五月、サンクトペテルブルグ。
 わずかに残る寒々しさの中、顔を見せる春の陽気によろこぶ人が集まるスケートリンクの場内を、ぎこちなく歩く人影が、一つ。

 大きなスーツケースをごろごろと転がしながら、きょろきょろと視線を彷徨わす姿はいかにも観光客といった感じで、受付をつとめている彼女は眉をひそめた。あのヴィクトル・ニキフォロフが拠点にしているリンクとあって、ここの人気は凄まじい。一般開放はしていなくて、客を装って彼を見ようと訪れるファンの防止にもつながっている。あの様子なら入口の警備員に止められてもいいはずなのに、一体何をしているのかーーー。そんな呆れた思いとともにカツカツとヒールを鳴らしながらその人へ歩み寄ったオリガは、音に気づいてこちらを振り向いた顔を見て、思わず止まった。
「あっ......受付の人、ですか?」
 申し訳なさそうにへなりと眉を下げたその女性は、ぱっと見野暮ったい。伸ばされた髪は美しいけれども無造作に扱われていて、旅の疲れが出ているのかどこかヨレている。服だってコートにジーパン、ニット帽、加えて大きなメガネとマスクといった具合で、全くもって、この場にふさわしいとは言えない出で立ちだ。ハイブランドの店に訪れようものなら、問答無用でガードマンに蹴り出されそうな彼女を、それでも、ただの受付嬢としてでしかスケートに関わっていないオリガでも、決して見間違えることはない。スケートを国民レベルで愛しているロシアの人間ならではこそかもしれないが、それでもそのメガネのおくにひかる凛とした輝きは、隠すことはできないのだ。
「勝手にはいってごめんなさい、あの、ミス・リリア・バラノフスカヤがこちらにいると......きいて....きたんですが......」
 オリガの眼光の鋭さゆえか、目の前の少女然とした彼女は、萎縮したように語尾をしぼませた。

「ユウリ・カツキ......!?」
 GPF、世界選手権ともに、四連覇を果たした氷の女王が、居心地わるそうに肩を縮こまらせた。



一緒にワルツを



 受付嬢が興奮冷めやらぬといった具合でリンクに連れてきた女王の登場に、スケーターたちはさざめいた。
 どうしてここに? ヴィクトルに用事だろうか? なにせフィギュア界のツートップだしーーー。そんな具合でざわざわと騒がしい群衆に背中を押されるようにヴィクトルが勇利の方へ滑り出した時、それよりも先に勇利を鋭い声で呼んだのはリリアだった。
「ユーリ! こっちよ、いらっしゃい」
 空気を突くようなまっすぐな声の出所に、勇利はすぐに気がついたようで、アウェイに一人放り込まれた気まずげな顔は一変、嬉しそうに華やいだ。重そうなスーツケースをがらごろともたつきながら転がして、リリアの元へ駆け寄る。かたく抱きしめあって和やかに会話をする二人に、ヴィクトルはつい興味を惹かれてそちらへ滑って行った。

「リリア! よかった、会えて!」
「よく来てくれました、ユーリ。空港まで迎えにいけなくてごめんなさいね、わざわざこんなところまで」
「謝らないで! この話を受けてくれただけで、私すごくありがたいんだ」
 長身のリリアを見上げる勇利の瞳は輝いている。やっと知り合いに会えたという安堵もあるのだろうが、これから起こることが楽しみで仕方がない子供のような爛々とした輝きだ。リリアの厳しさを知らないわけではないだろうに、自分の糧になることはなんだって幸せそうに享受する勇利のまっすぐさは、リリアの好むところだった。
 勇利は昔、リリアがまだ現役だった頃に知り合った日本人バレエダンサーの生徒で、彼女のことはそのミナコからよく話を聞いて知っていた。特に勇利が幼いころは、ミナコはまだ指導者としては若輩で、たびたび勇利の踊りの動画を送られては、どのように指導するのがいいだろうかと助言を求められたものだ。勇利もリリアの話はミナコによく映像とともに聞かされていたようで、五年前に初めて顔を合わせた時、はじめましてと緊張しながらも親しさをにじませた挨拶をされた。
 それ以来、折をみて連絡を取り合っていたのだが、今回勇利がわざわざデトロイトからサンクトペテルブルグまで大荷物を引っさげて来たのは、リリアのもとで二週間、バレエ漬けの生活を送るためだ。地元をでてから約五年、ひとときもバレエの練習を欠かしたことはなかったが、指導者の有無は大きい。一度、久しぶりに徹底的に鍛えられたいと、勇利はリリアを頼ってきたのだ。勇利は今日から二週間、リリアの自宅で生活しながら、朝から晩まで身体中を作り変える。
 リリアはちらりと後ろを見ると、案の定、今日から新たに生徒となるもう一人の幼いユーリと、夫婦として支え合ったことのあるヤコフが、よくわからんといった顔で彼女たちを見ていた。珍しく、どっちつかずなことをしてしまったという自覚はリリアにある。遥々ここまで来てくれた勇利にも、15歳らしかぬ覚悟をみせたユーリにも全力で向き合うことを改めて誓って、リリアは勇利をいまだ困惑したままの男二人に引き合わせた。
「ユーリ、昨日決まったことで、あなたは空の上でしたから伝え損ねましたが、今日からこのユーリの指導も...」
 リリアは勇利にむかってガンたれていたユーリの顎をぐいと掴んで上を向かせ、
「します。二人とも私の家に住んでもらうことになりますが、いいですね?」と言った。
 指導してもらう立場で、勇利に否やがあるはずもない。リリアのことだから、二人同時に受け持つからといって中途半端なことをしないのはわかっている。こくんと頷いた勇利に頷き返して、リリアはまたもユーリの、今度は頭をがっと掴むと、相変わらず勇利にメンチを切りまくっていた彼の姿勢を正させた。
「この子にはすぐさま荷物をまとめさせます。あなたには悪いけれど少し待っていてちょうだい。ここには休憩室はあったわよね、ヤコフ」
「あ、ああ...それなら......」
 会話の矛先を鋭く向けられて、ヤコフが返事をする。彼の視線はぎりぎりと姿勢を矯正されているユーリにいった。大型犬にむかって威嚇をする猫のようで、ヤコフは胃がキリキリする思いだ。誰に案内させるがいいだろう。やはり同じ女子選手のミラだろうか、とヤコフが赤毛を探して視線をうろつかせたところで、「ねえねえ〜〜」と気の抜け切った声がかかった。
「それなら俺とお茶しようよ、ユーリ?」
 にぱ、と愛嬌たっぷりに笑ったヴィクトルが、いつからそこにいたのか、リンクフェンスに肩肘をついて勇利を見ていた。
「ヴィクトル......」
 目を丸くしている勇利に、ヴィクトルは「ハーイ、ユーリ?」なんて茶目っ気たっぷりにウィンクを飛ばしている。そういえばこの二人は、もう何年もメディアに王者と女王としてセットで扱われているのに、話すところを見かけたことがないな、とヤコフが思い出していると、同じようなことを理由にヴィクトルが再度勇利を誘っていた。
「ユーリ...あ、男の方ね、荷物まとめるにしても、しばらくリリアの所にいるんじゃ、大荷物だろ? こんなところに一人待たされたらユーリがかわいそうだよ。俺たち、いつもセットにされるのに、一度もプライベートで話したことないし、対談だってないし。ね、どうかな」
 勇利の手をぎゅっと握って、甘く囁きかけるヴィクトルに、彼女の顔は真っ赤だ。インタビューや他の男子選手との交流を見ても、男慣れしていないのだろう。でも練習が、とヤコフの方を見る勇利にはぁとため息をつくと、ヤコフはあえてヴィクトルに許可を出した。
「行って来い、ヴィクトル。あまり彼女を拘束するなよ」
「わかってるよ、ヤコフ。じゃ、勇利。俺準備してくるから、待ってて」
 ヴィクトルはどうすれば自分が魅力的に映るのか、よくわかっている。また勇利にウィンクを投げかけて、彼は意気揚々と滑って行った。

 勇利の重たい荷物をすべて受付に預けて、ヴィクトルは彼女を徒歩五分もしないカフェに連れて行った。受付のオリガは鼻息荒く、勇利の荷物は責任を持って預かるから安心してと熱心に誓って、勇利にサインを求めていた。
 カフェは広々としているが、ヴィクトルは奥まった席に勇利を案内する。

 ユウリ・カツキ、23歳。ヴィクトルより4歳年下のスケーターは、ヴィクトルが国際大会で二連覇を達成した年に、シニアデビュー二年目にして初優勝を果たした。とにかく非の打ち所がないスケーティングスキル、それに裏打ちされたステップとスピンに、類稀なる豊かな表現力で、PCSを積めるだけ積んで、ジャンプなどのテクニカルエレメンツの細かいミスをカバーするといった印象が強い選手だ。憑依型よりで、スイッチが入ると、人格どころか魂が入れ替わってしまったのではと錯覚するほど雰囲気を変えてくる。ヴィクトルが三連覇、勇利が二連覇を果たしたあたりでメディアは「これは絵になるぞ」と思ったらしく、なにかとペアで扱われて来たが、こうして向かい合って話したことはほぼない。一度リンクを降りれば、女王然とした凛々しさと冷たさはなりを潜め、ティーンに見える童顔がふにゃふにゃと相好を崩す。大会後のバンケットですら、勇利はヴィクトルと一言二言話したあたりで助けを求めるように視線を彷徨わせるから、いつもリンクメイトだというピチット・チュラノンか、ジュニア時代からの友人だというクリストフ・ジャコメッティが間に入ってくるくらいだ。ほおを赤らめて自分に挨拶するから、嫌われてはいないとは思うが、とにかく知っているのは、男慣れしていなくて、仲がよさげなピチットやクリスですら、四年、五年、という付き合いの果ての賜物だということくらい。どういう精神構造かは知らないが、それでも勇利はこの四年、ヴィクトルと唯一並び立つにふさわしいと称される華々しい戦歴で、女王として君臨して来た。ここらで親睦を深めて見たいとヴィクトルが思うのも当然だ。

 幸いヴィクトルは他人との会話が得意だ。ヤコフからすればひたすらに不躾なだけ、と称されるそれも、彼の美貌と経歴が合わさればチャーミングで気さく、王であることを当然とする傲慢さに憧れはすれど、妬みはわかない、非常に好感の持てる青年として表に出る。会話下手な勇利を、たくさんの話題で誘導するのは苦じゃない。最初は世間話から始まって、徐々にお互いのことに踏み込んでいく。
「へえ、勇利もプードル飼ってるんだ。いつから?」
「だいたい11年前かな......ブラウンのトイプーなんだ。先々月、......先々月に、亡くなっ...たんだけど......」
 言い終える前に、悲しみが蘇った勇利の大きな目に涙が浮かぶ。ごめんなさい、と小さくしゃくり上げた勇利の手を、ヴィクトルはそっと握ってあげた。長いこと自分を支えてくれた愛犬を失うことは、想像するだけでヴィクトルの胸に鋭い痛みが走るほどだった。
「ごめん、辛いことを聞いたね。名前は? どんな子?」
 勇利は携帯の画像を漁って、お腹をみせて愛くるしく首をかしげるトイプードルの写真をヴィクトルに見せた。真っ赤な首輪が似合っていて、黒い瞳が可愛らしい。思わずゆるゆると目尻を下げたヴィクトルに、勇利も涙をぬぐいながら笑う。
「可愛い子だねぇ......名前は? オスだよね?」
「名前は......ヴィッ....ちゃん」
「ヴィッチャ?」
 ヴィクトルが思わず顔を上げると、勇利はわたわたと顔の前で両手を降った。
「ちがう、ヴィっちゃん。ヴィっちゃんていうの」
「へぇ。俺の名前みたい」
 思わずギクーッとした勇利に気づかず、ヴィクトルは勇利のヴィっちゃんフォルダを次々とスワイプして行った。
「ロシアでは、親しい人同士では愛称で呼ぶのが普通なんだよ。俺はヴィーチャとか、ヴィーカとか。さすがにヴィッチャンはないけど......。どういう意味?」
「えと...ええと、......ヴィ、ヴィクトリー」
「ワオ! それも同じだ」
 にぱーと嬉しそうに笑うヴィクトルに、勇利もつられてへらりと笑う。恥ずかしくてたまらない勇利の胸中も知らず、ヴィクトルは女王が自分と同じ犬好きであるという事実にシンプルに喜んでいた。日本語で勝利はヴィッチャンと言うんだねえ、なんて言って、勇利をヒヤヒヤさせながら。

 犬のことをヴィクトルに親身になって慰められたのが功を奏したのか、次第に勇利もはきはきと喋るようになった。ヴィクトルの昨シーズンのプログラムの話になった途端、メーターが振り切れるように始まった熱弁には、ヴィクトルも度肝を抜かれた。慌てて恥ずかしそうに落ち着く勇利に、仕返しとばかりに、勇利のプログラムについてもコメントをしていく。見てたの、と驚く勇利に、もちろん。と返す。
「むしろどうして見てないと思ったんだい? 君のプログラムだよ?」
 それを聞くと、勇利は気まずげに、嬉しそうに、はにかんで......そんな色々な感情が混じった顔を見せた。

 話し始めて二時間ほどたって、勇利の携帯にはリリアからメッセージが届いた。曰く、ユーリが準備を終えて戻って来たからリンクに戻ってこい、と。勇利が合流したら、ヤコフが三人をまとめてリリアの自宅まで送り届けてくれるらしい。そのメッセージをヴィクトルに伝えると、彼は頷いて、じゃあそろそろ戻ろうと会計のために立ち上がる。勇利は慌てて、その手を掴んだ。
「待って、ヴィクトル、あの......」
 まだ何か言いたそうな様子の勇利に、ヴィクトルは再び腰を落ち着けた。うろうろと視線を彷徨わせる勇利の顔は真っ赤で、どうしたらいいかわらかないといった風だった。
 そんな勇利は、これが最後だ、という思いだった。ロシアだし、サンクトペテルブルクだし、ヴィクトルを見かけることぐらいはできるかもしれない。そう思ってはいたが、まさか会って話までできるとはこれっぽっちも思っていなかったのだ。この地に滞在する二週間、本当にみっちりバレエ漬けになる予定のため、リンクにいくこともまずないだろう。プライベートでヴィクトルとこうして話せる機会なんてないかもしれない。勇利の経歴を鑑みれば、ヴィクトルと時間を作るくらい周りが進んでしてくれそうなほどだけれど、コーチや恩師に呆れられるほど、勇利の女王としての自覚は薄い。自分がどれほど影響力のあるスケーターなのか、まるでわかっていなかった。だから勇利は、きっとこれが最大のチャンスだと思って、いままで大会でヴィクトルに会ってもできなかったことを、お願いしようとした。
「お願いが、あるんだけど」
「お願い? 何?」
「あー...あの〜〜....」
 じわじわと顔が赤くなっていくのが自分でわかる。両手で鼻と口を隠すようにして、
「もし、もしよかったら、もしよかったらなんだけど、」
 と繰り返して念を押してから、耐えきれずに顔を覆ってしまってから、か細い声で言った。

「さっ...サイン...ください......」

 ヴィクトルはぽかんと口を開けて、あっけにとられた。
 あまりに熱のこもった、潤んだ瞳で「もしよかったら」なんて言われたから、ヴィクトルはてっきり、よく女子選手にやられる「私たち同じフィギュアスケーターだし、話が合うと思うの...」という手口の熱烈な交際の申し込みかと思ったのだ。女王も人の子か、なんて自分を棚に上げて、そんな勇利に内心すこしがっかりしたほどだった。それがどうだろう。葛藤の末、勇利の口から出て来た懇願は、とんでもなくお手軽な、それでいて愛のこもったお願いだったのだ。
「サイン? なんで?」
「えっ」
 理由を聞かれるとは思っていなかったのか、勇利はびっくりした顔でヴィクトルを見た。
「な、なんで?」
「だって俺たち同業者でしょ?」
 ヴィクトルだって、いや勇利も、後輩やシニアに上がって来たばかりの若手のスケーターにサインをねだられた事はある。だがそれはまだ、彼らが自分がヴィクトルと同じ世界のトップで戦う技量か、覚悟がないからだ。クリストフや勇利のように、ヴィクトルと同じレベルで第一線を走って来たトップスケーター達から請われたことはない。サインよりもまず連絡先を交換してきた。
「その......」
 勇利はYESかNOかの二択だと思っていたお願いに、まさかの質問で返されて、頭のなかはぐるぐるだった。
 ヴィクトルの言いたい事はわかる。同じ世界に立てるようになると、憧れの人は少しずつ自分と同じ立場で見えて来て、憧れてはいても、自分は対等に戦えているのだという誇りが湧いてくる。それは勇利だってそうだ。けれどヴィクトル・ニキフォロフに関しては、そんなのは当てはまらなかった。
 勇利はヴィクトルのファンだ。この四年間、ヴィクトルに認められたい、ただそれだけをモチベーションに戦って来た。彼に声をかけられることも鼓舞されることもなく、二連覇してもヴィクトルの瞳にはきっと自分は写っていないだろう。でも、三連覇したら、四連覇したら。ただそれだけを考えて、この四年、たった一人で女王の座を守って来た。そんな自分に対する、ご褒美のような時間がいまあったのだ。締めくくりに、これを決して忘れないよう、証のようなものが欲しかった。ただそれだけなのに、サインを欲しい理由を聞かれるなんて、思ってもみなかった。
「ヴィクトルは......」
 勇利は指を組むと、そっと唇に当てた。
「ヴィクトルは......あなたは......私は、あなたのファンで......」
 ヴィクトルをちらりと見ると、だから? といった顔で見て来たので、勇利は羞恥に泣きそうになりながら、なおも続けた。
「ノービスの頃からあなたのファンで...その、テレビで......私はあなたに憧れて......ここまで......だから......」
 もうそれ以上は言えなかった。恥ずかしくて死にたい。
 涙はこぼさない、それだけは必死に守りながら、勇利はとうとう限界まで俯いて、膝を両手でぎゅっと握った。
「ユーリ、わかった、ごめん、サインするから、顔をあげて。そんなに縮こまらないで」
 ヴィクトルは慌てて彼女の両肩を掴んで顔をあげさせた。不躾な質問をしてしまったと後悔する。サインなんて何も聞かずにあげればよかったのに、この世で唯一ヴィクトルと同じ立場であるはずの勇利からそんなものを求められて、ついつい聞いてしまったのだ。
「ごめんなさい......」
「謝らないで、俺が悪かった。ごめんよ、まさか君にサインを求められるなんて思わなかったんだ」
 恥ずかしさのあまり涙すら滲んでいる勇利の目尻をメガネの隙間からそっとなぞって、ヴィクトルは謝った。
「何にかけばいい? 手帳とか?」
 ひたすら申し訳なさそうに縮こまる勇利にそう聞けば、彼女は数瞬おいて、別の意味で真っ赤になると、こくこくとなんども頷きながら鞄を漁り始めた。

 かわいいな、と思った。
 表彰台に登るとき、ふにゃりと気の抜け切った可愛い笑いかたをする子だなと思っていたが、それ以外の時は常に女王らしく貫禄のある、きりりとした佇まいだったから、素の彼女がこんなにも素朴で少女然としているだなんて知らなかった。
 ふと、勇利がテーブルにおいている携帯の待ち受け画面が目に入る。見慣れたそれに、ヴィクトルは思わず画面を凝視した。
 今シーズン初めの大会でお披露目したフリーの衣装は、王者をイメージした華やかなもので、一瞬で人気になった。大会から一週間後にはスポンサーからグッズ展開の話が持ちかけられたくらいで、そのうちの一つが、この衣装をモチーフにした携帯の待ち受けイラストだった。ヴィクトルの直筆のサインも載っている。
(こんなのまで持ってるのか......)
 勇利が顔をゆでダコにしてまで告白してきたファンであるということが実感として湧いて来た。
「ヴィクトル、」
 勇利は手帳を取り出すと、パラパラとページをめくって、結局革の手帳カバーの内布の部分と、油性マジックペンを一緒に差し出しながら、
「お願いします、」
 とか細い声で言った。声のみならず、差し出す手まで震えている。
 ヴィクトルはそれを穏やかに受け取って、さらりとサインを書く。Dear のあとにちょっと迷って、シンプルに Yuri と付け加える。サインの下に今日の日付を加えて、ペンのキャップを戻すと、ヴィクトルはおもむろに手帳をパラパラとめくった。
 連絡先のページを見る。最近はもっぱらみんな携帯を使うから、そこは使われずまっさらだ。
 ヴィクトルはコートの胸ポケットからペンを取り出すと、一番左上の欄にペン先をあてた。
「え、あの、ヴィクトル?」
 父称も入れたフルネーム、メールアドレス、電話番号、住所、誕生日、ツイッター、インスタグラム、フェイスブックのアカウント名。それらをザクザク書き込みながら、あのね、とヴィクトルは目を丸くして困惑している勇利に声をかけた。
「俺だって君のファンだよ」
 ページを開いたまま手帳を返すと、勇利はまじまじとそのページを見た。
「これ、俺の連絡先。連絡して、いつでも」
「は?」
「君の熱意に、感動したから」
 ヴィクトルはトントン、と置かれっぱなしの勇利の携帯を指で叩いた。
 固まって、すぐに勇利は顔を真っ赤にした。一日になんどもなんども、顔を赤くする子だなあとヴィクトルは笑う。ごめんなさい、とまたも蚊の鳴くような声で謝る勇利に、さっきの発言は聞いてないな、と苦笑した。
「謝らないで。俺も持ってるよー? ユーリのグッズ」
「......へ?」
 ヴィクトルは自分の携帯を操作すると、結局SNSにあげずじまいだった一枚の写真を彼女に見せた。
「君の去年の衣装をモチーフにしたポーチ、買って、使ってるんだ。リップバームとかネイルオイルとか、化粧品入れて。いつも持ち歩いてるんだよ? それから、君の今年のカレンダーも。それは貰い物だけど。今月の写真いいよね。春の陽気のなか滑るユーリ、って感じ」
 もはやキャパシティを超えたのか、勇利は「あう」とか「ひい」とか、目をぐるぐるさせながら唸るばかりで、ヴィクトルの言うことをほとんど聞いていない。俺のファンっていうのは本当なんだなあと感慨深く思って、このままだと申し訳ないとかよく分からない理由でヴィクトルが与えた連絡先も登録しない気がして、ヴィクトルは再び携帯を開いて、今度はインスタグラムを開いた。
 勇利とは面識はあったし、お互い世界王者と女王とニコイチで扱われることが多々あるので、ツイッターは相互だったが、勇利のインスタグラムのアカウントをフォローした覚えがなかった。
「ユーリ、インスタのアカウントは?」
「えっ」
「普通に Yuri Katsuki で検索できる?」
 これかな......とあたりをつけてタップしたアカウントはどうやら当たりのようで、ヴィクトルは写真一覧をみながらフォローボタンを押した。
「ねえユーリ、君もっと自撮りとかアップした方がいいよ、女王が食べ物の写真ばっかりってどうなんだい? はい、笑って」
「えっ」
 腕を伸ばして写真を撮ると、そこには間抜けな顔をして、ちっとも中央に顔をよせていない勇利が笑顔のヴィクトルと写っていた。それを確認して、ヴィクトルは首を左右に降る。
「だめだめ、ユーリ、もう一回撮るよ。今のも可愛かったけどね。はい、笑って。金メダルとった時みたいに。カメラ慣れはしてるでしょ」
 そっとテーブル越しに勇利の肩を引き寄せて、ふたりそろってテーブルの中央に顔がくるように寄り添う。おずおずと勇利が口角をあげたのが目の端で見えたから、撮影ボタンを押す。少々ぎこちなさはあったが、それでもきゅっと目尻のさがったはにかみ顔は可愛くて、よし、と頷く。
「ユーリ、俺の連絡先登録して。で、俺にもユーリの連絡先ちょうだい」
 勇利の携帯を勝手に手に取り、ホームボタンを押してロック画面を出す。彼女の顔面にそれを突き出してアンロック、と言うと、わたわたと親指がホームボタンに押し付けられる。ディレクトリを開いて、新規画面から自分の情報を入力していく。最後に顔アイコンの部分をタッチして、その場で自撮りをして登録した。早業、30秒。勇利があっけにとられている間にそれらを終えると、ヴィクトルはそのまま勇利の情報を引き出して、もう片方の手に自分の携帯を持ちながら、素早く登録した。少し考えたあと、顔アイコンの部分はデフォルトのまま保存する。いくら何でも、いきなり写真を撮るのはマナー違反かな、と今更なことを感じたから。
 漏れがないことを確認して、さっきとった二人の写真をすばやく送る。ピコン、と通知の音で携帯をみた勇利は、顔を赤くしてありがとう、とヴィクトルを見た。
(本当にこの子、さっきから俺のこと困惑してるか真っ赤になってる顔でしか見ないなぁ)
 面白くてくすりと笑うと、また顔が赤くなる。ほんの10分ほど前まで、ヴィクトルと和やかに会話をしていた女性はどこに行ったのだろう。
「それ、インスタに投稿して。ユーリのアカウントから。俺もするから」
「えっ」
「ちゃんとコメントもつけてよ?」
 有無を言わさず、という顔で見ると、勇利はそっとインスタのカメラアイコンをタップした。ぽちぽちとコメントを打っている間、ヴィクトルはあとは投稿ボタンを押すところまで済ませて、そっと勇利の画面を盗み見る。短くも堅苦しい文面に、ヴィクトルは思わずダメ出しをした。
 【I'm in St. Petersburg for a ballet training, and having tea with Mr. Victor Nikiforv. 】
「ユーリ、ダメ。ミスターなんて他人行儀だろう? もっとフレンドリーに、ほら」
 ヴィクトルは自分のコメントを見せた。
「Our Queen, って...」
「事実でしょ? 俺たちの女王様」
 【Surprisingly, this is my first time hanging out with our Queen, Yuri. She's lovely!】
 勇利はうろうろと目を泳がせたが、そっとカーソルを移動させて前半を消して、少し迷った末に色々付け足した。これでいい? と画面を見せてくるのが、なんともいじらしい。新しく作られた文面はヴィクトルのとも良く似ていて、うん。と笑顔で返す。最後はまだ少し堅苦しいと思ったが、これ以上追い詰めるのもかわいそうだ。この女王様は、光栄な事に、ヴィクトル・ニキフォロフを憧れの人、なんて言ってくれたから。
「じゃあ一緒に投稿しよう。Ready, and!」
「ま、待って!」
 勇利はドキドキしているといった顔で投稿ボタンを押した。
 【I'm having tea with Victor, our King. It's an honor.】

 同じ写真のお互いの投稿に、すぐさまハートをコメントがつけられていく。ヴィクトルは自分がフォローしている人間からしか通知がこないようにしてあるが、使い慣れていない勇利は初期設定のままにしてあるようで、一瞬のうちに何千とつけられていくハートとコメントにうろたえた。貸して、と笑って、設定をいじってやる。一瞬のうちに通知が止んで、勇利はほっと肩を落ち着かせた。
「ありがとう、ヴィクトル」
「どういたしまして、女王様」
 勇利に携帯を返そうとした瞬間、彼女の携帯が電話に震える。Liliya Baranovskaya と表示した画面に、勇利の顔がサーっと青くなる。そういえば連絡が来てから、もう30分近く立っていた。慌てて携帯に出ようとする勇利を制して、ヴィクトルが通話ボタンを押す。
「プリヴィエート リリア、ごめんね。ユーリを怒らないで。引き止めたの俺だから」
 席を立ちながら、指で勇利に「出よう」と促す。慌てて立ち上がった勇利をエスコートしながら、ヴィクトルはカウンターまで進んだ。払おうとする勇利をまた手で制して、小言を繰り返すリリアにうん、うん、と相槌をうちながら支払いを済ます。そのまま流れるような手つきで勇利の腕を自分の肘に絡ませると、ヴィクトルは鮮やかにカフェを後にした。
「もう出たよ、五分もかからない。カニェーシナ、ダー。パカー」
 通話を終えて、携帯を勇利に返す。
「ヴィクトル、ごめん、私のせいで」
「謝らないでユーリ、俺は君と話せて楽しかった」
 ユーリは? と尋ねれば、私も、ともごもご返される。よかった、と笑顔で返せば、ヴィクトルの肘に絡められた手がきゅっとコートを握った。

 スケートリンクが見えると、建物の前にはバンの運転席に座ったヤコフと、腕を組んで仁王立ちしているリリアがいた。勇利がヴィクトルの腕から手を離し、小走りでかけていく。
「リリア、ごめんなさい!」
「全く、いつまでかかっているのです!」
「本当にごめんなさい、時間を忘れて......」
 ぺこぺこと腰低く謝る勇利に追いついて、顔を上げさせる。
「だから怒らないでって言っただろ、リリア。ユーリはちゃんと連絡を見てすぐに行こうとしてたよ、俺が引き止めて、長引かせちゃったんだ」
 それは違う、と勇利は否定しようとしたが、その口はそっとヴィクトルの大きな手で覆われた。
 リリアはため息をつくと、勇利の肩に手を置いて促した。
「まあいいでしょう。あなたたちにも積もる話があるのはわかります。さあ行きますよ、ユーリ。トランクは運んでおきました」
「あっ、ありがとう」
 勇利がバンに乗り込むと、イライラと足踏みしながらユーリが座っていた。遅れてごめんと謝れば、チッと舌打ちが帰ってくる。去年のGPFの時といい、どうもこの同じ名前の少年は、勇利に突っかからずにはいられないようだった。思わず苦笑すれば、こんこんと窓が叩かれる。ヴィクトルの姿にウィンドウを下げると、へりに両腕をのせたヴィクトルが微笑んだ。
「ユーリ、こっちにいる間滑らないんだっけ?」
 にこりと笑った顔が、本当に美しくて、愛嬌もあって可愛らしい。ロシア人すごいなあと見ほれながら、勇利は問いに頷き返した。
「うん、リリアにつきっきりで見てもらう予定で......でも彼女の都合がつかない時間は、民間のスケート場にお邪魔しようと思ってる。コンパルソリーだけでもしたいから...」
 ワーカホリックの自覚のある勇利に、二週間ずっとスケートから離れろというのは難しい。フィギュアというよりスケートそのものが好きな勇利は、オフシーズンでもなるべく氷の上にいたい。遊びでもいいし、それがダメならバレエだけでも。だが日本の選手がロシアのリンクをおおっぴらに使うのもどうかと思って、勇利は民間のスケートリンクを一般の客として使うつもりだ。そこなら滑るだけでもできるし、混み具合によっては真ん中でコンパルソリーくらいはできるかもしれない。
「うち使いなよー。ね、ヤコフ」
「え?」
「リリアはユーリの...ああややこしいなぁ、男の方も見るんだから、一箇所にいたほうが指導しやすいよ。リリアがユーリ...ジュニアを見てる間は、ユーリはうちのリンクを使う。どう?」
「いや、どうって言われても...」
 そんなの勇利が決められることではない。第一、ロシアの強化選手が軒並み練習場として名を連ねているようなリンクで、現時点で四年間ずっとロシアの女子選手すべてを退けて頂点に立っている勇利が練習できるわけない。
「だーいじょうぶ、俺が話つけてあげるから。ヤコフいいでしょ!?」
「ああもう、好きにしろ!」
 助手席に座ったまま、いつになったら出発するのかしらとイライラしているリリアをみて埒が開かないと思ったヤコフは、半ば投げやりにそう言った。
「わーい! じゃあね、ユーリ。来るときは、連絡いれて」
 チュッ、とヴィクトルが投げキッスをしたのを皮切りに、ヤコフがアクセルを踏む。バイバーイ、とにこにこ手を振るヴィクトルが、少しずつ小さくなっていく。いいのかなぁ、と思いつつ、なんだか少しずつ楽しくなってきている自分がいるのに勇利は気づいた。そっと手帳を開いてみる。ヴィクトル・ニキフォロフの、直筆のサイン。連絡先のページには、彼の住所まで! 携帯を見れば、何千人という人がハートをくれていて、ヴィクトルの投稿した写真には、「our Queen」の文字。感無量だ。これでまたもうワンシーズン、頑張れる。勇利はそっと目を閉じて、これからの二週間に想いを馳せた。頑張ろう、精一杯。リリアに教わる全てを糧にして、ヴィクトルとのリンクでの時間をバネにして、もうワンシーズン。
 胸はいたいくらいにドキドキしていた。





2016年11月23日(2016年11月13日初出)