どうしようもなく寂しくて......勇利をかわりにしているような、ひどい態度もとったけど......」
 勇利は首をふった。
「そんなことない、ヴィクトル。ヴィーチャ。あなたはいつだって、ちゃんと僕を大切にしてくれたよ。マッカチンのことだって」
 ヴィクトルの瞳に、じわりじわりと溢れるものがある。そういえばマッカチンの名を出したのは、彼が永遠の眠りについてから初めてのことかもしれなかった。
「俺は.......俺は勇利......15年も一緒にいてくれたマッカチンを......」
 ヴィクトルは勇利の両手を握り締めると、祈るように口元に持っていった。涙をとめるものがなくなって、勇利は額をこすり合わせた。
「15年も......それなのに、一緒にいてくれたあの子を忘れるみたいに、新しい犬を......飼うのって俺、......俺は、あの子を裏切っているような......そんな気が、してたけど......」
 ヴィクトルは許しを請うつみびとのように、勇利の両手を額まで捧げもった。
「三年しかたえられないの、短いかな?」
 自嘲気味に絞り出された言葉に、勇利はちいさく首を振った。背伸びをして、再びヴィクトルと額を合わせる。いつのまにか彼の瞳にも涙が溢れていた。ヴィクトルはようやく勇利をみると、でも、と小さく呻いた。
「短いかも、しれないけど......」
「うん......」
「でも...でもまた、あの子みたいな家族が欲しい。今度は最初から、俺と勇利の家族の子が......」
 勇利は両手を振りほどくと、ヴィクトルの両頬をつつんで顔中にキスをした。
「っ......うん、...うん。ヴィクトル。ヴィーチャ。愛しい人。また飼おうよ、プードル。きっと素敵だよ......」
 ヴィクトルはとうとう、たまらず勇利を抱きしめた。震える肩も、もれる嗚咽も、すべて勇利が吸い取ってくれる。唯一の友もそばにいずに、ここまで幸せな日常をおくれた事に、ヴィクトルは神様に感謝した。いつだってヴィクトルのそばにいてくれた、顔をなめて慰めてくれた、変わらぬ愛を捧げてくれた、誠実で忠実で心優しい、ヴィクトルの唯一の家族だった、あの子を失って。いつだってヴィクトルのそばにいてくれた、顔にキスをしてくれた、変わらぬ愛を捧げてくれた、繊細で尊くて愛おしい、ヴィクトルの唯一の家族になった、勇利と三年。変わらず幸せだった。つらい事もたえられた。でも、二人と一匹だった方が、もっともっと、幸せだった。痛みを抱えて生き続けることは、苦しくて悲しい。マッカチンのものばかりを入れていた、キッチンの戸棚をまた開けたい。一生一緒に、生きて生きたい。ヴィクトルの半生を一緒に歩んでくれた、愛しい友人も一緒に、また。
「マッカチン、許してくれるかなぁ......?」
 それだけが怖い。マッカチン、僕のとも、君は許してくれるだろうか。たった三年、なんて薄情だと軽蔑するだろうか。
「ヴィクトル、僕をみて......」
 勇利の瞳は、ヴィクトルを愛おしいと言ってくれていた。愛おしくてたまらないと、勇利はかわらず涙をこぼすヴィクトルの目尻にキスをしてくれた。
「マッカチンはね......ヴィッちゃんがいなくなって、寂しくてたまらなかった僕に、そっと寄り添ってくれたよ......。夜、ふとあの子を思い出して体が震えると、マッカチンがドアを引っ掻くんだ。僕がドアをあけると彼は、勝手に僕のベッドに入って、一緒に寝ようといってくれた」
 勇利の唯一のともだったヴィクトル、ヴィッちゃん。彼の小さな家族の話をきいたことは、あまりなかった。時折さみしそうにしても、涙をこぼすところをみたことがなかったから、ゆっくりと乗り越えられているのだろうと、ヴィクトルはずっと思っていた。
「でも僕は、ヴィッちゃんが僕に怒っているなんて、そんなことは思わなかった......マッカチンが言ってくれたからだよ。大丈夫、僕が、寝ている君の涙をなめとってあげるから、たくさん泣いていいよ......僕は彼にたのまれてここにいるからね、って......そんな風に、マッカチンは僕と一緒にいてくれたよ......」
 勇利ははあ、と息を吐き出した。ぼろりと大粒の涙が?を伝って、にぎり合う二人の手に落ちる。
「だからきっと、マッカチンだって、僕たちの新しい家族を歓迎する......よかった、勇利だけじゃ心もとなかったんだ、ぜひ君が、僕の代わりにヴィクトルの涙を舐めとってくれって、そういって、僕たちの新しい家族を歓迎する......」
 ねえヴィクトル、そうでしょう。あなたのともは、おおらかで優しい、そんな子でしょう?
 勇利はそう言って微笑んだ。嗚咽をもらすヴィクトルの頭を撫でて、顔中にキスをした。ヴィクトルの瞳からあふれんばかりの涙を、全部すくい取って抱えてあげたい。そう思うから、勇利は何度も、彼の?を撫でた。
「ヴィーチャ、キスして」
 勇利は眼鏡を取り払った。皮膚が溶け合うくらいにそばにいたい。バタフライ・キスだけでは、彼のこころまで触れ合えない。
「僕はずっと、離れずにそばにいるよ。僕たちの新しい家族も。......だから、キスして」



ねー、マッカチン

2016年11月23日(2016年11月20日初出)